創世記3:7-10、21  北松戸福音教会牧師 都鍾倍

クリスマスが近づいています。街中やお店などにクリスマスキャロルが流れ、賑やかな雰囲気となっています。
年末と重なっていることもあり、世の中はクリスマスを一つの楽しいイベントとしています。
クリスマスはイエス・キリストの誕生を記念する日です。ですので、クリスマスには平和、喜び、いのち、希望などのメッセージがあり、その意味ではクリスマスを楽しいひと時とするのは良いことだと思います。
神様がこの世のために、イエス・キリストを送ってくださったと聖書は記しています。イエス・キリストを送ってくださった神様の御心はどのような心だったでしょうか。アドベント第1週の時を迎えて、聖書の言葉に共に耳を傾けましょう。

「人に起きた変化」

神様が創造されたエデンの園はすべてが調和しながら生きることのできる最高の環境でした。
そして、園を管理者として神様は人を置かれました。その人は神様とはもちろんのこと、他の被造物とも平和と調和を保って生きていました。私たちの想像できる、いや、それ以上の素晴らしい場所でした。
ただ一つの禁じられていたことは、園の中央にある善悪を知る木の実を食べることでした。それ以外には何を食べても良かったのです。
しかし、サタンの誘惑もあり、人は禁じられていたこと、つまり神様の命令を無視して、自分の思いに従い、善悪の知識の木の実を食べてしまいました。そして人はその報いが何であるかを知っていました。
「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:17)
このような神様の警告があったにもかかわらず、人は神様の命令を自ら破りました。
その結果がこのように記されています。
「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰の覆いを作った。」(創世記3:17)
神様の命令に逆らった結果起こる変化を一番早く感じ取ったのは、命令を犯した人自身でした。
それは、自分たちが裸であることを知り、それを隠すための覆いを作ったことに表れています。
神様のかたちに似せて創造された美しい自分たちの姿に対して、今まではなかった視点が生じました。
美しい、素晴らしいという視点を失ってしまいました。もうありのままの姿を受け入れることができなくなりました。いちじくの葉で腰の覆いを作ったというのは、ありのままの自分を見せることが恥ずかしくて、恐怖を感じるようになったことです。誰かがそのことを指摘したわけでもないのに、自らそれを感じたのです。人の不幸の始まりです。これ以来、ありのままの自分の姿を見せることができる人は誰もいません。
人は互いにありのままの姿を受け入れることができないので、その代わりに受け入れられる何かを作ったのです。それを通して認められたいと願っているのです。
裸を隠すために作ったいちじくの葉は、ありのままの自分の代わりに認めてもらいたいものの象徴です。
多くのお金を所有している、権力・名誉をもっている、強い肉体を作り上げる、豊富な知識を蓄える等々を通してありのままの姿を隠そうとしています。このようなものは人と人の間において、ありのままの自分の代わりとなるものとしても見なされてます。しかし、本当の自分の姿ではないので、自分たちが犯した問題の解決にはなりません。そのことが次の聖書の言葉から教えられます。

「神様の呼びかけから逃げる」
アダムと神様との本来の関係はとても親密で良いものでした。しかし、善悪の知識の木の実を食べてからはその関係にも影響が生じました。聖書はこう記しています。
「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回れる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。あなたは、どこにいるのか。」(創世記3:8-9)
神様はご自身が創造された世界をご覧になり、良かったとおっしゃいました。そして、人を創造されたその日は、非常に良かったとおっしゃいました。人は神様にとって大きい喜びでした。神様は人と共におられることを喜んでおられました。しかし、その人が神様の声を聞いて怖くなり、神様の御顔を見ることができず隠れるのです。
この瞬間のアダムとエバの心境はどうだったでしょうか。このように記されています。
「彼らは答えた。私は園であなたの声を聞きました。それで、私は裸なので、恐れて、隠れました。」(創世記3:10)
人同士では、裸であることに対して覆いを作り隠すことができます。しかし、神様の前ではその覆いは無用の長物です。目に見える裸を隠すことはできましたが、自分たちの心の中にあるもの‐悪いことをしてしまったという意識、罪悪感-を神様の前で隠すことはできませんでした。それで、怖くなったのです。
この時のアダムの頭によぎる思いは「大変、私のしたことを神様に知られた。私は死ぬ。怖い。とにかく逃げよう」というのではなかったかと思います。神様の命令を破ってしまった人の心には、神様に対する恐怖しかありません。心から神様に喜ばれ、神様を喜んでいた良い関係の記憶がなくなってしまったのです。
神様が自分を呼んでおられるのは、罰を与えるためだと思い込んでいるのです。

「人をあわれむ神の御心」

神様は、罰を与えるために人を呼びかけたのでしょうか。神様が人を探し求められた目的は何であったでしょうか。
まず、分かることは、人が犯した違反がもたらした結果を知らせるためであったということです。そのことが、創世記の3:14-19に記されています。特に16節からは、命令を破った張本人たちのこれからの生活がどのようなものであるかを教えておられます。産みの苦しみ、労働の必要、土地が呪われることです。
しかし、これだけではありません。もしこれだけのために人を探し求められたのならば、単なる知らせでありますし、むしろ心配だけ増やすことになります。でも、それだけのために人を探し求めているのではないことが21節の言葉で良く分かります。このように記されています。
「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」
人のために、初めていのちが殺されました。神様は人のために皮の衣を作ったのです。それから、人をエデンの園から追い出されました。
人は神様から言われた環境の中で生きなければならなくなりました。今までのエデンの園とは全く違う環境です。その人のために、神様は動物を犠牲にされ、人のために皮の衣を作り着せてくださったのです。

私の子供が今より幼かった時のことです。
生まれて健やかに成長し、そろそろおむつを外す時期となりました。それで、排便のことを教え始めました。
また、おむつを履いていてもこれからはおむつに用をしてはならないとしつけをし始めました。
しかし、どんな子供でも最初からうまくできるわけではありません。多くの失敗をするわけです。おむつに用をしてしまいます。私たちはそのことにすぐ気が付きます。まず、におうのです。
そして、子供の行動が少しおかしくなります。うちの子の場合はどこかに隠れたりしました。
子供の姿が見えなくなって、妙に静かになるので、子供を呼びます。どこにいるのかと。しかし、返事はありません。
隠れている場所に行ってみると、悲しい顔をして、しかし何もしていないよという表情を見せながら、私たちが近づいてこないように手を伸ばしていました。時には、力いっぱいおむつの交換やおしりを洗うことを拒んだりもしました。
親としては、早くきれいにしてあげて、気持ちよくまた遊べるようにしてあげたい気持ちで子供を呼びます。そして、そのままだとおしりがかぶれると痛くなるので、そういったことも心配になって早くきれいにしてあげようと思うわけです。そして、当本人もその方がすっきりするはずです。
親はおむつに用をしてしまった子供に罰を与えるためではなく、きれいにしてあげるために呼びます。そして、失敗してもきれいにしてくれる親がいることをも教えようとするわけです。

神様が皮の衣を作り着せてくださったのは、このような親心と同じです。
人がこれから生きていく世の中において、自分の手で作ったいちじくの葉の覆いではなく、神様から与えられた皮の衣を身に着けて生きることが大切だと言うことです。そして、それには神様の人に対する深いあわれみがあらわれています。人はエデンの園からは追い出されますが、神様から捨てられているのではないのです。
こどもが自分の力で、お尻をきれいにすることができないように、人は自分の力では自分の過ちを解決することができないのです。親がこどもの面倒をみるように、神様ご自身がなさる事によって、人は生きることができるのです。
クリスマスは、神様の深いあわれみが今も変わっていないことを示してくれます。人に衣を着せるためにいのちを犠牲にしたように、イエス・キリスト自らいのちをささげ、人を救うためにこの世にお生まれになったのを記念するのがクリスマスです。神様はアダム以来にも人をあわれみ、人のためにご自身から良い贈り物を用意してくださったのです。
私たちの歩みには、苦しみや悲しみも多いでしょう。苦しい道もたくさん通らされるのです。しかし、神様は私達をあわれんで下さり、私たちが歩んでいくために必要なすべてを用意してくださいます。クリスマスはこのあわれみ深い神様の心を忘れないようにと、私達に与えられている良い贈り物です。クリスマスが近いこの時期、このような神様の深いあわれみを覚え、感謝と共に喜ぶ私達でありますように、そして、より多くの人が神様の深いあわれみを知ることができますように祈り求めます。