詩篇104:31-35 北松戸福音教会協力牧師 藤原導夫

【神の言葉を聴こう】

しばらく前、7月26日、日曜日のことでしたが、都先生がインフルエンザにかかられました。
そこで私がピンチヒッターとして説教させていただきました。
その時の説教は、「使徒の働き」18章から「この街には私の民が沢山いる」という題で語らせていただきました。
実はその御言葉は私たちの礼拝堂の壁に、私たちの教会のモットーのようにして掲げられています。
ここには、私たち北松戸福音教会「ビジョン」が「志」が記されているのです。
それは、神様から私たちに対する命令でもあり、励ましの言葉でもあると思います。
この松戸の地には神の民が沢山いるのであるから、くじけないで一生懸命伝道に励みなさい。
私たちはその神様の言葉、語りかけを掲げて歩んでいる訳です。
私たちはなおそのように歩み、働いていきたいと思います。

さて今日の御言葉はどこから取ってきたか言いますと、実は私たちの教会のトイレから取ってきました。
K姉がこの御言葉を筆書きしてトイレの壁に貼り出してくださいました。
私はいつもトイレに入る度に、この御言葉に目を注いでいます。
おそらく皆さんも、そうではなかろうかと思います。

礼拝堂の前面の壁には私たちの伝道という使命、この教会で働くべき目的が記されています。
「この町には私の民が沢山いる」、と。
礼拝堂の後方にあります、トイレには「私の心の思いが神のみこころにかないますように」と記されています。
この御言葉は、私たちに何を語りかけてくれているのでしょうか。
今朝は神様がこの御言葉を通して私たちに語りかけていてくださる声に耳を傾けてまいりたいと思います。

【苦しい時の神頼み】

私たちが「信仰」ということを考える時に、そこには様々な信仰の異なった在り方があると思います。
例えば、このようなことわざがあります。
「苦しい時の神頼み」。
窮地に追い込まれて万事休す、というような時、「神様、助けてください」と神に頼るのです。
大きな事故に遭ったり、重い病気になったりして、「神様、助けてください」と祈るのです。
仕事や商売がうまく行かなくなり絶望的な状態に追い込まれ、そこで「神に助けを求める」のです。
とにかく、困難に遭遇した時、逆境の時に、それこそ「苦しい時に神に頼ろう」とするわけです。
もちろん、私たちクリスチャン誰でも同じところがあります。
「苦しい時に神に頼る」のは自然なことであり、決して間違ったことではありません。

けれども、このことわざには、皮肉が込められていると思います。
つまり、普段の平穏な生活の時には神に頼って生きてはいない。
しかし、自分ではどうしようもない苦しい状況に追い込まれると、急に神に頼ろうとする。
困った時だけ神に頼っていこうとする、そのような在り方が皮肉られているのだと思います。

私がかつて島根県の教会で伝道牧会していた時のことでした。
一人のご婦人がとても熱心に求道を始められました。
その人は、病院の会計士になるための国家試験に挑戦しておられました。
「ぜひ皆さんも私を祈って助けてください」、ということで私たちは一生懸命祈りました。
そして、ついに、見事にその国家試験に合格されました。
しかし、その途端にピッタリと教会に来るのを止めてしまわれたのでした。
私が電話しましたら、近くの医院で会計の仕事が決まったので忙しくて教会にはもう行けません、ということでした。
その方は、二度と再び教会には戻ってこられませんでした。

このような川柳があります……、「神様は、合格したら縁切られ」
これは「苦しい時の神頼み」いうことわざの皮肉とぴったりと重なるのではないでしょうか。
まさにそのご婦人の信仰はそのようなものであったのかなあ、と思わされます。
しかし今、私たちが注目している聖書の箇所には全く異なった信仰の姿勢が語られています。
「私の心の思いが神のみこころにかないますように。私自身は、主を喜びましょう」(詩104:34)
これこそ、聖書が教える真実の信仰、私たちに求められている信仰の姿勢です。

【苦しい時の神離れ】

またこのようなことわざがあります。
あまり一般には知られていないことわざで、知る人ぞ知るといった感じのことわざです。
「苦しい時の神離れ」。

これも私の牧会生活の体験の中の一つですが、一人の中年男性が一時期教会に通っておられました。
仕事がなかなかうまくいかない中で、病気がちで体調を崩していかれました。
「神様を信じているのに、なぜこんな苦しい目に逢わなければならないのか」。
それこそ「神も仏もあるものか」と思ったのでしょうか、ついに教会から去って行かれたのでした。
まさに「苦しい時の神離れ」では、ないでしょうか。

考えてみますと「苦しい時の神頼み」と「苦しい時の神離れ」は、同じ根をもっているように思います。
「苦しい時の神頼み」は、あまりにも苦しいから神様、助けてくださいと、「神様に近づく」のです。
「苦しい時の神離れ」は、あまりにも苦しいから神様なんか役に立たないと、「神から離れる」のです。
一方は、苦しみによって、神に近づこうとする、他方は苦しみによって、神から離れていこうとする。
表れるかたちは違うようですが、中味は同じ一つのことだと思います。
つまり自分自身の利益のため、幸せのため、神様を利用しようとしているに過ぎないということです。
自分にとって役に立つならば、神様に近づき、役に立たなければ、神様を捨ててしまうのです。
要するに、自分の都合の良いように、自分中心に神様を利用しているということにおいては同じです。

キリスト教会の結婚式で読まれる、誓約の言葉を皆さんはご存知と思います。
「あなたはその健やかな時も、病む時も、いかなる時も、これを愛し、これを敬い、 これを慰め、これを助け、そのいのちの限り、堅く節操を守ることを約束しますか」
「健康な時」には結婚を楽しみ、「重い病気」にかかったら別れてしまうということがあるでしょうか。
「富める時」には夫婦であっても「貧乏になったら」離婚してしまうということがあるでしょうか。
そうしてはならない、そのようには生きていきませんと、二人は誓い合うのです。
病気になった、貧しくなった、苦しくなった、そこで別れてしまうならば「苦しい時の神離れ」と同じです。
そこにおいては、「損得」や「利害」が物差しになってしまっているからではないでしょうか
夫婦の絆は病気や貧しさや困難を二人で耐え抜いた時にこそ強くなっていくのではないでしょうか。
健康で苦しみや困難がないということも、それは確かに喜びであることに違いはないと思います。
しかし困難に直面しても、なお共に歩むということをあきらめないところに夫婦の本領があるのではないでしょうか。
その時に二人を結び合わせる絆は損得でも利害でもない、二人を結ぶ絆は愛であるのです。

【神の御心に生きよう】

今日の聖書の言葉は、実はそのような愛を絆とする信仰の姿勢の中から語り出されているのだと思います。
「私の心の思いが神のみこころにかないますように」(詩104:34)
私が中心ではなく、神様が中心なのです。
私の思いや計画に神様を引っ張り込むのではなく、神様の心に私の思いを合わせていこうとする。

「私自身は、主を喜びましょう」(詩104:34)
神様は様々な良き物、プレゼント、恵みを私たちに与えてくださいます。
命、健康、着る物、食べる物、住む所、学校、家庭、職場、美しい自然、数え上げることができません。
でも、そのような素晴らしいプレゼント以上に、「私自身は、主を喜びましょう」と語られています。
プレゼントよりも、そのプレゼントを私たちにくださる神様ご自身をこそ何よりも喜び、愛するのです。
「苦しい時の神頼み」も「苦しい時の神離れ」も、プレゼントの方にしか目が行っていないのです。
プレゼントがもらいたくて神に近づくのです、プレゼントがもらえなくなれば神から離れるのです。

詩篇104:31では、このように語られています、「主の栄光が、とこしえにありますように。主がそのみわざを喜ばれますように」
何よりも、この詩篇の作者は、自分のことより、すべてに勝って神様の栄光を求めているのです。
詩篇104:33 では、このように告白されています、「私は生きているかぎり、主に歌い、いのちのあるかぎり、私の神にほめ歌を歌いましょう」
何よりも、神様を喜び、生涯かけて神様をほめ歌おうとしているのです。

私は今日、46年前の私たちの結婚式の時のネクタイピンを着けてきました。
私と妻は同じ神学校の同級生で、卒業後、何もない貧しい中での結婚でした。
それでも生涯の記念として私は妻に指輪を贈り、妻は私にネクタイピンを贈ってくれました。
ネクタイピンにはラテン語で「Soli Deo Gloria!」(ただ神にのみ栄光あれ!)と記されています。
指輪には「Laos Deo!」(神を讃美せよ!)と刻んであります。
それは、私たちが神の栄光のため生きたい、神を賛美して生きたいと真剣に祈り願ったからでした。
今でも、お互いにその初心はまったく変わることはありません。

この詩篇の作者は、神の栄光が表されることを願い、神をほめ歌うことを喜びとしています。
では、その心の基本姿勢はどのようなものだったのでしょうか。
それが、まさにこの「詩篇104:34」 なのです。
「私の心の思いが神のみこころにかないますように。私自身は、主を喜びましょう」
私たちの都合に神様を合わせようとするのではありません。
むしろ、私たちの思いを神様の御心に合わせようとしているのです。
そしてあらゆる恵み、幸いにも勝って、神様ご自身をこそ喜ぶところへと至ろうとしているのです。
私たちもまたそのような信仰に歩んでいこうではありませんか!