ピリピ4:17-23  北松戸福音教会牧師 都鍾倍

「イエス・キリストの恵みに表れる神の愛」

パウロはピリピの教会の人々への手紙の最後の言葉としてこのように語っています。
「どうか、主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように」(23節)
パウロは最初の挨拶の中でも「主イエス・キリストの恵みがありますように」と語っています。それはパウロにとって、イエス・キリストの恵みはとても重要な意味を持っているからではないでしょうか。
イエス・キリストの弟子たちによって福音が広がっていた伝道初期の頃、パウロはその弟子たちを迫害する者でした。先頭に立って彼らを捕まえる役割を果たしていたのです。しかし、そのパウロがイエス様に出会い、神様の愛を体験するようになり、今度は自分がイエス様の弟子となって迫害を受ける身となりました。多くの迫害を受けながらもパウロは絶えず福音のために働きました。そして、そのように働くことが可能であったのは主イエス・キリストの恵みのゆえであるとパウロは言っています。
つまりイエス・キリストの恵みは、苦しみや絶望の中でも彼を救ってくれた神様の愛を覚えさせてくれるものでした。イエス・キリストの恵みはこのように神様の愛を教え、覚えさせてくれるものなのです。

イエス・キリストの恵みは、イエス様の十字架の死と復活を内包しています。そして、それには神様の愛があらわされています。神様が私達をどのように愛されたかをはっきりと示してくれるのが、イエス・キリストの恵みです。
私たちは以前、神様に対してこのように問いかけたことがあったと思います。
「神様、私達をどのように愛されたのですか」と。
それに対して、神様はこのように教えてくださるのです。
「十字架で死んだイエスを見なさい。彼は私の愛する息子です。私はあなたがたを愛する故に、またあなたがたにいのちと平安、喜びを与えるために彼を十字架の上で死なせたのです。その死は単なるひとりの人間の死とは違う、すべての人を救うための死です。彼があなたがたに対する私の愛の証です」と。
そして、救われた私達を孤児のようにしないという約束、それがイエス様の復活の意味です。神様の愛が私達から離れることがないという確証が復活なのです。すべての困難、悲しみや痛みを共にしてくださるという約束です。イエス・キリストの恵みには、人を救って、共に歩んでくださる神様の愛が示されています。
私も常にイエス・キリストの恵みに助けられている1人です。イエス様の十字架と復活を覚えるときに神様が私を愛して下さることが教えられ、体験させられています。厳しい困難の中で、私を愛して下さる神様の愛に疑いを感じてしまうときにも、私を助けてくれるのはこのイエス・キリストの恵みです。神様は私を愛される、愛する者を放っておくのは神様のなさることではないとイエス・キリストの恵みが教えているのです。
パウロがピリピ教会にイエス・キリストの恵みが共にあるようにと願うのは、ピリピ教会が神様に愛されることを、しかも豊かに愛されることを覚え、互いに愛し合うことを願うからだと思います。私たちの教会も神様の愛が豊かにあふれる教会としてあり続けますように祈り求めます。

「キリストにあってあふれる平和」

イエス・キリストの恵みを覚えるとき私たちは神様の愛を豊かに確信できます。そして、このイエス・キリストの恵みには差別がないことがわかります。それについてパウロはこのように語っています。
「キリスト・イエスにある聖徒のひとりひとりに、よろしく伝えてください、私といっしょにいる兄弟たちが、あなたがたによろしくと言っています。」(21節)
パウロはひとりひとりに挨拶をしていますが、そのひとりひとりを聖徒と呼んでいます。
聖徒は清い人、正しい人とも考えられますが、彼は聖徒である根拠を人が持っている何かで判断していません。
つまり、学識がある、行いが偉い、立派な業績を残している、知恵がある、経験が豊かであることなどではなく、「キリスト・イエスにあって」と記しています。このことから考えると聖徒は、キリストを最高の価値がある方として受け入れる人々と考えられます。生きる目的がキリストにある、キリストのために働く者です。

先週は多くの宣教師たちが集まる集会へ出席させていただきました。世界各国からの宣教師が日本の地で、イエス・キリストの福音を伝えるために働いていることを改めて感じさせられた集会でした。最初の集会で、集会責任者が参加者に対して一つのお願いをしました。それは、集会の中で互いの働きを比べることをしないこと、自分の働きを自慢しないということでした。すべての栄光は神様にささげ、心を一つにすることが求められました。それを聞きながら思いました。私たちの最高の価値はキリストにあると。
キリストにあって聖徒となる。これには差別がありません。国籍も関係ありません。知識、経験も関係ありません。キリストにあってこそ聖徒であり、その生き方はキリストに最高の価値を置くものです。そこに平和が満ち溢れます。一致が豊かに与えられます。
この平和と一致を次のところからもうかがうことができます。
パウロはこのようなことを挨拶に加えています。「聖徒たち全員が、そして特に、カイザルの家に属する人々が、よろしくと言っています。」(22節)
ローマのカイザルの家の者は、パウロを監禁し迫害をしているローマ帝国で働いていた人と考えられます。ピリピ教会の人々とは会ったことのない者達です。もしかして、クリスチャンになる以前にはカイザルに使われることを喜びとしていたかもしれません。しかし、彼らをパウロは聖徒と呼んでいます。そしてパウロと一緒にピリピ教会に挨拶をしているのです。今まで会ったこともなく、しかも違う価値観の中で生きていた者でも、キリストにあって聖徒となり、他の聖徒らと挨拶を交わすのです。
私たちの教会には、日本、中国、韓国の人々が集まっています。しかし、とても感謝なことに私たちはこのことによる争い、不和が生じることを全く経験していません。まさに、キリストにあって聖徒として互いに祈り合う教会として歩んでいます。これは私たちがキリストの恵みを覚え、キリストにあっての聖徒であることをしっかりわきまえているからだと思います。
このようにキリストにあって聖徒として相応しく生きる私たちの教会の姿を嬉しく思っています。これからもこのような平和と一致が満ち溢れる教会として歩み続けましょう。

「霊的祝福があふれる」

パウロは伝道者・牧会者として、イエス・キリストの恵みによって聖徒とされている人々の霊的祝福を求めています。「私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福です。私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(17-19節)
パウロはピリピ教会に対して、贈り物が欲しいとは言っていません。パウロが願うことはピリピ教会の豊かな霊的祝福です。そして、自分はピリピ教会が送ってくれた物によって満ち足りていると記しています。
パウロの状況を考えると「満ち足りている」というこの言葉に驚かされます。「満ち足りる」というのは、感謝と喜びの意味があります。投獄中の状況で満足できるということはどういうことでしょうか。
私たちの感覚ですと未来への対策が整えられていない限り、現在に満足することは非常に難しいことです。はたしてパウロは老後生活の対策がきちんとできているから今満足していると言っているでしょうか。

パウロは今までの自分の歩みの中で幾度も神様の満たしを経験してきました。すべての時において神様はパウロの必要を満たして下さったのです。そして、それは共に信仰を持っている人々からの贈り物によってのことでした。そしてパウロは今もピリピ教会の捧げ物によって満ち足りていると言っています。
私自身、今パウロのように告白することができるだろうか。少し立ちどまって考えてみました。そして、私も満ち足りていると告白いたしました。
過去にも未来に対するいろいろな不安がありました。結婚の時にも、最初の子供が生まれた時、二番目・三番目の子供が与えられた時にも喜びとともに不安も覚えていました。果たして生活のための必要が満たされるだろうか。でも今ふり返って見るとすべて満たされました。
神学校に入学する時にも不安はありました。卒業するために必要な経済的必要が満たされるだろうか。しかし、不安とは全く違う、満たされる喜びをすべての時に体験してきました。その都度その都度必ず必要が満たされました。そして、現在も満ち足りているのです。それは、皆様の捧げ物があるからです。
もちろん、依然として、将来への不安はあります。子供が成長していくにつれ、生活費や学費が多くかかる、身体においても衰えていくことなど。しかし、今までの必要を満たして下さった神様が将来の必要を満たして下さらないと思ってしまうのは不信仰ではないかと思います。神様は必ず、信仰の中で生きる私たちの必要を満たして下さいます。
パウロは、このような捧げものは、神様の喜びとなる供え物だと言っています。人のための捧げ物ですが、これは神様に捧げるということです。パウロはこのように信仰の中で捧げるピリピ教会のために、霊的祝福が満ち溢れるように求めています。そして、必要なすべてが与えられると励ましています。
パウロはピリピ教会が大きく成長し、物質的に豊かになることを言っていません。必要なすべてを満たして下さる神様を体験し、その喜びと感謝の中で次のことを求めています。
「どうか、私たちの父なる神に御栄えがとこしえにありますように。アーメン」
神様の愛を信頼し、平和と一致に満ち、満たされた祝福をもって栄光を神様にささげることが常に行われる教会が霊的祝福あふれる教会ではないでしょうか。
私たちの教会がイエス・キリストの恵みがともにある教会、平和と一致がある教会、信徒たちの日々の必要が満たされる教会でありますように。そして何より、このすべてを通して、父なる神様に栄光を帰すことのできる教会であり続けますようにと祈ります。