ピリピ4:8-9 北松戸福音教会牧師 都鍾倍

「徳と言われる、称賛に値すること」

今日11月の最初の礼拝をささげながら、時間の流れの速さというのを改めて感じています。
もっと若かった時には、時間の流れをそれほど感じていませんでした。年配の方々が年を取るにつれ、時間の流れを速く感じると言われましたが、今になってそのことが本当だということを改めて感じます。
時の流れとともに様々なものが変わっていきます。しかし、唯一変わらないものがあります。それは、神様のみ言葉です。本日も共に神様のみ言葉に耳を傾けましょう。

まず、パウロがピリピ教会の人達に語る言葉に耳を傾けましょう。
「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。」

この言葉を簡単に記すと「徳と言われることや称賛に値することがあるならば、それらのことに心を留めなさい」となります。
真実なこと、誉れあること、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、評判の良いことはすべて徳と言われることですし、称賛に値することです。
心を留めなさいというのは、それらのことを良く、深く考えなさいということです。

パウロは、ピリピの教会の人々が徳と言われること、称賛に値することが何であるかをよく分かっているようなニュアンスで話をしています。分かっていないことに心を留めることはできないでしょう。
「徳」という言葉には、道徳的・倫理的概念が入っています。そして、その根幹には愛によって人を助けることの意味合いがあります。人に益を与える意味があります。従いまして、「徳といわれること」は、人を愛し、助けることによってその人に益をもたらすことです。
そのために求めるべきことが真実なこと、誉れあること、正しいこと、評判の良いことなどです。

「称賛に値する」こととは、誰が誰を称賛することでしょうか。
この言葉は神様を賛美する時にも使われる言葉です。私達の生き方を見て、周りの人々がそれを称賛することと同時に、それが神様にも向けられることを意味しています。
この二つのことを共に考えると、愛をもって人を助け、それを通して神様がほめたたえられることだというのが分かります。
そして、パウロはピリピの人たちがこのことを分かっているから、それに心を留めるようにと戒めています。

「パウロが示したこと」

それでは、ピリピ教会の人達はどのようにして、徳と言われること、称賛に値することを分かっていたでしょうか。パウロはこのように語っています。
「あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」
ピリピ教会の人達が分かっていた徳と言われること、称賛に値することはパウロが示してくれたことです。
「私から学び、受け、聞き、見たこと」というのは、パウロの生き方、そのものが表したことです。
パウロは以前このようにピリピ教会の人々に語りました。
「兄弟たち。私を見倣う者になってください」(ピリピ3:17)
パウロは自分自身を通して、ピリピ教会に徳と言われ、称賛に値することが何であるかを示したのです。
パウロの生き方はどういうものであったのでしょうか。
「私を見倣う者になってください」と言えるパウロの生き方はどのようなものだったでしょうか。
パウロは一度も失敗をしたことなく、自分の弱さの故に悩んだことのない人だったでしょうか。
実は、パウロは多くの箇所で自分の弱さを告白しています。何より、自分のことを罪人のかしらとも言っているのです。それなのに、どうして「自分を見倣う者となってください」と人々に言えるでしょうか。

パウロは、自分という者の存在をキリストの御言葉から見つけ出す人でした。
彼の人生の最高の価値はキリストであり、生きる目的もキリストでありました。それゆえ、キリストの御言葉は彼のすべての歩みの基準となっていました。パウロはキリストの御言葉に自分の心を留め、御言葉をしっかりと掴まえて生きた人でした。
自分の弱さも覚えています。しかし、キリストの恵みの故に自分の弱さを誇りとします。そして、自分の弱さを言い訳にして、諦めるのではなく、弱い者を強くしてくださると信じて、歩み続けました。
パウロは、キリストの御言葉がなくならない限り、自分の歩みも止まることがないと信じていたのです。

このことを思うと、私自身どのような生き方をすべきかが明白に教えられています。
未熟で弱いものですが、私を召して下さった神様を信じ、神様の御言葉の上にしっかりと立って歩むべきこと。これからも失敗はあるし、苦しみもあるけれど、信仰をもって、一心に進んで行くべきであることが教えられました。このために教会の皆様のお祈りを心からお願い申し上げます。そこには自分を誇るのではなく、キリストの恵みだけ現れるのです。

そのパウロの生きる姿勢を見て来たピリピ教会の人々は徳と言われ、称賛に値することを分かっていたに違いありません。
私達も、パウロがいのちをかけて伝えたキリストの御言葉に心を留めましょう。

「実行しなさい」

心を留めるということは、それを一所懸命求めることにつながります。
良いことを知っているだけでは、良いことにはなりません。
パウロは、心を留めるだけではなくそれを実行するように私たちを励ましています。

実行すると言うと、私たちはそれをすぐ完璧にでなければならないことだと思ってしまうのではないでしょうか。しかし、この実行するというのは一回限りの完璧な行為ではなく、より完全な者となるために実行し続けることを意味しています。
多くの失敗もあります。苦しみもあります。戦いもあります。その上に私たちの弱さもあります。
しかし、このような理由で実行することを止めてはなりません。なぜかと言うと、それは神様の命令ですから。

私たちは先の理由を盾にして、神様の命令に従わない言い訳をすることがあるのではないでしょうか。
しかし、神様の命令は祝福が約束されている命令です。その命令を実行しなさいと記されているから私たちは神様の約束を信じて、諦めずに続けて努力することが求められています。

昨日(10月31日)は、宗教改革記念日でした。ルターが95条の論題を教会のドアに張り出してから498年目となる日でした。ルターの時代、教会の教えは、聖書の言葉より教会の伝統や聖職者たちの教えがより権威あるものとされ、教会史の中でも暗黒の時とも言われる時代でした。
その中でルターは、人は信仰によって救われると記されている聖書の言葉を信じ、当時の教会の教えと真正面から戦ったのです。いのちの危険もありました。しかし、ルターは聖書の言葉をそのまま信じ、実行することをあきらめませんでした。彼は、自分の心を聖書の言葉に留め、それを実行した人でした。
このルターの働きによって、教会の歴史は大きい変化を迎えるようになります。

私達も聖書の言葉に心を留めるだけではなく、実行していきましょう。
そうすれば、平和の神様が私達と共にいてくださいます。
聖書の言葉に私たちの心を留め、実行すれば私たちのすべての歩みが平和で満たされます。
私たちみなが聖書の言葉とともに神様の平和を豊かに体験することが出来ますように。