ピリピ4:4-7  北松戸福音教会牧師 都鍾倍

平安はこの世の誰もが切に願い求めるものです。技術が発達し、生活は豊かになりましたが、人が感じる不安は昔も今も変わらないものです。将来への不安、健康への不安、人間関係の不安など様々な不安が私たちの人生にはあります。経済、健康、人間関係など、すべてにおいて満足できる人生であったとしても、次に死への不安を抱くようになります。
人の不安というものは、人生の最後まで尽きることのないものです。
そうであるならば、私たちにはこの不安から救われる希望はないのでしょうか。
今日の聖書は、私たちに真の平安が何であるかを教えてくださり、どのようにして平安の中で生きることができるかを教えています。聖書の言葉に共に耳を傾けましょう。

「いつも主にあって喜ぶことによって」

「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」
心が悲しい、苦しい中で平安を感じることはできません。
人は喜びの中にいる時に、自分が平安だと思うのです。ですので、喜ばしいことが続けば平安も続きます。
一般的に言われる喜びというものは、一時的なもので、状況や感情、気持ちなどによって変わってしまいます。
それは喜びの根拠を、可視的、成果的なものに限定してしまうからです。組織において上の位まで上ることが出来たら喜ぶ、できないと悲しむ。経済的にも豊かであれば喜べるけど、そうでなければ悲しむ。
これらによる喜びも素晴らしいですが、いつも喜んでいることはできません。
それなら、私たちはどのようにして喜ぶことが、しかも常に喜ぶことができるでしょうか。

さて、パウロが「いつも主にあって喜びなさい」と語ることができるのは、パウロ自身がそのように生きているからです。
「あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう」(ピリピ1:18)
「たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。あなたがたも同じように喜んでください。私といっしょに喜んでください。」
パウロは困難な状況の中であっても喜んでいましたし、それを教会にも勧めています。
パウロはこのように勧めることができていますが、果たして自分も同じく教会に対して、いつも主にあって喜びなさいと言えるだろうかという思いがしました。パウロの働きと比べると自分の働きは小さいものですから。
このように思うとパウロのように主にあって喜びなさいと私は語れないような気がして悩んでいました。この悩みの中で、私に次のみ言葉が与えられました。
ルカの福音書10:17-20節を共に読みましょう。
「さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもさえ、私たちに服従します。 イエスは言われた。わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。
確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりをふみつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。 たがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
悪霊を追い払う素晴らしい働きができたから喜ぶことより、名前が天に書き記されていることを喜びなさいと言うイエス様の御言葉です。
私は、パウロのこの言葉を誤解していたのです。パウロのように働くことができないのからパウロのように喜ぶことができない。そして教会に向かって「喜びましょう」と語ることもできないと。
しかし、パウロは「主にあって」と記しています。私はその意味を上のイエス様の御言葉から教えられました。自分は「主にある」、「主の中にある」者だから。それがいつも喜ぶことができる理由です。
喜びとともに平安が与えられました。
これは、私の知恵をはるかに超える喜びです。神様からのもので、それが私に平安を与えています。

「寛容を示すことによって」

続いてパウロはこのように語っています。
「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。」
パウロの言葉は、「あなたかたの心をより寛容にしなさい」ではありません。もうすでに寛容な心となっているのです。それを知らせるようにと言っています。

私は最近、なかなか自分が受け入れることができない人達とのかかわりを持っています。
「寛容な心を知らせなさい」の御言葉に照り合わせると私はそれができていないことに気づかされました。
人間的な思いからは、怒りを発して、彼らを責めたり、争ったりし、私も彼らと同じようにすればすっきりするでしょう。しかし、それは神様の御心ではないことはわかっています。
それでは、どのように「寛容な心を知らせる」ことができるか。
無理をして、仲良くし、彼らの言うことをすべて受けいれることで解決。このように言われると私はかなり苦しいと思います。彼らの生き方に賛同できないからそれは無理です。
このようなことを考えるうちに、私の中に人を憐れむ心がないのではという不安が生じ、苦しんでいました。

いろいろと悩んでいるうちに、不思議な体験をしました。
それは、私の心の一角から彼らを憐れむ心が生じたのです。私の気持ちからは想像もできない憐れみの心でした。彼らが好きになったわけでもありません。しかし、主が彼らを助けてくださるようにと、恵みを与えてくださるようにと心から願うようになったのです。
私の心のどこにこのようなものがあったか自分も知りませんでした。
むしろ、私にはそのような心がないと思っていましたので、その心を持つようにと頑張っていたのです。しかし、頑張るからといって得られるものではなかったのです。
しかし、その心はすでに私の中に与えられていたのです。だから、私は彼らのことを憐れむことができたのです。私の力でそれを獲得したのではありません。このことが教えられ、私は平安を頂いております。

私たちがイエス様を信じた時、私たちの心はイエス様の心のように変えられています。
そして、イエス様はその心に従って生きることができるように私たちを助けてくださいます。
この信仰をもって、私たちの寛容な心をすべての人に知らせましょう。
人間的な思いは、私たちを苦しめる人に対して、彼らを屈服させる痛快な手段を選ぶようにとささやきますが、聖書はそれとは違うことを教えてくれます。
パウロは別のどころでこのように語っています。
「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい」(エペソ4:32)。
私もキリストによって赦されたのです。赦された者として赦すことは、当然なことです。
そして、イエス様は自分を苦しめる人々に対して、憐れをもって赦す模範を示しています。
「そのとき、イエスはこう言われた。父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。」(ルカ23:34)
このキリストに見倣い、寛容な心をすべての人に示すことが、神様の平安を味わうこととなります。

「感謝と共にささげる祈りと願いによって」

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願いを神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
思い煩うことは、心配することです。心が二つに分かれることです。分裂です。
このような心には平安がありません。
私達の人生には、実に多くの心配ごとがあります。心配はある意味では必要なものです。それによって準備をすることができますから。問題なのは心配におぼれることです。

心配に溺れてしまうと、それからは心配していることしか目に入りません。主に祈ることができなくなります。感謝をささげることはもっと難しくなるのです。
心配の溺れるは、私たちの視線を神様からそらし、目の前の問題ばかりに集中させてしまいます。
聖書の約束の言葉は、なかなか信頼できませんし、すがることは愚かにも思われます。

そして、それはあらゆる人生の危機に対して、自分の力で解決できると思っている考え方の裏の側面でもあります。自分の力を信頼し、より信頼できるものにしようとする考え方と全く同じです。自分の力でできないので、不安でたまらないこととなります。

神学校で学びをしている時、しばらく目の前の問題に心が虜になった覚えがあります。身の周りのことで、ささやかなことと言えばそうかもしれませんが、その時には大きい苦しみでありました。
家内とずっとその問題のことだけ話をしていましたし、一人にいる時でもそればかり考えていました。
ある時、私は主を見ているのではなく、問題ばかり見ていることに気づかされました。ハッとしました。
心配はたくさんしているものの、それを真剣に祈っていない自分に気づかされたのです。心配なら主を呼び求めようと、神学校で毎日学んでいたことにも関わらず、それができていなかったのです。心配に溺れてしまったからです。平安がありませんでした。
私は主に祈りました。私は、自分の力に頼るのではなく、主に頼って生きる者だと教えられました。
その時にたくさん歌って今も大好きな賛美が、これから歌う「歌いつつ歩まん」でした。

私達の不安は問題が解決されないからではなく、主に告げることをしないからです。
これからも私たちの歩みには多くの問題があり、心配事もあるでしょう。
しかし、私たちが感謝をもって主に助けを求めれば、私たちの知恵をはるかに超える神様の平安が私たちを守ってくださいます。これが本日の約束の御言葉です。この言葉に耳を傾け、これを行う者となり神様の平安を豊かに味わう歩みをしましょう。
もう一度6,7節の御言葉を超え合わせてお読みしましょう。
「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願いを神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」