ピリピ4:1-3  北松戸福音教会牧師 都鍾倍

「主にあってしっかりと立つ」

私たちが生きている現代の社会は、とても複雑な生き方が共存しています。
伝統的な価値観が否定され、新たな生き方を求める傾向が強くなっているのが現状です。
私達を悩ませることは、現代社会が求めるほとんどの生き方がクリスチャンとして受け入れがたいものだということです。
クリスチャンとしてしっかり立ち、歩もうと願うものの、そう簡単なことでもないことを私たちは誰もが経験していることではありませんか。

かたちは違うかもしれませんが、パウロ時代のピリピ教会の人々も、当時のクリスチャンとしてしっかりと歩むことは容易ではなかったようです。教会に対する反対勢力がはるかに多かったし、彼らの社会的な立場も教会より優位だったからです。しかも、パウロは投獄されていますし、ピリピ教会のリーダーの二人は争っているからなおさらのことでしょう。

このようなことを考えるとピリピ教会の人々が持っている悩みが少し理解できると思います。
ある意味で、彼らはこれからの信仰生活をどのようにすべきかについてさえ悩んでいたかもしれません。
そのような彼らに語るパウロのことばです。
これからの信仰生活をどのようにすれば良いだろうかという悩みについては、今の私達にもとても重要なことを教えられるので、共に耳を傾けましょう。
「そういうわけですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。どうか、このように主にあってしっかりと立ってください。私の愛する人たち。」
しっかりと立つという言葉は、本来兵士が戦闘に臨むときに使われる言葉でした。
従いまして、敵対しているものに対して、揺るぎない姿勢を保ち続けることがこの言葉には含まれています。
戦闘を経験していない私達においては、様々な状況にも揺れることなく、歩むべき道を歩むことが求められることです。
しかも、「主にあって」という言葉がついています。「主にあって」、主の中でとも言えますが、主から
離れてしっかり立つことをパウロは想定していません。
パウロが、しっかり立つことよりもどこに立つかをより大切にしていることを覚える必要があります。
そうではなければわざわざ「主にあって」ということばをつける必要がありません。

私たちは「主にあってしっかりと立つ」をどのようにして行うことができるでしょうか。
本日の交読文にはこのように記されています。
「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ち付けたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。」(マタイ7:24-25)
最近、話題になっているある町のマンションのことを思います。大きくて丈夫そうに見える立派な建物ですが、傾いてしまい大騒ぎになっています。その原因が、建物を支える杭(くい)の何本かが固い地盤に届いていないからだそうです。建物を支える十分な働きができていないため、傾いてしまったそうです。しっかりと立っているように見えますが、立っている場所がどこであるかの重要性を良く教えてくれる出来事だと思います。「主にあって」、「キリストのみ言葉」の上にしっかりと立つ私たちでありますように。

「このように」

「主にあってしっかりと立つ」ことは、キリストのみ言葉に聴き従うことであると教えられました。
そして、私たちクリスチャンは、キリストのみ言葉を聞き、行うことを強く願っている者達です。
しかし、それを願うものの、実際の生活の中でみ言葉に従おうとすると様々な葛藤があります。
それは、何よりキリストのみ言葉が持っている唯一性の故です。

ピリピ教会の人々も、このキリストのみ言葉に従おうとする中で、多くの葛藤を経験していたのに違いありません。パウロは敵対する人々を恐れずに、福音にふさわしく生きるようにと勧めているからです。
そして、パウロはみ言葉に従って生きる者としての模範を自らのことをもって示しているのです。

キリストのみ言葉が私たちを生かしてくださる「真理であり、道であり、力であります」よと。それを言葉だけで説明するのではなく、自らそれを信じて、その上に生きている姿をパウロは示しているのです。
そして、老年の今、そのことの素晴らしさを経験した者としてピリピ教会の人々に勧めています。
「このように主にあってしっかりと立ってください」
この言葉は、「私が実際生きて見ると、キリストのみ言葉に従うことは本当に良いことでした。それは本当に真理でした。いのちでした。力でした。皆さんもキリストのみ言葉に従ってください。」との意味が込められているでしょう。
聖書を共に学ぶ会の時間でした。
皆さん、自称、「残りの人生が少ない」と言っておられる方々が集まりました。順番からいうと私が御国から一番遠くにいます。
その中でお一人の方の話に私は大きい励ましを受けました。その方は若い時に救われました。聖書の言葉を聞いて、それに従おうと努力した日々でした。しかし、心のどこかでは、聖書はそういうけど、この世の中で生きるには少し無理があるのではという思いがあった様です。
しかし、老年になった今は、聖書のことばは本当に真理だと。聖書のことばこそ正しいことが分かったとおっしゃいました。そして、今は子供のように聖書の言葉を信じ、従おうと心から願っておられると言われました。
私は、非常にうれしかったです。
聖書の言葉に対する疑いを持っているわけではありませんが、人生の経験が不十分である私にとって、先を歩んでくださった方が、聖書は本当に正しいと証してくださることは、何よりの励ましでした。
もし、その方が、「長く聖書の言葉に従って来たが、やはりこの世の中ではあまり助けとならないよ」とおっしゃったら、私は大いに悩まされたでしょう。
しかし、その方が教会においても世の中においても聖書の言葉は従うべきものであることを語ってくださいましたので、私も力を得、より聖書の言葉に従おうと励まされました。

パウロの「このように」という言葉の中には、聖書勉強会に来られた方と全く同じ意味があります。
つまり、パウロはキリストの言葉こそは正しいということを、はっきりとここで語っているのです。

私たちがこの世の中で生活することで、聖書の教えと違う教えや思想、価値観などとぶつかることは避けられないでしょう。しかし、聖書の言葉に従うことを常に努力し、「このように主にあってしっかりと立ってください」と自らも証しすることのできる歩みをしましょう。

「一致と協力によって」

パウロは続けてこのように語っています。
「ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください。本当に、真の協力者よ。あなたにも頼みます。彼女たちを助けてやってください。この人達は、いのちの書にしるされているクレメンスや、そのほかの私の同労者たちとともに、福音の広めることで私に協力して戦ったのです」
ピリピ教会の二人の女性指導者は、対立していました。パウロはそのひとり一人の名前を呼びながら一致するようにと勧めています。そして、ピリピ教会の他の人にも彼女たちを助けてやるようにと語っています。

キリストのみ言葉に従う生き方において、意見の差はあると思います。むしろ、あって当然です。
しかし、重要なのは差があるから対立するのではなく、互いを認め合い、一致を保つことです。
パウロはこの一致を主にあってという言葉をもって促しています。

今は対立していても、主にあって同労者・協力者であることは変わらない。主の身体である教会へつながっている者だということをパウロは教えているのです。私たち皆が主にあって、主の中にいることを忘れることなく、同じ家族であることを覚えて欲しいのです。

次のダビデの話は、主にあって皆が家族・同労者であることを良く教えているのではないでしょうか。
第一サムエル記30章です。
ダビデとダビデの部下の家族が全部敵に連れ去られた大変なことが起きました。ダビデは早速、600人の部下を率いて家族を救出するために、敵を追います。三日間追撃をし、ある川の前まで来ました。そこで、200人の者が疲れ果てて川を渡ることができませんでした。ダビデは400人と共に敵を追って、主の助けにより、自分たちの家族を救い出すことができたのです。問題は、戦利品を分ける時に起こりました。戦いに行った400人が、行かなかった200人を非難し、彼らには戦利品を分けてはならないと言ったのです。その時のダビデのことばです。
「兄弟たちよ。主が私たちに賜った物を、そのようにしてはならない。主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ。だれが、このことについてあなたがたの言うことを聞くだろうか。戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていた者への分け前も同じだ。共に同じく分け合わなければならない」(第一サムエル記30:23-24)
ダビデは主が守り、助けくださったので家族を救い、戦いにも勝利したのだと。戦いに行っていない者も川を渡る前までは一緒であったのだ。ただ、川を渡ることができなかっただけだ。しかも、勝利は私たちの力ではなく主の守りと助けによってできたのだ。主の勝利である。皆は主にあって同労者であると。
私ならこの問題をどのように対応するだろうかと思わされました。

パウロもダビデと同じように、主にあって福音の広めに共に協力していることを大事にしています。ひとり一人が主にあって、主のために、主と共に、主に助けられて歩んでいる。一致と協力により、主にあっての歩みは大いに励まされることを教えています。

私達北松戸福音教会も主にあって、主のために、主と共に歩んでいます。
聖書のことばを聞いて行う者としての証をしながら、教会の皆と協力し合いながらこれからも共に主にあって歩みましょう。