ピリピ3:17-21  北松戸福音教会牧師 都鍾倍

「私に見ならう者となりなさい」

私たちは神様に礼拝をささげる素晴らしい一時を共にしています。
礼拝は、神様が私たちの主であると身をもって証する場であり、体験する場である祝福の時です。
しかし、私たちが礼拝をささげている環境は、厳しいところもあります。
場所は狭いし、電車の音がうるさいし、寒さと暑さも真に受けるような環境です。
にもかかわらず、私たちは主のみ言葉を聞くためにここに集っています。
この私たちに語ってくださる主のみ言葉に共に耳を傾けましょう。

パウロのおかれている状況は人の目に素晴らしいと思われるものではありませんでした。
囚人の身分で、投獄されているのです。誰もがうらやましいと思える状況ではありません。
そのような状況の中から、ピリピ教会に向けてパウロはこのように語っています。
「兄弟たち。私を見倣う者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。」
パウロが「私を見倣う者になってください」というとき、何を見倣うのでしょうか。
投獄されている現状況を指しているのではないでしょう。
それなら、パウロ自身の素晴らしい働きのように働くことを意味するでしょうか。

私は、最初はこのことを意味するのではないかと思い、心が重くなりました。
私の成熟さや主のための献身という点から、どれほどパウロを見倣う者となっているか。
私はパウロのように投獄されたことも、多くの人々からキリストの故に避難を受けたこともありません。
日本各地を駆け巡り伝道の働きをしているのでもありません。
パウロのような立派な働きをしていない私がどうしてパウロを見倣う者となれるか。無理ではないかと思いました。しかし、パウロは自分がまだ完全ではないと言っている点から、その働きを見倣うようにと言うのではないと思わされました。それなら、何を見倣うことでしょうか。

それに対する答えを、私は「使徒の働き」26章から教えられました。
パウロが鎖につながれて王の前で話す場面が記録されています。その弁明の言葉の中でパウロは王に対してこう語っています。「ことばが少なかろうと多かろうと、私が願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです。」(使徒26:29)
パウロはキリストの福音を語っている中で、皆が自分のようになることを願っていたのです。それは、パウロ自身がキリストの恵みの中で生きていること、そしてキリストのために生きていることを語りました。
自分の状況や行いではなく、自分の罪を赦して下さったキリストに捕らえられて生きていること。
そして、謙遜に自分は完全ではないことを認め、より完全なものを目指し、努力している姿。これを見倣う者になりなさいということがわかりました。
平安が与えられました。パウロがピリピ教会の人々に求めているのは、完全な行いや立派な働きでなく、キリストの恵みに満たされて、それにふさわしく生きようと格闘する、努力することです。
私たちは互いにこのことを勧めることができるのでないでしょうか。なぜかというと、私たちはパウロを手本として歩んでいる者だからです。パウロと同じくキリストの恵みを頂き、キリストのために生きる者だからです。それゆえに、私たちは互いに私を見倣う者になってくださいと言えるものですし、そうであるべきです。そのような教会になるように祈り求めましょう。
続いてパウロはこう語っています。

「地上のことだけを思う者」

「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自らの恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです」
パウロは見倣ってはならない人々の生き方を地上のことだけを思う生き方だと言っています。
パウロが涙をもって語っていることです。十字架の敵として歩むことを悲しみ、心を痛めているのです。
これはキリストの恵みを否定したり、軽んじたりすることを意味しています。
キリストの恵みがどれほどに尊く、何ものにも代えられないものかを忘れた生き方を意味しています。
キリストの十字架の贖いは、私たちを罪から解放し、自由を与えてくださいました。しかし、その自由はキリストの中で制限される自由です。自由だからと言って何でも許されると思うことは危険です。

「民数記」の25章にはこの間違いをしてしまったイスラエルのことが記録されています。
主は、イスラエルを祝福の地に導くためにエジプトから救い出しました。主は多くの不思議と力を彼らの目で目撃できるようにあらわして下さいました。彼らがエジプトの束縛から救われたのは、彼らの力ではなく、主の大きい力と恵みの故でした。
そして、主は彼らの命を守るために主の戒めを彼らにお与えになりました。彼らもそれを守ると誓約をしました。しかし、25章のはじめに記されている言葉は「民はモアブの娘たちとみだらなことをし始めた。」
イスラエルはモアブの神々を慕うようになり、モアブの女生とのみだらなことをも大胆に行ったのです。
この25章の前に、バラムという者の呪いから主はイスラエルを守ってくださいました。バラムが呪うことができず、代わりに祝福の言葉しか語れないようにされたのです。呪いから主が守られたのです。
しかし、非常に残念なことにイスラエルは自ら、主の恵みを軽んじ、主の戒めを無視して、悪を行いました。彼らは目の前にいるモアブの女性たちの美しさに心が奪われてしまいました。
そして、その報いは大きかったです。そのことによって2万4千人の人が死んでしまいます。彼らの最後は滅びでした。彼らが自分たちの欲望を満たそうとして、得られたものは、主の民を汚す者だという恥でした。
彼らは、目の前の楽しみのために、主の戒めを無視しました。守れば祝福の地に入ることができるのに、それを忘れて地上のことだけに思いを置いたのです。

はるか昔にあったイスラエルのような行いがパウロの時代にもあったことがわかります。しかも、多くの人々が自分の欲望のために、キリストの十字架の敵として歩んでいると記しています。そして、このことは今の私たちの時代においても言えることです。多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいることです。自分勝手な生き方を誇りとして生きる人が多いのではないでしょうか。

過去の私も一時このように生きたことを覚えています。信仰において人の努力は必要ないと思い、してはいけないことを軽々にと行った時がありました。み言葉を深く理解できず、誤解から生じた愚かなことだったとも言い訳できると思います。しかし、良く考えてみると、自分の欲望を満足させるために、キリストの十字架の贖いを利用したことに過ぎないことが教えられました。今考えてみると恥ずかしいばかりです。感謝なことはそのような生活が続かないように主が守ってくださったことです。
ある意味、私たちは常にこの誘惑と戦っていることでしょう。地上のことだけに捕らえられて、私たちの本分がクリスチャンであることを忘れる時もあるのではないでしょうか。
私たちの心を探り、キリストの十字架の敵としての歩みをしないように、地上の物だけに心を奪われることのないように祈り求めます。

「我々の国籍は天にある」

「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しい身体を、ご自分の栄光の身体と同じ姿に変えてくださるのです。」
パウロは私たちの目に見える現実ではなく、霊的な現実をはっきりと教えています。
地上で生きる者ですが、地上に属しているのではなく、天の国に属している者です。
そして、キリストが救い主としてお出でになることを待ち望んでいる者だと教えています。

私たちが待ち望んでいるのはキリストです。御国はキリストと共に永遠に生きるところです。
キリストと共に歩むことですから、御国は地上で生きている私たちにも体験できるのです。
私たちは日々の生活の中でキリストが共におられることを体験していますでしょうか。

4月5日初めての礼拝をここでささげました。千葉へ来ることに対して持っているものは何もありませんでした。しかし、主は必要に応じて、献金を与えてくださいました。このように共に礼拝をささげる皆様をも送ってくださいました。主が共におられることを一番身近に体験できる恵みの時でした。私たちの国籍が天にあることへの確信が与えられる祝福でした。
このような体験がありましたので、私は御国の市民としてふさわしく歩みたいと願い、努力しています。キリストの十字架の恵みを軽んじたりすることはありません。

目に見える環境の故に、地上のことの故に苦しい時がこれからもあるかと思います。
しかし、そのおかげで私たちは主の御力を誰よりはっきりと体験することができます。
なぜなら、私たちは御国の市民ですから。

私たちは今日このように御国の市民としてふさわしく生きようと常に祈り求めているKご夫妻の転入会式を行います。
7月にはK姉の転入会式もありました。K姉も御国の市民としていつもふさわしい生き方を示して下さるお方です。このような方々を当教会の会員として迎えられることを非常にうれしく思っています。
ぜひ、励ましあいながら、祈りあいながら御国までの旅路を共にしてください。
主は私たちのこのような歩みを通して、私たちの国籍が天にあることをより豊かに体験させてくださいます。
最後にもう一度、み言葉を読みましょう。
「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しい身体を、ご自分の栄光の身体と同じ姿に変えてくださるのです。」