ピリピ3:12-16  北松戸福音教会牧師 都鍾倍

「完成の過程である」

パウロは、ユダヤ人として立派な人でした。自分の行いに対して大きい誇りを持っていました。
そして、それを守り続けるための熱い心もありました。熱心のゆえに、キリストの教会を迫害することをも迷うことなく行っていました。
そして、さらにキリストの教会を迫害するためにタマスコへ向かう途中キリストに出会います。
キリストがパウロに現れてくださったのです。それまで、ユダヤ人としての誇りと熱心さをもって生きていたパウロは、その出来事以来キリストのために生きる者と変わりました。
パウロは、キリストのためであるなら自分のいのちもささげる覚悟で働きました。
キリストの教会のためなら場所を問わず遣わされていました。このピリピ書もローマの獄中で書いていたものです。彼は、キリストの福音のためなら投獄されることをも恐れず、大胆に宣教をしていました。
パウロはこのような素晴らしい働き人でした。多くの癒しや奇跡も行った人です。主の御声をも直接聞くことのできた人です。主のためであるならと普通の人の何倍も働いた人がパウロです。

私から見ると、パウロはこれ以上のない働き人で、完全無欠のように見える人です。
しかし、そのパウロがこのように語っています。
「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えていません。」(ピリピ3:12-13a)

8節でパウロはこのように告白しています。
「それところか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」
キリストのためにすべてを捨てたと語っています。そして、以前自分が知っていたものが、キリストを知っていることに比べるとちりあくたであると言っています。そして、そのような生き方を営んだ結果、今は投獄されることになったのです。彼はすべてを捨てて、投獄されるほどにキリストを得ている者となりました。

先も申し上げましたが、これくらいの働きぶりならば、自分に誇りを持っても良いかと思います。
自分は投獄されても、喜びを失わず、信仰を失わずの者となるほどに成長し、成熟している。
これ以上良くなる必要はないと思っても良いのではないかと正直思います。
しかし、決してパウロはそんなことを語っていません。自分自身はまだ捕らえていないと。完全になっていないと語っています。むしろ、追い求めていると語っています。
自分は完成に向かって歩んでいる途中だと。まだまだ成長し、成熟する必要があるということでしょう。
何という謙遜な姿勢でしょうか。何というキリストを得ようとする強い願いでしょうか。

この謙遜さを思うと私は本当に未熟な者であることが教えられています。
牧師となる献身の思いが与えられ、神学校に入ったことでどれほど高ぶっていたか。他の方々の献身をさげすむような、自分の献身だけが一番貴いもののように考えたことが教えられました。
働きにおいてパウロの足元にも及ばない者にも関わらず、自分はできていると思う。苦しみにおいてパウロのような経験はしていないのに自分はその苦しみを全部知っていると勘違いをする。自分は何でこんなにすぐ自分自身の姿に満足してしまうだろう。
恥ずかしい思いと同時に深く反省をしています。
パウロが完全になるためにまだ努力する必要があるならば、私はもっとそうであることでしょう。
このことをしっかりと受け止めながら、日々歩まなければならないことが教えられています。

感謝なことは、このみ言葉に自分の恥ずかしさを気づかせてくれるだけではなく、励ましも与えてくれています。
「そして、それを得るようにキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」
パウロを捕らえてくださったキリストは、私をもとらえてくださるのです。そして、パウロを成長させてくださったのと同様に私も成長させてくださるのです。何という恵み、励ましでしょうか。
私の愚かさに対して、恥ずかしい思いを与えるだけで終わらせるのではなく、それをはるかに超える恵みがあることを教えてくださる主に感謝致します。

「ひたむきに前のものに向かう」

パウロは続いてこう語ります。
「ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標をめざして一心に走っているのです」(ピリピ3:13b-14)
ここで、パウロは御国への希望が自分の目標であることを明らかにしています。
このみ言葉は誰が御国をめざすことができるか、そしてその者が持つべき姿勢を良く教えています。
まず、御国をめざすことができるのは、「キリスト・イエスにおいて」生きる者です。
キリスト・イエスにおいて上に召してくださると記されています。キリストを信じる者を神様は御国へ入れてくださるのです。キリストが真実な神様の与えられた義だからです。

キリストにおいて上に召される者が持つべき姿勢は、うしろのものを忘れることです。
キリストを信じたものは、その以前のものを忘れるのです。キリストが一番大事ですので、以前のものの良し悪し関係なく、キリストのためにすべてを捨てて、忘れることができるのです。
救われた者として新しい生活を送るためには、今までの古い生活を切り離すことがどうしても必要です。それができないかぎり、新しい生活を始めることはできません。

聖書にはうしろのものを忘れることができず悲劇を迎えた人物のことが記されています。
創世記19章になりますが、ロトの妻の話です。不義に満ちていたソドムからロトを救うために神様は彼らにソドムから逃げるように語ります。こう記されています。
「命がけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」(創世記19:17)
ロトは家族を連れてソドムから逃げます。神様は硫黄の火を降らせてソドムをさばきます。
その時、ロトの妻は何を思ったかうしろを振り返ったのです。忽ち彼女は塩の柱となってしまいました。
「うしろを振り返ってはいけない」という神様のみ言葉に従わなかったからです。
うしろのもの、過去のものに引かれることは御国への望みをもって歩む者にふさわしくない生き方です。

しかし、これは決して簡単なことではありません。
何日か前に、家内と過去の経験がどれほど私たち夫婦を苦しめているかに関して話し合ったことがあります。
幼かった時の特別な状況の中で聞いていた言葉が、今でも重くのしかかっていることがあります。
そのように考えるべきではなく、考えたいとも思っていないのに、それが簡単にできないことを話し合いました。救われているのに過去のことで苦しんでいる自分たちの姿があったのです。これは大きい悩みです。

どうしたら良いでしょうか。
うしろのものを忘れる一番良い方法は、ひたむきに前にある素晴らしいものを見ることです。
私たちの前には苦しみも涙もない素晴らしいものがあります。
神様は、キリストにおいて上に召された者には神様の栄冠が与えられると約束されています。パウロ自身もこの神様の栄冠を得るために、これを目標とめざし、一心に走っていると語っています。
過去の様々なことが今も私たちを苦しめているかもしれませんが、私たちの前に約束されている素晴らしい御国をめざして一心に走りましょう。

「いま達しているところから」

続いてパウロはまたこのように語っています。
「ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。」(ピリピ3:15-16)
パウロは、私たちが御国への希望をもって一所懸命に前に進むようにと語っていました。私たちはまだ御国へ入ったわけではないので入るまでは、信仰にふさわしく生きるために努力しないとならないことを教えています。
しかし、もしこのようなパウロの見解と違うものがあれば、その違いを神様が明らかにしてくださる。
パウロは違う意見に関しては神様が明らかにしてくださることを信じて、私たちは前のものに向かって進んで行くようにと言っています。
大事なことは、私たちが達しているところを基準として、進むことです。
人によって達しているところはそれぞれ違います。しかしそこから、また前に向かって進んで行くようにと求められています。
パウロは、信徒のひとり一人が持っている力の差を認めています。すべての人が自分と同じような働きをしなければならないとは求めていません。むしろ、自分がキリストに捕らえられているように、私たちもキリストに捕らえられて、今のところから前に進んで行くようにと言っています。

私たちが今達しているのはどこでしょうか。
私は、今この教会につながっていることが私たちが達しているところだと信じています。
ここまで、どのように歩んで来られましたか。過ぎ去った時間の中にはどのようなものがありましたか。
それはそれとして大事な意味があると思います。
しかし、もっと大事なことは、今のところからどうするかではありませんか。

私たちはキリストによって今に達しています。このキリストは私たちを御国まで導いてくださるお方です。
願うことは、この福音教会とともに、御国へ入る時まで、前に進んで行くことです。共に、御国という目標をめざして一心に走ろうではありませんか。