ピリピ3:7-11 2015年9月27日 北松戸福音教会牧師 都鍾倍

「キリストこそが最高の益」

7節でパウロはこういっています。
「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに損と思うようになりました。」
この言葉にはパウロの心の変化が記されています。
前の4-6節で、パウロは自分が持っている人間的な誇りが何であるかを語っています。以前のパウロはそれを誇りとして、頼みとしていました。そして、それらは当時のユダヤ人の中では誰もが認める素晴らしいものでした。

しかし、今パウロはそれらが損であると言っています。人間的に頼みとなる素晴らしいものが何故損と思うになったでしょうか。パウロはその理由を、「キリストのゆえに」と記しています。キリストこそ本当の益であるということです。
今まで益と思っていたそれらとはキリストには比べることのできないものだということです。
それをパウロはこのように語りながら強調しています。
「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」
キリストに比べるとほかのものはすべてちりあくたである。ちりあくたを欲しがる人はいないでしょう。
ちりあくたは、捨てられる食べ残し、または排泄物を意味する言葉です。捨てるべきものです。
キリストを知っていることは、キリストを信じてキリストと共に歩むことの素晴らしさを体験して知ることです。交わりを通してより深く知って行くことです。これに比べると今まで自慢していた人間的な頼みは無益なものに等しいことです。
何というパウロの大胆な言葉でしょうか。
私もパウロのように大胆なものとなりたいです。キリストのゆえにすべてを損と思うものとなりたいです。

私が最近読んでいる本はあります。三浦綾子の「海嶺」という本です。
主人公たちの乗っていた船が嵐に遭い、漂流してアメリカまで流されたところまで読んでいます。
主人公たちは、米を運搬する船で働く者です。ある時、江戸まで米を運ぶ航海で嵐に遭います。
何日間の嵐で、船が沈みそうになり、皆が船の荷物を海にすてることとなります。
普段は、彼らの生活を支えてくれる大事な船荷ですが、嵐の中では逆に彼らのいのちを脅かすものとなります。今まで益であったものがいのちを助けることにおいては捨てるべきものとなります。

何が一番大事であるかは人によって違うかもしれませんが、そのためなら、そのほかはすべて捨てる。
誰もがそう考えるし、そのように行動するでしょう。
聖書はパウロの言葉を通して、一番大事なものはキリストであると教えています。キリストの交わりの中で歩むことこそがほんとに益となると教えています。私達もこの聖書の教えに従い、キリストを一番大事なものと思って歩みましょう。

「キリストによって義とされる」

パウロはキリストがどうして一番大事なお方かをこのように記しています。
「それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」
パウロの望みは神から与えられる義を持つことにあると言っています。
神から与えられる義を持つ者とは、神様の御心にかなう人、神様に喜ばれる人とも言えます。

イエス・キリストを信じる前のパウロを含めて、ユダヤ人立ちは人間的に頼みとなるものなければ、神様に受け入れられないと信じ、そのように教えていました。
しかし、イエス・キリストに出会ってからのパウロは神様の義と認められるためには、そのような人間的な頼みは何の役にも立たないことを大胆に語っています。2節のところで犬という表現を使っていますが、犬は食卓から落ちるものを食べます。人が捨てる食べ物を食べます。
パウロはユダヤ人たちが頼みとしている律法的な生き方をちりあくたと言い、犬の食べ物としています。
ユダヤ人が誇る、律法的な生き方は、神様の御心を満足させることができないことをこのように言い表したのです。

律法による自分の義を立てようとするユダヤ人のことをパウロは他のところでこういっています。
「私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません」(ローマ10:2)。ユダヤ人の熱心な生き方は知識に基づいていないと記しています。
そして、続いてこのように語っています。
「というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。」
ユダヤ人は自分たちの生き方が神様の義に従うものだと思っていました。
しかし、パウロは彼らが神様の義が何であるかを知らないと言っています。いや、むしろ自分自身の義を立てようとして、神の義が何であるかは興味もなかったようです。

それでは、どのようにして人は神様の義に従い、御心を満足させることができるでしょうか。
それは、律法を完全に行うことです。律法の一つも欠かすことなく完璧に行うこと以外には神様の御心を満足させる方法はありません。しかし、この世の誰もそれを可能にする人はいません。それなら方法はないでしょうか。私達がどのようにて律法を完全に行う者となるのでしょうか。

私たちが自分の行いによって神様の義を持つことはできませんが、神様から与えられる義を持つことはできます。神様から与えられる義は何でしょうか。それはキリスト・イエスです。
キリストこそが神様から与えられた義であります。私達はこのキリストを信じることによって、信仰によって、神様に義と認められるのです。完璧に律法を行うものと見なされます。なぜなら、キリストは律法の完成させるために来られ、終わらせられたからです。
キリストを信じる人は誰もが、そこには人間的な差別が全くなく、ただ信仰のみによって神様から義と認められるのです。キリストこそ、神様の御心を満足させることのできる唯一のお方です。パウロは神様が認める義であるキリストを信じる信仰のゆえにすべてのものを捨てると言っています。キリストに代わって神様の義を頂く方法はありません。キリストには何ものも代えられません。
私たちも、神様の与えられる義、代えられないお方であるイエス・キリスト信じましょう。

「キリストの復活の力」

パウロは続いてこのように語っています。
「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです」
パウロは復活の力こそが、キリストを信じる信仰の精髄だと言っています。
死者の中からよみがえられたのはキリスト以外にはいません。キリストは復活された唯一のお方です。

誰もが生まれる時と同じように何も持てずにこの世の生涯が閉ざされます。
しかし、この世での終わりは、新たな始まりであります。聖書は、人には死後の世界があると教えています。
しかも、死後の世界での生活は、この世での生き方によって決まると教えています。

その決め手となるのがキリストです。キリストを信じる人は永遠のいのちを持って復活し、御国へと導かれます。しかし、キリストを信じないものは御国へ入れず、暗闇の中で泣いて歯ぎしりをするのです。
本日の交読文にはこのように記されています。
「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです」(ローマ6:5)
キリストにつぎ合わされているか離れているかが一番重要なことです。
「キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。」(ローマ6:9)
キリストにつぎ合わされていれば、死の支配を受けません。よみがえるのです。

パウロは、この復活がなければ自分たちが一番哀れなものだと言っています。それはそうですよね。
死者の中からの復活がなければ、信仰も宣教もすべてむなしいこととなるでしょう。
しかし、キリストは死者の中からよみがえられました。復活の力を持っておられます。復活があったから信仰と宣教においての苦しさを乗り越えることができます。

この復活の力にあずかるものは、キリストの苦しみにもあずかることだと記されています。
キリストのためにあずかる苦しみは、不幸や弱さのゆえではなく、復活の力を知りたいと願う者のためだということです。キリストの復活こそが、苦しみを感謝と喜びに変えてくれる唯一なる力です。

十字架の上で亡くなられたキリストは、復活と共にご自分の愛する者たちのところに行かれました。恐れと不安の中にいる彼らに喜びと力を与えてくださいました。そして、もう二度と彼らから離れることなく、世の終わりまで共におられると約束してくださいました。復活のキリストは、今も信じる人々と共におられるお方です。そして、彼らが御国へ入る時まで、守り導いてくださるお方です。

パウロにとって一番大事なもの、神の与えられた義である方、復活の力を持っておられるキリストは他のものに代えられないお方でした。パウロに苦しみにもあずかる力を与えたお方です。いのちと喜びを与えたお方です。
このキリストは今も変わらないお方です。そして、パウロにおいて何ものにも代えられないお方であったように私たちにとっても、何ものにも代えられないお方です。キリストには代えられません。この信仰をもって歩み続けましょう。