ピリピ3:1-6 北松戸福音教会牧師 都鍾倍

ピリピ教会の構成員は主に異邦人でありました。
パウロの伝道によって、マケドニア地方で初めて生まれた教会でした。
パウロがローマで投獄されていた時期に、ピリピ教会には大きい試練がありました。
それは、ユダヤ人と彼らの教えによるものでありました。
ユダヤ人の教えの特徴は、律法を守ることによって救われるということです。
しかし、ピリピ教会の人々は、律法を守ることと行いによってではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって救われると教えられていました。実際彼らは信仰によって救われ、主の教会となっていました。

パウロの伝道において、ユダヤ人はいたるところでパウロと対立します。
彼らにとって、イエス・キリストを信じる信仰によって救われるという教えは、危ういものでした。
イエス・キリストを救い主と認めていなかったからです。

ユダヤ人たちによる試練に遭っているピリピ教会にパウロはこう語っています。
「最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。前と同じことを書きますが、これは、私には煩わしいことではなく、あなたがたの安全のためにもなることです」
「主にあって喜びなさい」と言っています。試練に遭っている人たちに喜びなさいという勧めは一見相応しくないようにも思われます。苦しみの中にいる人に対して喜びなさいというのは何ということでしょう。

「主にあって」というのは、主の中で、主によって、主につながれていて、の意味が含まれています。
ある人はピリピ書のテーマを「この世の荒波の中で沈没しない信仰」と言ったことを覚えています。
まさにその通りだと思います。
それは、喜びそのものより、何故喜ぶことができるかを、その根拠を私たちに教えているからです。
この世の様々な価値観や教えの波が押し迫っても、のみ込まれないためには「主にあって」が重要となってきます。
ピリピ教会が喜ぶ根拠は主にあってです。主の中にいるからです。主につながれているからです。
ですから、「主にあって喜びなさい」という勧めは、極めて大事なことなのです。

パウロは、「主にあって喜びなさい」ということを、このピリピ書の中でも繰り返し語っています。
しかし、繰り返し語ることを煩わしいことだと思っていないと言っています。
なぜなら、それがピリピ教会の安全のためになるからです。教会のいのちにつながる重要なものだからです。
ピリピ教会を愛し、心配しているパウロの心が伝わる思いがします。
ローマの牢屋で、自分の苦しみに耐えることもままならぬ状況の中でも、ピリピ教会の安全を心配する思いでパウロの心はいっぱいとなっているのです。

私たちの生活の中でもいろいろな試練に遭遇する時があるでしょう。
その時に、私達は主の中にいる者、主につながっている者であることを覚え、「主にあって喜び」ましょう。
そして、私自身もパウロのように、教会を愛する全き思いをもってしっかりと主の御言葉を伝える者となりたいと願っています。

「主にあって喜ぶのは自分を苦しめて得られるものではない」

続いてパウロはこう語っています。
「どうか犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください。肉体だけの割礼の者に気をつけてください。」
ユダヤ人達に気を付けるようにと注意をしています。
犬、悪い働き人、肉体だけの割礼の者、これは全部ユダヤ人を指す言葉です。
犬は、汚れた者を意味しています。特に、自分を満足させることをより優先するものを表しています。
悪い働き人は、働きによって持たされる結果が悪いものばかりの人達を意味しています。

パウロはユダヤ人に対して、極めて強い批判をしています。
それは、ユダヤ人の教えがイエス・キリストの恵みをないがしろにしているからです。
彼らは割礼を施さなければ救われないと教え、肉体的な印を持つようにと教えていました。
パウロはユダヤ人が言う割礼を、肉体だけの割礼と言っています。本当の割礼ではないと言っています。
ここで使われる「割礼」は、ただ体を切断することを表す言葉です。肉体的な印をつけるためです。
自分の身体に傷をつけ、苦しめるだけのことです。ユダヤ人たちはこれをしないと救われないと教えていました。

救われるためには、様々な苦しいことを自ら行わなければならないというユダヤ人の教えは、今日においても根強く残っているように思えます。
以前、私自身もそのような教えの影響を強く受けて信仰生活をしていました。
熱心に祈らなければ。聖書をたくさん読まなければ。多くの人に伝道しなければ。
これらのことはとても重要なことで、信仰にふさわしいものでしょう。立派なことです。
しかし、信仰を持つために、救われるためにこれらを行わなければならないことではありません。

このユダヤ人の教えは、人を苦しめるだけのものです。形は立派かも知れませんが、その中身はむなしさと不安です。それを解消するためにもっと熱心な行いが求められるだけです。それが肉体だけの割礼の者の真相です。自分を苦しめることで、主にあって喜ぶようにと。

私たちもこのような教えに気を付けましょう。
何かを行えば、立派なことができれば救われるという教えに耳を傾けることがないように、そして、自分自身にそのように言い聞かせることがないように気を付けましょう。
注意すべきことは、救われた者は救いにふさわしい生活をするための努力をないがしろにしないということです。それを混同しないようにしたいと思います。

「主にあって喜ぶことは人間的なものを頼みにしない」

パウロは主にあって喜ぶ者の本当の姿はこうであると記しています。
「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです」
イエス・キリストの恵みを頂き、救われ、イエス・キリストを誇り、救いの喜びで礼拝をささげる者だと語っています。それには人間的なものに頼むことは一切ないということも含まれています。

パウロは自分自身のことを挙げて、ユダヤ人たちが頼みとしていた人間的なものが何であるかを記しています。
「ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。」
私は八日目の割礼を受け、イスラエルの民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。」
パウロは自分自身のことを誇るために言っているのではありません。
これは今の自分と過去の自分が誇りとしていたことが全く違うことを強調するためです。過去に自分が誇っていた人間的立派な行いは、救いのための益が全くないことを教えています。

ユダヤ人たちが誇りとしているのを一言でいえば、彼らの民族的優越意識です。ユダヤ人でなければ救われないということです。逆には、異邦人は救われないということです。
ある人達は、クリスチャンが多い国と日本を比較しながらその違いは何であるかを語り合います。そして、多くの場合においてたどり着くところは、「日本は本当に難しい国」というところです。現実がそうであるので説得力のある話だと思います。私自身も日本においての伝道の難しさをたくさん体験させられてきました。
しかしその原因なるものを、日本的な特徴に定めようとすることは、ある意味でユダヤ人の教えに沿っているような気がします。日本的な特徴をなくせばより多くの人が救われるのでしょうか。
救われるのは日本的な特徴、人間的なものをなくすことではなく、第一にイエス・キリストを信じる信仰なのです。これは人から出るものではなく神様からの恵みです。決して行いによって得られるものではありません。

主にあって喜ぶということは、国や民族を救いより優先させることではありません。主にある故に民族や国を超えて喜ぶことができるのです。私たちの教会には国籍が違う人々が集まっています。しかし、私たちは同じ心をもって、礼拝の喜びに与っています。いたわり合い、励まし合っています。国籍が違っても主にあって喜ぶことの素晴らしさを実践している教会だと思います。そして、ますますこの喜びのあふれる教会として成長していくことを心から祈り求めています。

ひとり一人が主にあって喜ぶ姿を示すことは何より力強い伝道となると私は信じています。これからも私たちと共に歩んでくださる主を信頼し、主にあって喜ぶ者として共に成長して行きましょう。