ピリピ2:15-18 北松戸福音教会牧師 都鍾倍

「教会を愛する」
先週は、I教会へ参りまして、説教を取り次ぎました。
F先生ご夫妻がいらっしゃらないI教会へ行くのは初めてでした。
少しは緊張しましたが、あたたかく迎えてくださる教会の方々によって緊張はすぐほぐれました。
そして、ともに主の御言葉に耳を傾けました。楽しい交わりをもできて、感謝のひと時を送りました。

私たちの教会が属する団体は、日本バプテスト教会連合といいますが、教団の総会のための資料があります。
そこには、各教会の礼拝人数も書いてあります。多くの場合、在籍人数と実際に礼拝へ出席する人数の差が多少あります。しかし、I教会はその差がありません。

在籍中の全教会員が礼拝へ出席される教会。本当に望ましい教会だと思います。
何故それができるか。
自分なりに考えてみましたが、何より教会の方々が教会を愛し、教会と共に生きることを大切にしているからではないかと思いました。
I教会でH先生の就任式が行われたとき、教会の壁に書いてあった歓迎の文句がそれをはっきりと示していたと私は思います。正確には覚えていませんが、内容はこういうものだったと思います。
「共に喜び、共に悲しみ、共に苦労しましょう」というものでありました。新しい牧師と共に、教会と共に苦労しましょうというのは、簡単に言えることではないと思います。
教会を愛し、教会を大事にし、教会に集うひとり一人が互いを喜ぶからこそできることなのです。
この世のものを慕わず、神様の教会として歩み続けようと努力しているからできることです。
これが成長する教会の姿であると思います。

パウロはピリピの教会が成長することを願い、このように語っています。15節です。
「それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神のこどもとなり、」
教会のひとり一人が神様に喜ばれる生き方を営むことが求められています。それは、この世の生き方を追い求めないこととも言えます。
聖書が示すこの世は、曲がった邪悪だと記しています。つまり堕落した世です。
堕落は、神様から離れて、神様に逆らうことを意味しています。
従いまして、この世の生き方を追い求めることは、神様を求めない生き方です。神様に逆らうこととなります。それは、いのちと平和に満ち溢れる人生とは遠く離れた歩みとなります。

私たちは、毎日、この世の有様を耳にしています。絶えず届く戦争の話と対立。詐欺、窃盗、殺人など聞きたくもない恐ろしい知らせが毎日のように流れています。これは堕落したこの世の特徴です。そして、このような様子は教会のうちにあってはならないのです。教会は神様のものだからです。
私たちの教会が神様の教会であることを知り、教会を愛することは、教会が成長するカギとなります。
私たちは、神様の教会に、この世のあり方を取り入れようとはしていませんか。
教会の中で争い、妬みがあり、人を侮るようなことはありませんか。私たちの教会にはこのようなことがなく、神様の傷のない子としてふさわしく成長しますように祈ります。

「いのちのことば」
しかし、難しいことは、教会がこの世の中にあってのものだということです。
私たちは神様の子として選ばれていますが、私たちの生きる舞台はこの世であるのです。それによって、私たちは多くの葛藤と戦いを体験しています。苦しみも経験しています。
このような生活の中で、私たちが神様の子としてふさわしく生きられる力はどこにあるでしょうか。
パウロは16節にこのように語っています。
「いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」
ここでは、神様の子としてのふさわしい生き方を、「世の光として輝く」と示しています。
15節で、「曲がった邪悪なこの世」は暗闇のこの世とも言えます。
人々は、暗闇を歩くようにこの世の中で迷いの人生を送っています。ほとんどの人が自らの人生の目的地が何処であるかを知らずに生きています。広い海のただ中で、羅針盤のない船に乗っているようなものです。
しかし、教会には歩むべき道しるべが与えられています。それは、神様のみことばです。
詩篇119編105節にこう記されています。
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」
神様のみことばは、私たちの足元を照らす光であり、歩むべき道を教えてくれる光であります。
このみことばに導かれる人生は、いのちが与えられ、より健康に成長できます。

私たちひとり一人、そして教会が成長するためには、この神様のみことばをしっかり握って歩むことが不可欠です。そして、それが曲がった邪悪なこの世の影響から教会を守る最強の盾です。
私は、この教会での働きが示された時に、率直に悩みました。いろいろな事柄が絡んでいて、どのように決めるべきかが分からなかったのです。その時、みことばの導きを求めるようにと思いが与えられました。そして、祈りと共に聖書を読みました。しばらく経って、みことばが示され、それが神様の導きであることを確信できました。そして、それは今も自分を支えていて、私はそれをしっかり握って生きようとしています。
私は、このみことばによって今も神様の道を、神様の子としての歩みを続けられていると確信しています。
神様のみことばは私たちにいのちを与えるからです。
詩篇119編93節にこのように記されています。
「私は、あなたの戒めを決して忘れません。それによって、あなたは私を生かしてくださったからです。」
神様は私たちがいのちをもって生きることができるように戒め、みことばを与えてくださいます。
私たちは、どれほど神様のみことばの導きを求め、導きを頂いているでしょうか。
人生の方向を決めなければならないときに、私たちは何を頼りにしていますでしょうか。願わくは、神様のみことばの導きを求め、それに従う歩みができるように祈ります。

パウロは、ピリピの教会がこのように成長するためなら、自分の苦労が無駄ではなく、むしろ誇りになると記しています。牧会者であるパウロは、教会の成長を強く望んでいました。そして、そのために命がけで働きました。しかし、パウロは、ピリピ教会が成長するのであれば、自分の苦労と努力は主の前で誇りとなると言っています。私も、このようなパウロの姿勢を見習っていきたいと思います。
教会の成長のために働き、それを誇りと喜びとするパウロの姿勢を見習い、教会に仕えたいと願います。

「共に喜びましょう」
パウロは続いて語っています。
17節、18節です。
「たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。」
「あなたがたも同じように喜んでください。私といっしょに喜んでください。」

パウロは教会の成長を、たとい自分が犠牲をはらうことであっても喜ぶと言っています。
子供の成長は親にとっては大きい喜びでしょう。しかし同時に、子どもが成長するためには、親の様々な苦労がついてきます。親としては自分の苦しみより、子供の成長に対する喜びの方がはるかに大きいでしょう。
同様に、パウロはピリピ教会の成長を心から願い、また喜んでいます。そして、パウロ自身だけではなく、教会が共に喜ぶようにと勧めています。
教会の成長は牧会者一人だけの喜びではなく、教会全体の喜びであります。
私たちの教会はまだ始まったばかりの赤ちゃんのような教会です。今集っておられる方々の多くは長い信仰生活を過ごしてきておられます。しかし生まれたばかりの赤ちゃんも、大きくなった大人でも成長し続けなければなりません。
私たちの成長は、キリストの日に完全なものとなります。その時までは、成長しなくてもよい人は一人もいません。つまり私たちが生きている限り成長し続けなければならないのです。

最初にI教会のことをお話いたしましたが、私たちの教会もそのように成長できることを願い求めます。
願わくは、教会のひとり一人が互いの成長のために祈り合い、また喜べるように祈ります。
みなさん、互いの成長を共に喜ぶ教会として歩み続けましょう。