第Ⅰコリント15:1~5   北松戸福音教会協力牧師 藤原導夫

【福音とは何か?】

今日の説教題は「福音に生きよう」とさせていただきました。
実は、私たちが今集まっているこの教会の名前は「北松戸福音教会」と言います。
この名前は、私たちの教会の親教会である北松戸希望教会の小野恵子先生がつけられた名前です。
そこに私は次のような思いを読み取ることができるのではないかと考えています。
第一に、この教会に集まる人々が、福音に生きる者としてその人生を歩むことができるように。
第二に、この教会が福音を宣べ伝える教会としてその使命を果たしていくことができますように、と。
小野先生はそのような意味合いを、この教会名に込められ、託しておられるのではないでしょうか。

今、ここに集まっている私たち、信仰の古い人も新しい人も、初めての方も、聖書が語っている「福音とは何か?」ということについて、改めて今朝、心に留めたいと思います。

パウロは、コリント教会に集まる人々に対してこのように語っています。
「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です」(15:1)
パウロは、自分がこの福音というものを知らせるために働いてきたとここで語っています。
そして、コリントの教会の方々、あなた方はその福音を受け入れ、それによって今も歩んでいるのです、と言うのです。

パウロは、更に福音について語り続けます。
「また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです」(15:2)
パウロが伝えた福音をしっかりと保っていれば、救われるというのです。
つまり福音とは、私たちに救いをもたらすものであると言うのです。

更にパウロの言葉に耳を傾けると、そこには福音とは何かということがはっきりと語られています。
「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです」(15:3-5)
つまり、第一にキリストは私たちの罪を赦すために十字架にかかって死なれたということです。
第二に、キリストは死からよみがえり、多くの人にご自身を現されたということです。

パウロは、このことこそ、最も大切なこととして自分はあなた方に伝えたというのです。
もう一度くり返しますと、福音とは第一に、キリストが私たちの身代わりとして十字架に架かって死んでくださった。そのことを信じる時に私たちは救われるということです。
福音とは第二に、キリストは死に打ち勝ってよみがえられた、ということです。
その復活されたキリストが私たちといつも共にいてくださるということです。
これこそは、最も大切なことであり、そのことをしっかりと信じ続けていくならば、誰でも救われるとパウロは宣言しているのです。

【私の福音体験】

パウロは、このように語っています。
「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって……」(15:3)
福音とはパウロ自身が体験したことであり、その福音にパウロは生きていた、生かされていたのです。

そこで、私もパウロと同じように、私自身がどのように福音を信じるようになったかを語らせていただきたいと思います。
わたしは島根県の田舎にある牧師家庭に生まれました。そしてわが家は教会であり、教会はわが家であるというような環境のなかで、小さいころから信仰の養いを受けつつ成長していきました。
しかし、そのような歩みは、この世の波風にもまれるにつれて揺れ動き停滞するようになりました。それだけでなく、両親や教会に対してもこれまでとは違い、抵抗し反逆的に立ち向かうようになりました。そのような私の反逆が激しくなったのは高校時代からでした。
その頃の私にとって不満の種は三つほどありました。
第一は父がキリスト教の牧師であることからくる家庭の経済的貧しさということでした。子供時代から味わってきた貧しさゆえに、私は傷ついていきました。私は5人兄弟の3番目であり、着る物はいつも兄のお古であり、新しい着物など買ってもらったことはありませんでした。友だちは小遣いをもって欲しい物を買って食べたりしていましたが、小遣いなどはもらったこともありませんでした。
第二は友人たちと一緒に遊べないということでした。わが家では「聖日厳守」ということで、日曜日の礼拝は絶対でした。友だちは日曜日の朝早くから魚取りやサイクリングなどに出掛けます。私は誘われて行きたくても礼拝に出なければなりません。友だちは待っていてくれる訳でもなく、いつしか仲は疎遠になってしまうのでした。
第三は私の心の奥に巣くう罪の問題でした。その頃の友人たちとの付き合いのなかでの遊びの多くは、聖書に照らしてみれば「罪」と思われるものでした。友だちはそれらの遊びのなかに無上の喜びを覚えているように見えました。一方私の場合はそれらの遊びをどんなに楽しもうとしても、いつも心の奥にわだかまりのようなものが残り、心から楽しむことはできませんでした。その理由は幼い頃から聖書の教えが私の心に刻まれていて、それが「罪」であることを告発しているからに外なりませんでした。
私のそのような内面の葛藤と家庭や教会への抵抗は時とともにエスカレートしていきました。そして、ついに20才のときに家出をしてしまいました。自分の自由を束縛するキリスト教やわが家に決別し、これからは意のままに生きていきたいという思いにかられてのことでした。
わたしはどこかで職を見つけ、そこであらゆる束縛から解放されて生きてみたいと願いました。しかし、予想に反し自分の思うように事態は進まず、たちまちのうちに生活にいき詰まってしまいました。
今更わが家に帰るわけにもいかず、自殺をはかるところまで精神的に追い込まれてしまいました。しかし自殺の前に、今一度自分がこれまで悩んできた最も深刻なただひとつのこと、すなわち「神がいるのかいないのか?」ということを問い詰めてみようという気持ちにさせられました。
そして、行きずりのとある見知らぬ小さな教会の門を叩いたのでした。そこで私はこれで最後だと思い、洗いざらい自分のこれまでの過去を告白し、心の疑問を応対に出てきた牧師にぶつけたのでした。
ところがその牧師は神から遣わされた代理人のように、私を暖かく受け止め、その上で諄々と私の非をいさめてくれたのでした。その牧師の語る一言一言が真実の言葉として不思議なほどに私の心に響いてきたのです。私の心はまさに堅く氷っていた氷が一気に溶けるような状態でした。
その牧師は、私がこれまでの神に対する反逆の罪のすべてを悔い改め、イエス・キリストを救い主として受け入れることができるようにと導いてくれました。私はそれまでの自分の人生で流したことのないほどの沢山の涙を流しながら、これまでの自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主として受け入れ、神へと立ち帰ったのでした。
今や私の心は変えられ、遠く離れたわが家に帰りこれまでの親不孝を両親に詫びねばという思いで一杯となりました。わが家に帰った私は、畳の上に両手をつき頭をこすりつけて、これまでの自分の親不孝を両親に詫びました。両親は私を赦し、家出息子が神を信じて帰ってきてくれたと心から喜んでくれました。
イエス・キリストによって救われ、神に立ち帰った私の心には言葉では表現することのできない深い喜びが満ちていたことを昨日のように思い出します。 そして私はこの福音を伝えるために牧師になる道に進み、今に至っています。

【福音に生きよう】

これが、私の福音体験です。
キリストが私のために十字架に架かって死んでくださった、そのことを信じて私は救われたのです!
キリストはよみがえられた、このキリストがいつも私と共にいてくださるのです!
その恵みに生かされているのです!
これが福音です!
皆さんも、それぞれに人生の状況は違うかもしれませんが、同じような福音体験をしてこられたのではないでしょうか。

「福音」とは、日本語では、「幸福」の「福」、「音響」の「音」と書きます。
つまり、喜びの音、幸せの響き、音色といったニュアンスが込められています。
英語では、「グッドニュース」と言います。
まさに、喜びに満ちた良い知らせということです。
新約聖書のギリシャ語では、「ユアンゲリオン」という言葉です。
その意味は喜びにあふれた知らせ、喜び・幸福をもたらす知らせ、という意味です。

パウロは、自分はこの福音を体験し、最も大切なこととしてあなた方に伝えたと言うのです。
そして、その福音を保ち、生き抜いていくならば、あなた方は救われると言っているのです。

私たちは今、私たちもまたこの幸いな福音に与っていることを感謝しようではありませんか。
そして改めてこの福音に生きる者、生かされている者として歩んでいく思いと在り方を堅く保とうではありませんか。
まだ、この福音の幸いを体験しておられない方は、ぜひこの福音に一日も早く与っていただきたいと祈り願います。

キリストは私たちのために十字架に死んでくださった、そのことを信じる者は救われるのです!
キリストはよみがえられた、そしていつ、いかなる時も私たちと共にいてくださるのです!
これこそ、聖書が伝える福音、グッドニュースなのです!
この福音にこそ共に生きていこうではありませんか!