ピリピ2:12-14  北松戸福音教会牧師 都鍾倍

「救いの達成に努める」
今日の題を、「この道を歩み続けましょう」とさせて頂きました。
「この道」というのは、救いの唯一の道である「イエス・キリスト」を意味しています。
従いまして、この道を歩み続けましょうと言うことは、「救いの道を歩み続けましょう」。
「イエス・キリストを信じる信仰を持ち続けましょう」とも言えます。

12節にこのように記されています。
「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい」
パウロはローマの獄中にいますが、彼はピリピ教会の一致を強く願っています(2節)。
そのためにひとり一人がイエス・キリストの心構えを持つように勧めました。
そして、ここでは自分の救いの達成に努めるようにと勧めています。
自分の救いの達成に努めることは、信じている信仰から離れることがないように努めることです。
救いは主の恵みですので、救われるための私たちの努力を主は求めません。
しかし、救われた者としての相応しい生き方をするように主は求めておられます。

東京から大阪までの新幹線のことを想像してみてください。
私たちが救われたのは、この新幹線の車両に乗ったということと考えられます。すでに乗っています。
救いの達成に努めるということは新幹線の車両に乗るために努力しなさいということではありません。
すでに乗っているので、乗るための努力は必要ありません。
それでは、努めることは何を意味するでしょうか。
それは、乗っている車両から降りないように努めることです。途中で降りたくなる気持ちになるかもしれません。しかし、降りることがないように私たちは努力する必要があります。

救いの達成に努めることは、新幹線の車両に乗っていながらもその中で走ることではありません。
乗っていながらも、自分が走ったから大阪に着くことができたという人はいないでしょう。
しかし、信仰においてこのように考える人は、自分の経験から見ると少なくありません。
かつての私自身もそのような理解をしていたことがありました。
それはほとんど無駄な努力であり、むしろ救いの恵みを無視することにつながるでしょう。

この新幹線の例えでは、私たちのすべき務めが新幹線から降りないことだと申し上げました。
割と簡単でたやすいことだろうと思いがちで、努めることは何の苦労もないように見えます。
しかし、実際私たちがこの道を歩み続けていると、多くの困難に出会うのが現実です。
何故そうなるのかという疑問もありますが、実は私たちの信仰の模範であるキリストの歩みがそうでした。
従いまして、この道を歩み続けるためには、イエス・キリストに倣うことが求められます。
イエス・キリストは多くの人々から蔑視され、非難され、侮られました。
何より十字架の死がイエス・キリストの先に待っていたのです。
しかし、イエス様はそれを避けることなく、神の御心であるその道を歩み続けられました。
イエス様もこれは避けたいと願われたこともありました(マタイ26:39)。
しかし、私たちに永遠のいのちを与えようと、神の御心に最後まで従われました。
このように、イエス様は苦しみがあっても神様に従い、私たちが歩むべき道を示して下さいました。
私たちはこの道から離れることなく歩み続けることが今求められています。

「みこころのままに」
13節にはこう記されています。
「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせて下さるのです。」
ここには、何故私たちがこの道を歩み続けることができるかに対する理由が記されています。
「志を立てさせ」を新共同訳では、「望ませ」と訳されています。
私たちの望みも神様が与えられたという意味です。そして、望むことを行う力も神様が与えて下さったことも意味しています。神様ご自身がそのようになるように私たちを導いて下さるのです。何故なら、それが神様のみこころだからです。神様がそれを良しとなさるからです。
神様はご自分が良しとされることを行うことができるように私たちを導いて下さるお方です。

パウロはピリピでの伝道において神様の導きをはっきりと体験しています。
パウロは本当はアジアの方に伝道したかったのです。
しかし、主はマケドニアの人の幻を見させて、神の御心がアジアではないことを教えてくださいました。
それで、マケドニアで一番最初に入った町がピリピであります。
ピリピでも神様は紫布商人のルデヤの心を開いて下さり、パウロの話を心に留めるようになさいました。
その後パウロはピリピで投獄されますが、そのことによって看守が救われました。
パウロは主の導きを受けまして、ピリピ教会を開拓したのです。
神様はこのことを望まれ、パウロに伝道への志を与えられました。
しかし、パウロの思うようにではなく、神様の良しとすることのためにパウロを導かれたのです。

私たちは、パウロが受けたと同じ神様の導きを受けてこの教会に集っているのではないでしょうか。
まず、私自身について言えば、最初から私がこの教会へ来ることを計画し、練りに練って実行したことではありません。予想もできなかった形でここに導かれています。
そして、ここに集っている皆さんも同じではないでしょうか。
最初からここで礼拝を捧げようと思って来られた方は一人もいらっしゃらないのではないでしょうか。
行ってみようと思い、礼拝を捧げ、心が開かれ、今に至っていると私は想像しています。
主は、私の心にも、皆さんの心にも、主を礼拝したいと望ませて下さり、礼拝の場所を用意して下さいました。ひとり一人をここに導いて下さいました。

このように主が導いて下さったので、私たちは礼拝を共に捧げる幸いに与っています。
これからも主の導きを信頼して、ともに主を信じるこの道を歩み続けましょう。

「感謝と信仰をもって」
14節の御言葉です。
「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい」
「私たちがこの道を歩み続ける」ために必要なことは「感謝と信仰」です。
「つぶやくこと」は「不平、不満を言い表すこと」です。
かつて、エジプトでの苦しみから、モーセによって導き出されたイスラエルの民は、度々、彼らの置かれた状況についてつぶやきます。
イスラエルの民はエジプトで400年間奴隷として苦しい生活を強いられていました。
神様は、モーセを通して、彼らをエジプトの支配から解放させ、その地から救い出しました。
その時、神様は十の奇跡を行われまして、イスラエルの民に対する神様の心をはっきりと教えられました。
それで、イスラエルの民はエジプトの地を発って、神様が約束された地への旅を始めました。
しかし、彼らは旅の途中に出会う様々な困難の故に、すぐにもつぶやき始めました。

紅海を前にして、エジプトの兵士たちに追われたとき、彼らはモーセに不平を言います。
マラという場所で水のことでモーセにつぶやきました。
シンの荒野で食べ物のことでまたつぶやきました。
その後は、水がないということでつぶやきました。
彼らは、あれほど大きな神様の御業を目撃しながらも、身の周りのことでつぶやきます。
このような彼らを神様は、かたくなな民だと言われました。
結局、彼らは神様が彼らのために用意しておられた地に入ることができなくなってしまいました。
感謝をもって主が与えられた道を、しっかり歩めば、乳と蜜が流れる地に入れるはずでした。
しかし、残念ながら彼らはその道を歩み続けることができませんでした。

このようなつぶやきは疑いをもたらします。
不信仰の故に、つぶやくとも言えるでしょう。つぶやくことと不信仰は深い関連があります。
その結果は非常に痛いものです。聖書は彼らが神の安息に入れなかったと記しています。

そして、つぶやきと疑いは、教会の一致を妨げるものです。
出エジプトのイスラエルの人たちのつぶやきから見ると、彼らのつぶやきは共同体の分裂をもたらします。
主の導きを信じ、示された道を歩もうとするとき、つぶやくの人々がいると、皆が同じ心を持ち、志を一つにすることは非常に難しくなります。
イスラエルの話を読むと、つぶやきと不信仰がどれほど彼らを苦しめ、神様の怒りを買ってしまったかが良く分かります。

私はこのことに関して神様に感謝し皆さんにも感謝を申し上げたいと思います。
私たちの教会では誰もつぶやかず、疑わずに集まりが保たれていることが嬉しいです。
目に見える状況は決して良いものではないのに、ひとり一人が感謝と喜びをもって集って下さる。
パウロも私たちのこの姿を見て、良い教会ですねと認めてくれるとも思ったりします。

私たちがこの道を歩み続けることは、苦しみもあり、時には思わぬ災難に遭うかもしれません。
しかし、この道は、主の約束された道であり、最後には消え去ることのない喜びと平安が与えられる道です。
この道を私たちは共に、感謝と信仰を持って歩み続けようではありませんか。