ピリピ2:5-8  北松戸福音教会牧師 都鍾倍

「寄り添う心構え」
今日の聖書はこのように語っています。
「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」
心構えは、心、思いとも訳される言葉です。2章1節からの流れから考えると、心構えという訳はとても良いと思います。これは、単なる思いや心を持っていなさいというより、思いと心を用いる姿勢がどうあるべきかを語る言葉なのです。
スポーツ選手にはスポーツ選手としての心構えが求められます。兵士には兵士として相応しい心構えが求められます。また、別の者にはそれに相応しい心構えが求められています。心構えは、一度限りのことではなく、いざとなった場合すぐ望ましい行動ができるように常に、準備していることです。

それならば、クリスチャンにとして望ましい心構えは何でしょうか。聖書は、それをキリスト・イエスのうちにも見られるものだと記しています。キリスト・イエスのうちにも見られる心構えはどういうものなのでしょうか。
6節「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず」
キリストは神様です。神の御姿である方という言葉はそれを意味しています。この世を創造された神様です。この世のすべてのものの上に立っておられるお方です。そして、願うならばそのまま栄光の座から降りなくても良いお方です。しかし、キリストの思いはそうではありませんでした。
続く7節にこう記されています。
「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、」
キリストは神の姿を捨てられないとは考えず、人と同じようになり、人として地上に降りて来られました。それでは、何故キリストはこのようなことをなさったのでしょうか。聖書はその理由をこのように記しています。
「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです」(へブル2:17)。
人の罪のために、罪の赦しのために、人と同じようにならなければならなかったのです。天の高い場所から、言葉で命令するのではなく、私たちがいる所まで自ら来られました。私たちに寄り添うキリストの恵みなのです。
アルバート・シュバイツアーは密林の聖人と言われる人です。そして、ノーベル平和賞をも受賞する偉大な人物です。彼は、裕福な家庭に恵まれ、良い教育を受けます。30歳の頃は、哲学博士、神学博士でありバッハ研究の第一人者としても知られていました。オルガン演奏者としても有名でした。大学の講師の職も得ていまして、若いうちに成功した人生を送っていました。しかし、彼はこれらのものを全部投げ捨てて、イエス様のように人助けの人生を送ろうと決心しました。そのため、遅いスタートを切るものの、医学の勉強をはじめ、医学博士になります。そして、アフリカに旅立ちました。彼の働きは二回の世界大戦によって多くの困難に遭い、働きができなくなったこともありました。しかし、彼は絶えず、人のために自分のできることを行いました。やがて多くの人々からその功労が認められました。ノーベル平和賞の賞金を病院の設立のための資金として、全部注ぎ込みます。そして、彼は最後の時をもアフリカの地で迎えるようになり、その地に眠りました。シュバイツアーは、自分の国で、裕福な生活を送ることができたにも関わらす、すべてを投げ捨ててアフリカの貧しい人々のために、一生涯働きました。
考えてみると、シュバイツアーは自分の国で、持っているものを用いて、アフリカの人々のための働きをすることもできたと思います。しかし、シュバイツアーは、自ら現地に行き、彼らと共に生活しながら、彼らの状況と心に寄り添うようにして働きました。イエス・キリストのようにシュバイツアーも彼の助けを必要とする人々に寄り添う働きをした人でした。

「成功を目的としない心構え」
人に寄り添うキリストの心構えは、この世の求める成功とは違うことに気づかされます。
8節にはこのように記されています。
「自分を卑しくし、死にまでも従い、実に十字架の死にまでも従われました。」
イエス様が人となり、私たちの罪を赦して下さるために、イエス様が受けた事柄は、意外なものです。華々しい英雄らしい働きとは距離があります。どう考えても成功というものとは思えないように見えます。何故でしょうか。

本来、罪の本質は、私という者が神様より上に立とうとする欲求です。本来神様がおられるべき所に、私という者がその場所を占領しようとする働きが罪の性質です。私の名が神様より認められる、あがめられるのを喜ぶのが罪なのです。逆に言えば、私という者が認められない、私の名があげられないような状況には素直に喜べなくなるということです。
これは人との間においても、人の上に立たないとどうしても満足できないような心となります。成功して、有名になり、多くの人々に認められる人生でなければ満足できない心となり成功が人生の目的となってしまいます。
人は、はるかに昔から、自分の名をあげることに夢中でした。創世記11章にバベルの塔の話が記されています。人々がバベルの塔を建設しながらどのような心を持っていたかが記されています。このようにです。
「さあ、われわれは町を建て、頂きが天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」(創世記11:4)
頂きが天に届く塔を建てて、名をあげようとしています。それを通して、自分たちの力を示そうとしていました。このようなことは現代においてもあまり変わりないと思います。
全世界の大都市には、約束したように高い建物が建てられています。摩天楼(天をこするかのように高く立てられた建物)とも言われる建物が大都会を象徴するようになっています。東京にも最近スカイツリーという高い建物が完成して、多くの人が訪れる名所となっています。
摩天楼は、この世の富の力を人々に見せつけます。人は摩天楼の高さと大きさに圧倒されると同時に、成功と富へのあこがれも植え付けられます。
ある有名な実業家は、自分の夢として、自分の国で一番高い建物を立てることを目指し、それを実現するようになりました。彼は、自分の国に100階を超える超高層ビルを建てて、もうすぐ完成を目前にしています。成功するという願いそのものを悪いとは言えないでしょう。しかし、成功することが目的となることには注意する必要があります。その心の根底には、自分の名をあげようとする欲望、野望が潜んでいるからです。そして、このように心構えを持つことは、自分を卑しくし、十字架の死にまで従われたイエス様の心構えとは真反対の心構えです。

自分の名をあげたい心は、信仰をもって生きる私たちの心の中にもあるのではないでしょうか。私はある先生との話を思い出します。彼は、子供のころから人生は成功することが最高の価値があるものだと教えられて来ました。20代になってイエス・キリストに出会いました。イエス様のために熱心に生きました。毎週の礼拝はもちろん、早天祈祷会や週の半ばのいろいろな集会にも積極的に参加しました。教会で必要とする奉仕も献身的に行いました。親の反対は強かったですが、親の気持ちより教会の牧師の気持ちがより大事だと思っていました。それが信仰だと思ったからです。時には、海外への短期宣教にも行きました。就職して、最初の月給を全部献金したそうです(最初のものは何でも神様に捧げるべきだと信じて)。そして、献身もしました。その時、その先生はこう思ったそうです。献身までしたので、これからは牧会者として成功したい。必ず成功すると。
ある時、主は、彼の心の根底にある思いを示してくださいました。彼が何故、そこまで熱心にしていたか。それは、信仰という世界の中で、成功したいという欲望の故だったと。いつの間にか彼の心は祝福と成功のために信仰を用いるようになっていたと。感謝なことに主は彼の心の思いが間違っていたことを教えてくださったという話でした。
私は、その先生との話でハッとする思いがしました。私はどうだっただろう。牧師として華々しい成功を夢見ていたのではないだろうか。否めない自分がいて、非常に苦しかったです。悔い改めました。そして、祈りました。イエス様のような心構えでいられますように。今現在も、これからもずっと私はこの祈りを捧げながら、自分の心構えを、イエス様のような心構えで保てるようにしたいと願っています。

これから私たちは聖餐の恵みに与ろうとしています。この聖餐式は、神の御姿を捨てて人となられたイエス様を覚える一時です。私たちの罪を赦し、永遠のいのちを与えるために十字架に付けられたイエス様を記念する一時です。聖餐を行うたびにイエス様のことを忘れないようにイエス様ご自身が命令されたものです。このイエス様を記念することと共に、イエス様のうちに見られる心構えを共に持ちたいと願います。私たちが常に持つべき心構えが聖餐式を通してよりはっきりと教えられることを願います。最後に5節の御言葉をもう一度読みましょう。「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」