ピリピ2:1-4 2015年7月19日 北松戸福音教会 都鍾倍牧師

「教会は本当に素晴らしい場所」
ある先生の説教を読みました。その先生が牧会を始められた教会での体験が語られていました。先生が牧会を最初に始められたところは、20人ぐらいの信徒が集まり、礼拝を捧げる地方の教会だったそうです。信徒の方々の年齢も高齢であって、いわゆる活気が満ち溢れる教会というより静かな雰囲気の教会だったらしいです。
ある日20代の女性が礼拝へ来られました。最初の日は、一番後ろに座っていました。感謝のことに彼女は礼拝へ続けて出席したようです。そして、バプテスマを受けるようになりました。バプテスマ式が終わってしばらくたってから先生が彼女にこのように訪ねたそうです。
「どうして教会の礼拝に来続けたの? 年寄りばかりで面白い場所じゃあないでしょう」
彼女はこう答えたそうです。
「わたしはこの町で生まれ、この町の育ちだけど、今までこんなに素敵な場所がこの町にあるなん
て知らなかった」
その教会のある町は日本でも有名な観光地で、とても素敵な場所が多く存在している町です。しかし、彼女はそのような素敵などの場所より、教会が素敵な場所だと言ったそうです。その先生の説教には彼女が何故教会をそのように思えたかの理由に対する彼女自身の説明はありませんでした。
しかし、この説教を読みながら、私自身、この千葉の何処よりこの教会が素敵な場所だと思っていたかと、はっとさせられる思いがしました。
そして、教会が本当に素敵で素晴らしい場所であるならばその理由は何だろうと思いました。
その答えをピリピ2:1から教えられました。このように記されています。
「こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら」

教会の頭であるイエス・キリストはどんなお方でしょうか。私たちが失望しているときに、私があなたと共にいる、私はあなたを必ず助ける、と励まして下さるお方です。悲しみの時、愛を持って慰めて下さいます。私たちが一人孤独に生きることがないようにご自身との交わりを与えて下さいます。同じ御霊によって救われた信仰の友をも与えて下さいます。
教会はこのように励ましと慰めの主、イエス様を信じる人々が集まる場所です。励ましと慰め、愛情と憐れみが満ち溢れる場所です。教会はとても素敵な、すばらしい場所です。

「教会にも問題はある」
このような素晴らしい場所である教会が持つべき姿を持つようにとパウロはこのように語っています。
「私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。」(ピリピ2:2)
教会は同じ心で、一致を保つことが求められています。教会は、信仰によってつながっている家族だからです。家族同士仲良しというのは、誰もが賛成する考え方ではないでしょうか。私の父は、私が幼かった頃から口癖のように、家族、特に兄弟は喧嘩してはならないと言っていました。これは誰もが望むことだと思います。信仰においての家族、つまり教会においても同じように仲良しというのが求められています。
パウロのために、愛をもって物を捧げ、熱心に祈っているピリピ教会はとても理想的な教会のように思われます。教会員同士がとても仲が良い教会のように思われます。確かに、ピリピ教会は実に素晴らしい教会だと思います。しかし、問題をも抱えていました。
多くの聖書学者は、ピリピ教会において、二人のリーダーの間に対立があったと見なしています(ピリピ4:2)。教会のリーダーであると、素晴らしい信仰を持つ、人格的にも優れた者だと思います。しかし、彼らは一致を保つことが出来ていなかったです。何故でしょうか。
宗教改革者マルティン・ルターは、キリスト者は「義人にして罪人である」と言いました。キリストによって義と認められたのですが、罪人であることに変わりはないのです。私たちは罪赦されて生きる罪人なのです。教会に集う人は、皆不完全な者です。弱さを抱えています。それ故に、実際に問題が教会の中に起こるのです。

「謙遜、尊敬」
パウロは、ピリピ教会が一致を保つように彼らを勧告しています。それが最もふさわしい教会の姿だからでしょう。そのために、ピリピ教会の人たちが実際に行うべきことをパウロは語っています。3節の御言葉です。「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりも優れた者と思いなさい。」
ジョージ・ホイットフィールドとジョン・ウェスレーは18世紀イングランドで、とても有名な伝道者でした。二人は魂の救いへの熱情、牧会の方法もほぼ同じであったと言われています。二人の間、唯一の違いは神学的な立場でした。ある人が、この二人の神学的な立場が違うということを知り、このような質問をしました。「ホイットフィールド先生。先生が天国へ行ったら、そこでウェスレー先生に会うことができますか。」この質問にホイットフィールドはこのように応えたそうです。「私たちはウェスレーに会うことができないと思います。何故なら、ウェスレーは神様の御座のすぐそばに座っていて、私は神様の御座から遠いところに座っているからです」神学の立場が違ったとしても、ウェスレーの能力と働きを認める答えでした。
私と違う意見を持っているからとして、相手をさげすむことなく、相手を認め、むしろ自分より優れたと認めることは、多くの人の心を一つにすることが出来ます

「配慮」
続けてパウロはこのように語っています。4節です。
「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」
教会が一致を保つために必要なことは、他の人への配慮だというのです。
天国と地獄の様子を説明する話を聞いたことがあります。
まず、天国も地獄も全く同じに、大きい食卓に、すごいご馳走が用意されてあります。食卓を囲んで人々が座っています。そして、食べ物を食べるためのお箸が各自の前に置かれてあります。ここまでは天国も地獄も同じだそうです。しかし、違うのは食卓に座っている人たちの様子です。天国の人たちは皆がお腹いっぱいに食べられ、満足そうに楽しく食事を楽しんでいる。反面、地獄の人たちは誰もが食べることができないまま、皆がやせた醜い体をしています。この差は何故でしょうか。答えはお箸にありました。お箸が人の腕より長いのです。ですので、箸を使って自らの口へ入れることができません。
それで、天国の人たちは、長い箸を使って、自分の前に座っている人の口へ食べ物を運んであげる。自分も相手から運んでもらう。それで互いにおいしい食べ物を食べることができたのです。反面、地獄の人たちは、目の前のご馳走を他の人にあげたいと思わず、自分だけ食べようと必死になっていました。結局、誰もが何一つ食べることができませんでした。

自分だけではなく、他の人のことを顧みるのはこのようなことではないでしょうか。皆が自分のことだけを思うとするならば、そこに起こることは分裂です。自分だけを思う心に他の人の立場を考える余裕はありません。配慮はできなくなり、争いや分裂が起こります。
しかし、これはイエス・キリストが望んでおられる教会の姿ではありません。配慮をもって他人のことをも顧みる姿が、教会の本来の姿ではないでしょうか。

教会は素晴らしい場所です。それは、謙遜と配慮を持って生きることのできる人々の集まりだからです。そして、これは教会に集うひとり一人が頭なるイエス様につながっており、イエス様の励まし、慰め、愛をいつも豊かに受けながら生きることができているからです。私たちは常にイエス様につながっています。イエス様は私たちに励まし、慰め、愛を豊かに与えてくださっています。そして、私たちが受けているその恵みを、他の人にも分かち合うことを求めておられます。謙遜と配慮を持って生きることを望んでおられます。私たちの教会がこれからも謙遜となり、他の人への配慮に満ち溢れ、イエス・キリストを現わすように成長することを切に祈り求めます。