ピリピ1:29-30 2015年7月12日 北松戸福音教会 都鍾倍牧師

「一般的な人の心理」

 パワースポットという言葉を聞いたことがありますか。他の言葉ではスピリチュアルスポットとも言います。それに関する情報を調べてみるとこのように記されています。「人を癒すとされる水があったり、人に語りかけるとされる岩があったり、あるいは磁力を発する断層があったりすると解説されている。パワースポットで何を感じるかは人により様々だとする。そこにある自然を通して癒しを求めるのも、やる気を得るのでも、感じ方は人それぞれで、要は何でも良い。」
 パワースポットが人気を集める理由の一つは、本来厳しい修練をしなければ得られない力を、その場所にいるだけで、身分性別問わずに得られるという画期的なものであるからだと説明されています。簡単に力が得られる魅力的な場所だということです。全世界、日本にも多くのパワースポットと言われる場所があります。この前、大きい噴火を起こしました御嶽山(おんたけさん)も有名なパワースポットの一つでした。
 このように言われるようになった場所の多くは本来、自然に対する信仰の場所であります。そして、人々がパワースポットを訪れる目的は、自分を癒すため、やる気を得るため、勇気をもらうためだとも説明されていました。人々が信仰の場所とも言われる所に行く目的は、自分自身に必要な力を得るためです。しかも、簡単に手に入れることができるというのが非常に魅力的です。
 このような、一般的な人の心理が私たちの信仰においても影響を与えているような気がします。信仰は素晴らしいが、苦しみは良くない。できれば、信仰の素晴らしさ、恵み、力だけで生きたい。信仰のための苦しみというのはあまり聞きたくないし、望まない。もしかして、私たちの心のどこかにこのような思い、期待があるかもしれません。

 聖書はこのことをどのように語っているでしょう。29節の御言葉に共に耳を傾けましょう。
「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜っています。」
 イエス・キリストのために賜ったもの、賜物が信仰だと言っています。そして、その信仰のゆえに、私たちが救われ、信仰の故に主の約束を頂くことができます。しかし、聖書は信仰だけが、キリストのための賜物だと言っていません。29節の後半にこのように記されています。「キリストのための苦しみをも賜った」と。
 一般的な人の心理と同じように、私たちの信仰を考えると、苦しみは経験せずに、祝福を頂きたいと願うところがあるような思いがします。しかし、少なくても、この御言葉から考えると信仰と苦しみは別々に考えることができないものであります。

「信仰と苦しみはコインの両面」

 29節の御言葉によると、信仰も苦しみも賜物だということです。しかし、これは別々に与えられたのではなく、同時に与えられたと記しています。「信仰だけでなく、苦しみをも賜った」と。「賜った」つまり、すでに与えられたということです。信仰が与えられた時、同時に苦しみをも与えられたと。
 信仰と苦しみは、コインの両面とも言えるでしょう。コインには、金額を記す面とその裏の面があります。この両面が合わさってコインとしての価値を持ちます。金額だけでは貨幣として使いません。裏の絵柄だけでも貨幣の価値はありません。必ず、両面があって、一つにならなければなりません。
 信仰と苦しみもそうであって、苦しみがない信仰はその本質が問われます。また、信仰がない苦しみは単なる苦しみだけで終わってしまいます。
 本日の交読文は、アブラハムがイサクを全焼のいけにえとして捧げるようにと神様から命じられた箇所を読みました。この試練は神様から与えられたことです。このことの結果を私たちは知っています。愛するイサクをも捧げようとするアブラハムの姿勢に、神様はアブラハムの信仰を認め、イサクの代わりに一頭の雄羊を用意して下さいました。
 アブラハムは神様に従うために、三日を歩いて行きます。そして、山を登ります。この行動はアブラハムにとっては、とてつもない大きい悩みであり、苦しみであったことに違いないでしょう。三日間アブラハムが何を考えたか。想像もしたくない苦しい心境ではなかったでしょうか。しかし、アブラハムは信仰をもって一歩一歩歩いて行きます。その時、山の反対側から雄羊が山を登っています。アブラハムには見えないけれど、アブラハムが苦しみの中で、信仰をもって一歩一歩山を登ると、神様が用意された雄羊も一歩一歩上って来ます。やがて、神様が指定した場所までたどり着いた時、雄羊も表れるのです。
 アブラハムには、主を信じる信仰が与えられていました。主はアブラハムをその信仰の故に義人として認めました。しかし、その信仰と共に試練をも与えられました。愛する息子を本当に捧げなければならないかという葛藤と戦わなければなりませんでした。もし、アブラハムが信仰だけでとどまる、つまりイサクを捧げるための苦しみを受け入れなかったら、主の備えを体験することができなかったでしょう。彼の信仰は単なる想像で終わったでしょう。もし、アブラハムが信仰がなければ、この苦しみを受け入れることすらしなかったでしょう。信仰があったので、この試練を受け入れ、苦しみが単なる苦しい経験で終わるようになりませんでした。信仰と、同時に与えられた試練があって一つのものとして成り立っています。

 私たちは、キリストのために受けている信仰を祝福を受けるための手段として考えているのではないでしょうか。パワースポットのように簡単に、苦しみを経験せずに欲しいものを手に入れたいと思ってはいないでしょうか。しかし、信仰と苦しみはキリストのために共に与えられた賜物です。信仰による祝福を願う私たちであるなら、苦しみをも祝福として受け入れることができるようにと願います。私たちはキリストのために信仰だけでなく、苦しみをも賜りました。もう一度今日の聖書を読んで終わりにしましょう。
「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜っています。あなたがたは、私について先に見たこと、また、私についていま聞いているのと同じ戦いを経験しているのです。」