ピリピ1:12-18 2015年6月14日 都 鍾倍

「不幸に見えることへの解釈」

私たちは、人生の中で何回も不幸と思われる出来事を経験します。

一年365日、すべてが幸せな日々であれば良いのですが、現実はそうではないのです。

ある人は人生の解釈がとても重要だと言っていますが、まさにその通りではないかと思います。同じ出来事に対する人々の様々な見解があり、見方によって出来事の意義も変わってくるのです。聖書は、私たちが自分の人生に対して正しい解釈ができるように導いてくれます。

神学校の卒業旅行で教えられたことです。星野富弘さんの記念館に行きました。当時は、星野さんのことは知りませんでした。もちろん彼がクリスチャンであることも知りませんでした。

記念館の中には、星野さんの多くの作品が展示されていました。いろいろな作品を見ながら、星野さんはどういう人なのかが少し分かるようになり、そこから少しずつ興味が生じ、私はいつの間にか一つ一つの作品に夢中になっていました。

そして、ある作品の前で足が止まりました。その作品にはきれいなお花の絵と聖書の御言葉が記されていました。詩編119編71節でした。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」

星野さんは事故によって全身麻痺になってしまいましたが、その苦しい出来事が彼自身にとっては幸せなのだと告白しています。そのように告白する理由として、それで主のおきてを学んだからと言っています。苦しみのゆえに主を知ることが出来たと思うことができ、その信仰によって自分の人生は幸せだと告白していたのです。これは、聖書のみことばが彼自身に起こった出来事を正しく受け止めることができるように働きかけた結果なのです。示されたみことばによる人生の解釈が彼を幸せな者とさせたのです。

星野さんが、また詩編の著者が、幸せだと言っていることについてパウロはこのように語っています。

12節「さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います」

パウロが投獄されたことは不幸に見えるかもしれません。しかし、パウロはそのようにはとらえず、自分に起こったことがかえって福音を前進させることになったと、それを分かってほしいと言っています。つまり、これは不幸ではなく、かえって福音を前進させる喜ばしいことだと、パウロはこれを喜んでいると18節の後半でこのように語っています。「このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。」

私たちは望ましくない出来事に対してどのように解釈していますか。願わくは、その望ましくない出来事をパウロのように解釈できること、もっと願わくは、それゆえ主の知ることができたので喜んでいると告白できる者となりたいです。

「福音を前進させる」

このようなパウロの喜びの根拠は何であるでしょうか。パウロはさらにこう言っています。

13節「私がキリストのゆえに、投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり、」

14節「また兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにとり、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました」

パウロ自身の投獄が、犯罪による刑罰であったのではなく、キリストを伝えたことだというのが明らかになっているからだと言っています。周りの誰もがパウロが投獄されたのは、キリストを伝えようとする熱心さのゆえであることを知っているということです。

従いまして、パウロの投獄は恥ずかしことではありません。むしろ、投獄の原因がキリストであるゆえに、そのことは同じ信仰を持っている人々に勇気を与えることにつながっています。兄弟の大多数が大胆に神のことばを語るようになったのです。

通常、投獄される仲間がいれば、他の人たちは身を隠したり、逃げたりすることでしょう。しかし、信仰のゆえに起こったことは、同じ信仰を持っている人たちを勇気づけるものになります。励ましを与え、恐れではなく、その人をますます大胆にさせるのです。

パウロはこのことを目撃して、自分に起こったことが福音を前進させることになったと確信を持ち、喜んでいます。

ひとりのクリスチャンが信仰によって生きる姿は、他のクリスチャンに大きい励ましと勇気を与え、彼らも信仰によって生きられるよう力を与えます。それは、みんなが全く同じ行いをしなければならないことを意味するのではありません。それぞれの行いは違っていても、結果として神のみことばを語るようになるのです。パウロの信仰による姿勢、つまりキリストのゆえに生きる姿が、親衛隊の全員と他のすべての人に明らかになり、それを見た他のクリスチャンが神のことばを語るようになったのです。私たちがキリストのゆえに苦しみを受けていたとしても、キリストにあってそれを喜ぶなら、その姿は教会のすべての人を励まし、より大胆にキリストを示す生き方へと導いてくれます。

ここで、私たちは一つ自分自身に問いかけたいと思います。私たちは福音を前進させることにつながる生活をしているでしょうか。私たちに起こったことが、たとえそれが嬉しいことであっても、苦しいことであっても、それら全ては「キリストのゆえに」となっているでしょうか。そして、それを通して同じ信仰を持っている人々を励まし、勇気を与えているでしょうか。

私たちの存在と歩みが今より豊かにそのようなものであるように切に祈り求めましょう。

「キリストが伝えられることを喜ぶ」

パウロはさらにこう語ります。15節から17節です。

「人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。一方の人たちは愛をもってキリストを伝え、私が福音を弁証するために立てられていることを認めていますが、他の人たちは純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えており、投獄されている私をさらに苦しめるつもりなのです。」

パウロの投獄によって神のことばを大胆に語る人々の中には、愛をもってパウロを助けるために語る人と、ねたみや争いをもって党派心によって語りパウロを苦しめた人がいました。しかし、両方同じくキリストを宣べ伝えています。

キリストを宣べ伝えるのに純真な動機ではなく、自分の利益や正当性を主張するために語る人をもいることが分かります。キリストが目的ではなく、手段となってしまったでしょう。このような人たちはパウロを苦しめました。一方、パウロを助けるために愛をもって一所懸命キリストを伝えた人たちもいました。彼らはパウロにとって間違いなく大きい励ましと慰めとなったことでしょう。しかし、このような人々の反応に対してパウロはこう語っています。

18節「するとどういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。」

パウロが気にかけていることは、キリストが伝えられることです。パウロの関心は、自分に賛同する人たちへの称賛でもなく、自分を苦しめる人たちへの戒めでもなく、あらゆる形でキリストが伝えられることです。キリストが伝わるなら、それで良い。

私たちならこのような状況でどのような言葉を語るのでしょうか。おそらく、私たちに賛同する人を称賛し、反対する人を批判あるいは叱るのではないかと思います。しかしそうする時点ですでに私たちの関心は人にあることが判明されます。

パウロはカラテヤ1:10節でこう語ります。

「いま私は人に取り入ろうとしているでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。」

パウロは人々の歓心を買うために彼らを称賛すること、あるいは叱ることをするよりは、自分を含めてすべてのクリスチャンがキリストが伝えられることに心を置くようにと教えています。キリストが伝えられるのであれば、それが嬉しいと語っています。

私たちはイエス・キリストを信じる信仰のゆえに様々なことを経験するでしょう。もしその中で望ましくない出来事があったとしても、それは必ず福音を前進させることとなります。また、そのことに対して人々にいろいろなことを言われるかもしれませんが、キリストが伝えられることだけに喜びを求めましょう。