コリント人への第一の手紙12:12-27  北松戸福音教会協力牧師 藤原導夫

【私はキリストの体の一部】

私がまだ若かった頃のことです。
高校3年生の時に信仰をもって洗礼を受けました。
そして自分なりに信仰生活、教会生活が始まっていきました。
ところが、教会にはさまざまな人が集まっていました。
尊敬すべき、愛すべき、そういう人たちもおられました。
でも中には、どうしてこの人がクリスチャンなんだろうか、なぜ教会に通っているのだろうかとおもわされるように人もまれにおられました。
そして教会という場所は、理想の世界ではないということが分かってきました。
もちろん良い所もありますが、人間的で良くないことも存在しているということが見えてきました。

そこで、私は決心したのでした。
もう教会に通うのは止めよう、一人で聖書を読み、祈って、キリストに従う純粋な信仰に生きていこう。
そのように心に決めて、しばらく教会から離れました。
けれども、事態は自分の思ったようには進みませんでした。
教会から離れて、純粋な信仰に生きていこうと願ったのですが、現実はそうならなかったのです。
聖書も読むことが少なくなり、祈りもあまりできなくなり、私の信仰は弱まっていったのでした。
教会から離れて、一人で立派に信仰に生きようと願ったのですが、それは失敗してしまったのでした。
やはり、教会に戻らなければならない、そう思わされて教会へと戻ったのでした。

そのような歩みの中で、やがて私はコリント人への第一の手紙12章の御言葉に触れ、深い真理に気づかされることとなったのでした。
今日の聖書箇所ですが、第Ⅰコリント12:27を読みたいと思います。
「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです」
「私はキリストの体である、私はキリストの体の一部なのである」、ということを教えられたのでした。

パウロは、エペソ人への手紙1:23でも、「教会はキリストの体である」と語っています。
この北松戸福音教会も、他のキリスト教会も、それぞれ「キリストの体である」と言っているのです。
聖書に出てくる教会という言葉は、ギリシャ語では「エクレシア」と書かれています。
それは、私が普通イメージするような建物を意味しません。
「エクレシア」とは、「召し出された者の群れ」という意味です。
神様によって召し出されて人々が集まってくる、その群れが、エクレシア、教会なのですね。
北松戸福音教会に当てはめれば、今日ここに集まってきている私たちの集まりが教会なのです。
パウロは、その教会・私たちというのは、キリストの体であると教えているのです。

私は、そのことに深く教えられました。
私の信仰観、教会観がこれまでとはまったく大きく変わってしまったのでした。
信仰とは、一人で生きるものではない、仲間と共に生きていくべきものである、ということです。

【教会はキリストの体である】

パウロは、そのことをとても分かり易くここで私たちに語ってくれています。(15~17節)
12:15 たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
12:16 たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。
このように考えてしまったのが、かつての私でした。
私は「足」であり、「手」であるあなたたち、教会とは関係ありません、そのように考えていました。
でも、パウロは言うのです。
あなたはそのように言うかも知れないが、足だけが離れてやっていける訳はないでしょう。

パウロはさらに次のようにも言っています。
私は「耳」であり、「目」とは、関係ありませんという人がいる。
では「耳」であるあなたが抜けて、体全体が「目」になってしまったら、どこで聞いたらいいのでしょう。
あるいは、逆に体全体が「耳」だけになってしまったら、どこで見たらよいのでしょう。
体全体のために、体の一部であるあなたは必要である。
体から離れてはならない、とパウロは言うのです。
教会に集まる一人一人が、そのような理解をもって欲しいと、パウロは語っているのです。

パウロは、さらにもう一つのことを語っています。(21節)
12:21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。
「目」が「手」に対して、お前は必要ないよ、とは言えない、言ってはならないというのです。
「頭」が「足」に対して、お前は必要ない、とは言えない、言ってはならないということです。

(1)今、私たち、聖書を開き、讃美歌を開いています。
しかし、目が頁を見て、開きたいと願う、しかし手が実際に開いてくれなければ、できないのです。
目玉だけが飛び出て、聖書や讃美歌の頁をめくるとしたら、それは漫画の世界、ゲゲゲの鬼太郎の目玉おやじの世界ですね。
(2)私たちは、礼拝が終わったら家に帰ろうと頭で考える、しかし足が私たちを運んでくれなければ家に帰ることはできません。
頭だけがゴロゴロと転がって帰ることは出来ないでしょう。

パウロは、教会はキリストの体であるということを通して多くのことを私たちに教えてくれています。
私たちは、今、その中の二つのことを教えられたと思います。
(1)私たちは、自分などは要らないと考えて、教会から離れてはいけないということ。
私たち一人一人は、エクレシア、神が召してくださった集まり、教会にとって無くてはならないかけがえのない存在である、ということです。
(2)もうひとつのことは、教会ではあなたは要りませんということはできないということです。
神様は、召された一人一人を、ご自身の御用のために用いていてくださるのです。
そのことを互いに認め合い、支え合い、補い合って生きる、これがキリストの教会なのです。

【キリストこそ教会の頭(かしら)である】

教会はキリストの体である、と言った場合に、そこにははっきりとしたもう一つの意味合いが込められています。
それは言うまでもなく、その体の頭はキリストである、ということです。
パウロは他の手紙の中で、はっきりとこのことを語っています。
エペソ人への手紙5:23、コロサイ1:18などです。
そこには「キリストは教会の頭である」と語られています。
イエス・キリストこそ、教会のかしら、教会の主人公なのです。

実際の教会を考えますと、そのことがなかなか上手く実現していない場合があります。
牧師がボスになってしまっているような教会があります。
声の大きい信徒の誰かが教会を牛耳ってしまっているような場合があります。
信徒の中の社会的な有力者が教会を支配しているような場合もあります。
いずれも共通するところは、イエス・キリストが排除されてしまっているということです。
イエス・キリストが教会の頭になっておられないということです。

私は46年間、伝道牧会してまいりました。
実に欠けの多い人間であり、失敗の多い人間でしかありません。
神様の憐れみと、多くの方々の赦しと支えによって、ここまで歩んでくることができました。
そのような私ですが、キリストこそは教会の頭であると、いつも心に刻んで歩んでまいりました。

K教会の場合は、開拓から始めて、32年間奉仕させていただきました。
そして、今年の3月でK教会の牧師を引退いたしました。
多くの方からこう言われました。
「先生、どうして辞められるのですか、もっと続けてやってくださいませんか」。
また、このようにも言われました。
「先生、北松戸福音教会に行かれるなら、そこまでもついて行きますよ」、と。

私は、このように答えました。
「皆さん、私はこれまで32年間、私が教会の主人公ではなく、キリストこそ教会の頭であるといつも言い続けてきたではありませんか。私はキリストの僕に過ぎません。
私の跡継ぎとなる平塚牧師を助けて、キリストを中心にこれまでと同じように歩んでください」、と。

32年間、私と家内はそれこそ心血を注いでK教会のために働いてきました。
土地を買い、建物を建て、時間とエネルギーをそこに注ぎ込み、今の教会となりました。
K教会はある意味では、私たちの汗と涙、働きの実であります。
しかし、私も家内も、教会を辞めるに当たって、そこから一銭、一円も持ち出しませんでした。
そこから、誰一人として、連れ出して来ることもしませんでした。
なぜ、そのようにしたのか?
答えは、ただ一つです。
それは、K教会の頭はキリストであり、私と家内は、ただキリストの僕、はしために過ぎないからです。
K教会の皆さんからは、藤原牧師は冷たい、非情であると思われているかもしれません。
しかし、必ず分かっていただけると信じております。

北松戸福音教会でも、都先生ご夫妻、そして皆さんと共に、教会についてそのように考えていくことができれば幸いであると思っています。
この北松戸の地に、そのようなキリストの教会が出来上がっていくならば素晴らしいと思います。

北松戸福音教会の頭は、イエス・キリストです。そして、私たち一人一人はキリストの体です。
(1)ですから、どうぞ、私は北松戸福音教会とは関係ないとは考えないでいただきたい。
あなたはキリストの体の一部として神によって召されているのですから。
(2)そしてまた、この人は要らない、あなたは要らないと他の人のことを考えないでいただきたい。
その人もまた、あなたと同じようにキリストの体の一部として神に召されているのですから。

イエス・キリストこそ教会の頭であられます!
そして、私たち一人一人はその頭であられるキリストの体に属する一部であるのです!