ピリピ1:6 北松戸福音教会牧師 都鍾倍

「希望の御言葉」

皆さんは今までの生活の中で、クリスチャンとして自分自身にとても失望したことはないでしょうか。神様の恵みを受け、イエス・キリストを信じるようになり、大きい喜びと感謝と平安の生活を送っていたけれど、しかし、時間とともに自分の姿は、生活の中身は、それほど変わったことがなく、最初の喜びを失われているような経験はないでしょうか。自分は本当にクリスチャンであるか。本当に大丈夫か。もしかしたら、今そのような時間を過ごしている方もいらっしゃるかもしれませんね。

私は韓国にいた時に国が定めた義務を果たすため、2年半の兵役につきました。いろいろと厳しい生活でしたが、時間とともに適応することが出来ました。やがて、兵役の期間の終わりが近づいてきました。しかし、兵役を終えるという喜びより、兵役後の生活に対する不安が強く私の心に迫ってきました。
今考えれば、学校に戻って、一所懸命勉強をすれば良いだけの話でしたが、当時の私には何故かわかりませんが、とてもそのことが心配で、不安でした。このような不安の原因は自分の罪の故に持たされるものであることが当時に自分にはあまり分かりませんでした。
実は、私は救いへの確信を兵役の時に、はっきりと自分のものにすることが出来まして、信仰生活も楽しくしていました。しかし、実を言うと二重生活を送っていたのです。救いの喜びとこの世の喜び、両方をともに楽しんでいたのです。それって本当に救われたと言える?という問いかけをしたくなるでしょう。その問いかけを私は自分自身がしていたのです。しかしなかなか解決に至らず、とても悩まされました。悪いと分かりながらも、なかなか変えられない自分の姿は、一体何であろうかと。そのような日々を送っていた時に一曲の歌を聞きました。
実はその歌の歌詞が、このピリピ1:6を基にした歌でした。歌詞の内容はこのようなものです。「神様があなたの中に良いことを始められた。そして、そのことを神様が成就する。わが魂よ、落胆せず神様を見仰ぎなさい。神様があなたを麗しくする。」
当時は聖書にこのような御言葉があるとは全く知りませんでした
自分を見ると、自分の中に何一つ良いものがない。二重生活をしているとても悪い者だとしか考えられない。しかし、それで終わりたくはない。クリスチャンとして、救われた者として相応しく生きたい。でも、私の中にはそのような姿がない。このような戦いが私の心の中にありました。
何を選択するか。私が自分自身を見ているその視点を選ぶか、この御言葉が示すことを認めるか。言うまでもなく、私は、この御言葉を信じようと決めました。それは、本当に神様の恵みだとしか言えない、御言葉との出会いでした。それ以来、この御言葉は私を支えてくれる言葉となっています。現在も私はこの御言葉にすがって生きています。

「神様の御業である」

もう一度この御言葉を共に読みましょう。
私たちのうちに神様が良い働きを始められたと。この良い働きは何を意味するでしょうか。それは言うまでもなく、イエス・キリストの福音を意味しています。私たちを救って下さったことを意味するのです。そして私たちの救いは必ず神様によって完成されることが記されています。
この御言葉に対するある注解書の言葉を読ませていただきたいと思います。
「神は人間のごとくではなく、善をなすのに疲れたり、財宝が減ったりすることはない。それゆえに、我々は神の恵みに絶えず思いを向けるよう訓練されることが必要である。
すなわち、神は始められた御手の業を捨てられない。我々は神の御手の業である。従って、神は我々の中に始められたことを全うされるであろう」

この注解者はまず、神様は私たちの人間のごとくではないことを語っています。神様は、人間とは違う。神様が人間のごとくではないことが、何より大きい励ましではありませんか。それゆえに、神様は善をなすのに疲れることもなく、何かが足りなくなってしまい、途中であきらめることもないのだと言っています。まさに、その通りです。聖書は、神様は人間の思いをはるかに超えるお方だと記しています。すべての創造者であり、できないことが何一つもないお方である、すべてをご存じであると教えています。

救いの業は、この神様も御業であります。この注解者はこのように続けて記しています。
「私が、我々は神の御手の業である、と言う時、私は単に創造のことだけを言っているのではない。我々が神の子として選ばれた召命のことをも言っているのである」
神様の良い働きは、私たちの創造だけではなく、神の子として選んでくださることを意味するのだと。造っておいて、後は私たちの力だけで生きるように放置するのではなく、神様の子供として下さり、神様とともに生きるようにして下さったことです。
ですので、この良い働きは、救いとともに、神様が共におられることをもが含まれているわけです。
イエス・キリストは天に昇られる前に弟子たちにこのように語られました。「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20) 自ら選び出した弟子たちを置き去りにせず、世の終わりまでともにいると約束しています。
創造し、選び出し、完成されるまで、その間のすべての営みが神様に守られ、導かれることが神様の御業という言葉の中に含まれています。

「イエス・キリストの来る日まで」

神様の御業である、良い働きが完成される時があります。「イエス・キリストの来る日まで」です。
この時は、神様の定めたときでありますが、私たちにはその時期が教えられていないものでもあります。このことを考えると、私たちに求められることは信仰ではないでしょうか。
神様は、定めたことを必ず行うお方で、しかも誤りと疲れと、あきらめることがないお方だという信仰です。目に見えることがすべてではない。私が思うことがすべてではない。聖書が教える見方がある。言うまでもなく、私たちに希望を与えるのは聖書の御言葉です。
神様は良き働きを、イエス・キリストの来る日までに必ず完成される。この完成される時まで、私たちのすべての営みを守り導いて下さるお方です。

この定められた時があるというのは、私たちに大きい慰めになるのではないでしょうか。何より神様のご計画通りにすべての事が運ばれることが分かるからです。時が定められているのに、それが私たちに知らされていないということは、私たちの思い通りではなく、神様の思い通りにすべての事がなされることを意味するのです。神様はご自分の意志のまま、最善をなして下さるお方です。
先日、I教会のH先生の就任式に出席させて頂きました。多くの方が集まり、H先生の就任を心から喜んでいました。とても感動的な就任式でした。就任式の中、何人かの先生の祝辞がありましたが、祝辞のことば一つひとつがとても重みのある、心に響くお言葉でした。その中で、I教会の前任者であるF先生の祝辞のお言葉を紹介させて頂きます。
先生がI教会の名前を教会の皆さんと話し合って決めた後に、教団にそのことを伝えたとき、ある先生から「北」という文字のイメージが悪いので、「北」の文字を無くした方が良いですよと言われたそうです。でも教会皆が話し合って決められたので、その理由で変えるにはいかなかったそうです。先生は実は、寒いのがとても苦手だそうです。しかし、神学校卒業後に遣わされた場所が北海道だったそうです。もう北はご免だと思ったそうです。しかし、次の教会の名前が、I北教会でした。32年間I北教会で働きました。その後、教会から住まいを移しましたが、その住まいがまた「北」の字が入る場所でした。そして、協力牧師として出席される教会もまた「北」の字が入る教会でした。寒さを連想させる「北」は好まないのに、先生の人生に北から離れたことはなかったようです。そして、先生はこの言葉でしめくくりました。「私たちの人生、思い通りには行きません。しかし、必ず、主が導いて下さり最善をなして下さいます。」
自分の思い通りにならない人生、願いどおりにならない歩みに対して、私たちはその時、その理由を理解することはなかなか難しいかも知れません。しかし、神様が私たちのうちで始められた働きは、神様が共におられ、共に歩み、守り導いてくださることによって、成就されます。

私は、先生の話通りに、最善をなして下さった神様の良い働きを、就任式を行うI教会の姿から見ることが出来ました。開拓から30年余りを過ぎたこの時点で、立派な教会として、新しい先生を迎え入れる教会の姿、信徒の方々の姿勢から、見ることが出来ました。

神様の良い働きの完成を、私たちのひとり一人の救いの完成と思うと同時に、私は私たちの教会の歩みと別々に考えることはできません。私たちの教会の働きも神様によって守られ、導かれ、良い実りを得ることができると信じています。

私たちに求められるのは、信仰です。
パウロが、ピリピの教会の人々に対して、確信をもって、彼らに語り掛けているように、私も皆様にこの御言葉をもって語りたいと願っています。神様は、私たちのうちに良い働きを始められました。そして、その働きを必ず完成させて下さいます。私たちはその事実を、ピリピの教会から、I教会から見ることが出来ます。神様が完成させて下さることを信じましょう。最後に信仰をもってこの御言葉を共に読みましょう。