今日の個所はイエス様がなされたしるしを通してイエス様誰であるかを示しています。 それはイエス様が救い主であり、神様であることを示しています。特に、今日の個所は人々の必要を満たしてくださるイエス様の姿が記されています。 そして、イエス様と弟子たちのやり取りを通して、イエス様が弟子たちに意図されたことがあったというのが分かります。  まず、5千人の時と違って、イエス様が先に弟子たちに声を掛けられたことです。 “そのころ、また大ぜいの人の群れが集まっていたが、食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼んで言われた”(1節) 多くの人が集まっているのに食べ物がないということを弟子たちに言われました。 結果からみると、この問題はイエス様が解決されるのです。それなら、弟子たちに聞く必要がありません。しかし、イエス様は彼らにわざわざ聞いておられるのです。  もう一つの個所は4節です。 “弟子たちは答えた。「こんなへんぴな所で、どこからパンを手に入れ、この人たちに十分食べさせることができましょう」” 弟子たちのこの答えはどこかで聞いた覚えがあります。そうです。5千人を満腹食べさせたあのしるしです。その時も弟子たちはこれに似たような反応を示していました(マルコ6:35,37)。 この4千人が満腹に食べられたことは5千人の奇跡と時間的にそれほど遠くないのです。 しかし、弟子たちはその時のことを全く覚えていないのです。また同じ反応を示しているのです。 イエス様が誰であるかということに弟子たちの心がどれほど鈍いかを明らかにしているのです。 それ以外にも、イエス様が弟子たちにパンがいくつあるかを聞かれたこと、弟子たちにパンを配るようにされたことなどからも弟子たちへの意図が見られます。それはイエス様こそが人の霊的・肉的必要を満たしてくださる真の牧者であることを彼らが分かってほしいということです。そして、牧者の姿に倣う者として歩むことが求められています。私たちはこの姿から次のことを学ぶことができます。まずは、イエス様のあわれむ心です。次は正しい考えと奉仕です。最後は福音宣教の継続であります。

1.イエス様が群衆をあわれんだ。

“「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物をもっていないのです。”(2) これは、”わたしはこの群衆をあわれんでいます”という意味なのです。 まず、注目したいのはイエス様はあわれんでおられる対象は誰ですか。 それは、イエス様の助けを求めて集まっていた異邦人なのです。彼らはイエス様と三日間生活しました。 このあわれむという言葉は6章にも記されています。その時の対象はユダヤ人です。イエス様の同族なのです。イエス様はご自分の同族に対する心と同じ心を異邦人にも示されたのです。彼らの共通点はイエス様を求めてイエス様に近づいていた者たちであるという点です。イエス様はご自分を求める人々を、国、地域、民族の差別なく同じ心を持って受け入れてくださっているのです。  私たちの教会はこのイエス様の心を真剣に受け入れたいと願います。この教会には日本人、中国人、アメリカ人、韓国人が集っています。小さい群れでありながらも多様性を存在しているのです。 しかし、大事なことは、私たち全員はイエス様の御名の下で、その体なる教会に属していることです。求められるのはユダヤ人でも異邦人でも同じくあわれむイエス様の心です。この心を持ってこれからも皆さんと共に歩みたいと切に願います。  次に、イエス様があわれんだ人々の状態のことですが、彼らには食べ物がなかったということです。イエス様は三日間彼らと共に生活しながら彼らに神の国の福音を教えたでしょう。しかし、それだけではなく、彼らの肉体的な要求に関しても関心を示されたのです。  教会に集う私たちは互いに信仰の助けになるように祈り合うこと、同時に信仰の家族の肉の状況(健康、経済的など)にも関心を持って助け合うことが求められているのです。真の牧者であるイエス様が示してくださった姿だからです。

2.正しい考え方と奉仕への参与

イエス様に言われて弟子たちが答えます。 “弟子たちは答えた。「こんなへんぴな所で、どこからパンを手に入れ、この人たちに十分食べさせることができましょう」”(4節) へんぴな所というのは荒野を意味しています(2コリント11:26、へブル11:38)。 彼らは自分たちがいかにできない状況の中にいるかをもっぱら訴えています。 そして、その結論としてできないということを出しているのです。 そして、それは正しい見方でもあります。多くの群衆に比べると彼らが持っているのは七つのパンと少しばかりの魚だけでしたし、しかも荒野にいるからです。 しかし、彼らが忘れていたことがあります。今自分たちに声をかけている方誰であるか、この方が以前にも5千人の人を五つのパンと二匹の魚で満腹に食べさせたことがあったということです。  弟子たちのこのような反応はどこかで見た覚えがあります。それは五つのパンと二匹の魚で5千人が満腹に食べた時でした。その時も彼らはこのような反応を示しました。しかし、イエス様は彼らの思いをはるかに超える奇跡を示されました。  しかし、弟子たちはその時のことを全く心に留めていません。依然として、できない状況とできない自分たちの力ばかりに心がとらわれています。 このような弟子たちにイエス様ご自分が誰であるかをもう一度確認させてくださるのです。まず、彼らが持っているものが何かを訪ねられました。(これは自分たちの可能性を確認することでしょう) そして、それがイエス様の手に渡されます。そうするとこれからはイエス様の可能性にかかっていることとなります。これが重要なことです。弟子たちは自分たちの可能性を確認した上で、できないという結論に至るのではなく、イエス様にそれを渡すことをすべきでした。それがイエス様に仕えるものが持つべき正しい考え方なのです。それが真の牧者を頼る者の持つべき姿勢なのです。  そして、イエス様はご自分が祈られた後に、弟子たちにパンを配るように命令されました(6)。イエス様を頼り、お渡したことに対して、イエス様はそれを豊かにされ、また人々の必要を満たすための働きに弟子たちを参加させておられたのです。  弟子たちは繰り返して同じ過ちをおかしてしまいましたが、イエス様は彼らが正しく考え、イエス様のお働きに参加するようにしてくださったのです。  私たちも弟子たちのように真の牧者であるイエス様を忘れ、人間的な観点からの考えだけでとどまってしまうことがただあるでしょう。 しかし、弟子たちにそうでありましたように、真の牧者であるイエス様が私たちと共におられることを覚えるようにしてくださいます。そして、人々を豊かに満足させることのできる唯一なるお方の働きに私たちをお招きしてくださっています。

3.福音宣教を継続される(9,10)

このように4千人の人々を満腹に食べさせられたイエス様は次のようにされました。 “人々はおよそ四千人であった。それからイエスは、彼らを解散させられた。そしてすぐに弟子たちとともに舟にのり、ダルマヌタ地方へ行かれた。”  群衆を解散させておられたのです。これは5千人を解散させた時と同じことです。 人の観点から考えると、7つのパンと少しばかりの魚で四千人がお腹いっぱい食べられたこの奇跡の場所から簡単に離れることは難しいと思います。奇跡を体験した者はもっと奇跡を体験したいと願うようになります。特に、食べ物のことが解決される奇跡なら永遠に続けてほしいと願うものであるでしょう。人々は、イエス様がもう少し自分たちといっしょにいることを願ったでしょう。弟子たちもこの素晴らしい雰囲気、気分をもう少し長く味わいたかったかも知れません。 このような人の真理をイエス様はご存じだったでしょうか、彼らを解散させられました。 そして、“すぐ”そこから離れられたのです。“すぐ”他の地方へ行かれたのです。 イエス様の心には今目の前に問題が解決できて喜ぶ人だけではなく、まだ問題を抱えて苦しんでいる人々への思いが絶えずにあったのです。 一度の奇蹟で、人々に満足を与えられたからといって、終わるお働きではなかったです。すべての人を満足させる真の命を与える真の牧者としてのお働きを全うされるために、他の地域、人々の方に行かれるイエス様の姿です。果たすべき使命がありましたし、その時までは絶えず神の国の福音を伝えるお働きをやむことがありませんでした。そして、その働きに弟子たちと共に行かれたのです。 このような絶えない福音宣教への続きは、イエス様の弟子たちを通して、今日の私たちに託されているのです。  イエス様は真の牧者として、4千人の飢えを満たしてくださったように他の地域の人々の飢え渇きを解決されることを絶えずに願い、働かれました。  私たちもこのイエス様の姿に倣って、福音宣教の働きをやめることなく行いましょう。私たち教会の人々だけの満足ばかりではなく、まだイエス様を知らずに、根本的な飢え渇きの中で苦しんでいる人々に向かう姿勢を保ち続けましょう。  今日、私たちは真の牧者であるイエス様の姿から学ぶことができました。願わくは、この一週間の歩みの中でこれを行う歩みに励んでいくようにいたしましょう。そして、真の牧者であるイエス様の御心に少しでも近づく私たちでありますように祈り求めます。