この個所はイエス・キリストが創造主の神様であり、約束されているメシヤであることを意図しているのが37節を通して分かるのです。 “人々は非常に驚いて言った。「この方のなさったことは、みなすばらしい。耳の聞こえない者を聞こえるようにし、口のきけない者を話せるようにされた。」”
“耳の聞こえない者を聞こえるようにし、口のきけない者を話せるようにされた”というのが約束されていたメシヤがなされるしるしであります。イザヤ書35章5,6にこのように記されています。 “そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。
そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。”
ここでの“その時”というのはメシヤの到来によって成就される救いの日を意味しています。 そのしるしとして預言されていたのが、耳の聞こえない者の耳が聞こえるようになることです。
また、バプテスマのヨハネがメシヤとお出でになる方がイエス・キリストであるかを尋ねた時にこのように答えられました。 “イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。”(マタイ11:4-5) 今日の聖書でイエス・キリストがなされたことがメシヤであることを証明しているのです・ メシヤであるイエス・キリストが何をなさったかを今日は学びたいと思います。そして、その模範となる姿勢を倣う私たちであることを願い求めます。

1.無視される人々への関心

31節にはこのように記されています。 “それから、イエスはツロの地方を去り、シドンを通って、もう一度、デカポリス地方のあたりのガリラヤ湖に来られた。”
ツロで異邦人女性の娘を癒された後に、イエス・キリストが行かれた地域が記されています。 シドンはツロよりも北の方に40キロ離れて位置している地域です。ユダヤ地方からはもっと遠い場所です。
デカポリス地方というのは、ギリシャ文化が流行る10個の都市連合体でありました。当然、住民の大多数が異邦人です。イエス・キリストはこの地方の真ん中を通ってガリラヤ湖に来られたのです。 ガリラヤ湖はイエス・キリストの初期のお働きの中心地でもありますが、この周辺も多くの異邦人が住んでいました。
ユダヤ的世界観ではこの地域は入ることさえ敬遠される場所でした。当然、彼らとの交流は禁じられていました。 もし、このような異邦人の地域に入って、そこからユダヤ人の村に戻る時には、足からちりを振り落とさなければならない守りがあった程度です。異邦人のものであるならばちりのような小さいものでも自分たちを汚すのだと考えていたからです。 そして、ユダヤ人は異邦人のことを犬などに例え、とても蔑視していたのです。
このような場所にイエス・キリストは行かれたのです。しかも、その中に何日間を過ごされたのです。歩きで、ツロからシドンに行って、またデカポリス地方を通ってガリラヤ湖に来るためには2週間はかかるとも言われています。
イエス・キリストがこの地方においてどのようなお働きをなさったかは記されていません。しかし、重要なことは、メシヤであり創造主である方が異邦人の地、蔑視されるところに行かれ、とどまったということです。 これは異邦人に対するイエス・キリストの関心を示しています。 これらの地域は汚されていると思われる場所でした。実際、この地域の人々の生活は聖書の教えに従う、神様の喜ばれるようなものではありませんでした。偶像崇拝とそれに伴う性的乱れが公然と行われていたところです。神様の忌み嫌う多くのことが行われていたのです。だから汚れているとユダヤ人たちには蔑視されていたのです。  しかし、この汚れた地域にイエス・キリストが行かれ、とどまり、彼らと話し、接しておられるのです。最も聖いお方が最も汚れているところにおられる。何という驚きでしょうか。
この異邦人たちのことを考えると、これは救われる以前の自分の状態と似ていることに気づかされます。そして、その人々の中にイエス様がおられることは、自分の心にお出でになってくださったことを思い起こしてくれます。  このイエス様の異邦人への関心が自分の救いをもたらしたのです。 しかし、救われている今、イエス様のような心を忘れる時が多田あることに気づかされます。いつの間にかより環境的にス暮れている人やなるべく人々からも愛される人を教会へ導いて下さるように願うようになっている。これが自分の弱さでありますが、必要なことは、イエス様がなされたことを倣い、自分も実行することなのです。今、私たちが関心を注ぐ必要がある場所、人は何でしょうか。

2.うめきの中で祈る

ガリラヤ湖に来られたイエス・キリストの元に人々が連れて来た人がいます。それは、耳が聞こえず、口がきけない人でした。人々はイエス・キリストが彼の上に手を起きてくださるように願いました。しかし、イエス・キリストはその場ではなく、群れから彼だけを連れ出したのです。そして、彼の両耳に指を差し入れ、つばきをして、彼の舌にさわられました。そして、次のようにされました。 “天を見上げ、深く嘆息して、その人に「エパタ」すなわち、「開け」と言われた。”(34)
ここにはイエス・キリストの心の思いが記されています。それは”嘆息した”ということです。 “嘆息する”というのはうめくということです。この言葉はローマ書8章にも記されています。
“そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。”(23)
“御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。”(26)
イエス・キリストの嘆息、うめきは何でしょうか。 まず、それはその人への深い同情の心の現われです。彼の苦しみを理解されている心なのです。 そして、それは、絶望的状況の中で現れるため息でもありません。 むしろ、救い主としての深い同情の故に、彼の回復を行われることへの意志があらわれるものです。 ローマ書に使われているうめきにもこのような意味があることが分かります。
この耳が聞こえない、口のきけない人のことを多くの注解書は人間の霊的状況として適用しているのです。 本来健康であるべき人の姿が、損なわれてしまい、苦しめられていることは神様の御心ではありません。しかし、罪によって汚されてしまった人はその素晴らしい人の本来の姿を失ってしまったのです。 人間の本来の姿は、神様のみ言葉を快く聞き、神様と交わるものでした。しかし、罪の故に人間は神様から離れてしまいました。そして、その心はかたくなになり、神様のみ言葉を聞くことも、神様に話しをすることも、祈ることもできなくなったのです。 この人の姿はそのような人間の現実を表しているのです。イエス様はその深いうめきの故に、彼を癒されました。彼に対する深いうめきの心は私たちに対しても同じです。そして、彼の耳と口を開いて下さったように、私たちの心を開き、回復してくださったのです。私たちは魂に対するイエス様の深いうめきを倣いたいです。
私たちもイエス・キリストのうめきの心に倣って、霊的に神様から離れている人々のために祈っていきましょう。 恐らく、ここにおられる皆さんは、神様の似姿を失ってしまった多くの人々のために熱心に祈っておられるでしょう。それはうめきを伴うことです。ですので、それは簡単でも、楽でもない大変なことです。 しかし、私たちがその人々のためにうめいているならば、それは希望ある信仰の祈りです。天を見上げての祈りです。 私たちの願うことと今の現実は差があるかも知れませんが、その差を感じることで私たちの心は痛み、うめきます。しかし、それはイエス・キリストの心に倣っていることの証明です。 希望をもって祈り続けましょう。耳と口が開かれた人のように、神様がその人々の心を開いて下さることを信じます。

3.本来の目的を忘れない

イエス・キリストがこの人を癒されたことは人々に非常に大きい驚きを与えました。この驚きの中にはイエス・キリストに対する期待、それは政治的、現実的なものである、も含まれていたでしょう。しかし、その期待はイエス・キリストの意図とは違うものだったようです。
それは、イエス・キリストがこの奇跡を他のところでは話さないように命じられたことから分かります。 “イエスは、このことをだれにも言ってはならない、と命じられた”(36)
ここでは何故、イエスは・キリストがこのような命令をされたか定かな理由は記されていません。 しかし、イエス・キリストがこのような命令をされたのは今回が初めてではありません。ご自分のことを言わないように何回も命令されたのです。 その理由に対して、イエス・キリストに対する人々の誤解を防ぐためだということが一致している見解なのです。 つまり、イエス・キリストが人々が期待しているように政治的にイスラエルを解放するメシヤとは違うこと、そして、現実への必要を満たしてくれるためのお方ではないということです。
五つのパンと二匹の魚で5千人が満腹した時、人々の中では、イエス・キリストを自分たちの国の王としようという動きが強く現れました。しかし、イエス・キリストはそのような動きに同意せず、人々を強制的に解散させました。 もちろん、イエス・キリストはメシヤとして、ご自分の人々の必要を満たしてくださいます。しかし、それがイエス・キリストがこの世に来られた目的ではありません。その目的は約束されているメシヤとしての歩みです。これからイエス様は十字架の死を迎えなければなりません。それは神様の御心なのです。
イエス様は人々がこのことを分かることを願いました。しかし、人々はイエス様を救い主というより自分たちの現実の問題を解決してくださる方としか思っていなかったです。
イエス様は人々の驚き、人気者として受け入れようとしても、ご自分の使命を忘れることなく、常にそれを目指して歩まれたのです。もし、イエス様が人々が願うようなところで止まってしまったら私たちまで福音が伝えられることはなかったでしょう。
このことを考えると私たちがイエス様を人々に伝える時にも注意すべきことがあることに気づかされます。 それは、イエス様を信じることが必ずこの世的な祝福を保証するのではないということです。イエス様を信じれば豊かになる、病気が直る、人々との関係が良くなるなど。私たちがした素晴らしい体験があればよりこのように伝えたいと思うと思います。注意すべきことはイエス様を信じる目的が何かを正しく伝え、示すことにあります。 もし、私たちがイエス様を信じることがこの世の現実的な祝福のためであるかのように伝えるならば、このだれにも話さないようにと命じられた命令を破ることになります。
私たちもクリスチャンとして生きる目的が何であるかをよく考え、それを全うするための歩みをする必要があります。イエス様のように時には人の願いとは違うところに立たなければなりませんが、それはイエス様が見せてくださった模範であることを覚え、勇気をもって歩みましょう。
今日はメシヤであるイエス様が私たちに示してくださったことが何かを共に聞きました。 蔑視されているたましいへの関心、深いうめき、そして、目的を忘れない歩みを学びました。これらはイエス様がメシヤであるしるしを行った中で、私たちに示された生き方の模範でもあります。 私たちもこのイエス様の歩みを心に刻み、今週も歩みたいと願います。