本日の聖書にはイエス・キリストとパリサイ人、律法学者たちとのきよめに関する論争が記されています。

この部分は大きく1-13節と14-23節で分けることができます。最初の部分は形式的な信仰姿勢に対するものです。後半は人を汚がすものは口から入るものではなく、人から出て来るものであることが記されています。本日はまず1-13節のところから聞きたいと思います。口先だけで神様を敬うという、偽善的な信仰に対するイエス・キリストからの教えを聞きましょう。

今日のみ言葉を通して、私たちにも形式的な信仰姿勢がないかを考える一時となることを願います。

エルサレムからパリサイ人と律法学者たちがイエス・キリストの所に来ました。彼らが来た目的はイエス・キリストを歓迎するためではなくむしろ口実をみつけ、陥れるためでした。

パリサイ人、律法学者たちは手を洗わずに食事をした弟子たちの行動を口実として、イエス・キリストを非難しました。イエス・キリストはそのような彼らのことをこのように言われました。

イザヤの預言を引用して、“口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている”(6節)として厳しく語られたのです。そして、彼らが偽善者であると言われました。

偽善者という言葉は、俳優を意味するものであります。当時の俳優はお面をかぶって演じることが多かったことから、これは表と裏が違う二重性を表す言葉なのです。そして、これは言葉と行動が一致しないことをも意味しています。

イエス・キリストがパリサイ人、律法学者たちに対してこのような厳しい言葉を使われたのは、彼らが神様を敬うと言いながらも、実際のところにおいてはその反対の生き方をしていたためです。それは自分たちが聖い者であるかのように見せかける多くの行動指針を設けておき、それを行うことそのものを何より大事にしていたからです。

イエス・キリストは彼らとの論争を通して、人を本当に聖くするのは、口から入るものではなく、口から出るものだと教えられています。

偽善者の特徴は、聖書のことばを知っている言いながら実際のところは信じていないことです。

そして、彼らは人の思い、声、教えを神様の命令、みことばより大事にする人々なのです。

1.聖書の知識を知ることだけに留まる -イエス・キリストに対する非難

エルサレムからパリサイ人と律法学者たちが派遣されました。彼らはイエス・キリストのことを調べるために来たのです。このパリサイ人、律法学者たちは、神様の戒めに対する豊富な知識を持っていた者たちです。

専門的に神様の戒めを研究し、人々にそれを教えることができる者たちでした。

しかし、彼らは不自然なことをしてしまいます。それはイエス・キリストとその弟子たちを見て、喜ばないということです。

神様のみ言葉を良く知っている者なら、神様が送ってくださったイエス・キリストを知らなければならないのでしょう。

何故なら、彼らが良く知っていた旧約聖書がイエス・キリストを約束していたからです。

“あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです”(ヨハネ5:39)

聖書を調べるなら、イエス・キリストを証言していることが分かるというのです。しかし、聖書を調べ、専門的な知識をもっていたパリサイ人と律法学者たちはイエス・キリストを知ることが、信じることができなかったのです。

むしろ、イエス・キリストを嫌い、憎み、殺そうとしたのです。

このことこそが彼らが心をもって神様を敬っていなかったことを証明しているのです。

彼らが心から神様を敬い、その御心を知り、従おうとしたならば、聖書が証言しているイエス・キリストを排斥することはあり得なかったでしょう。しかし、彼らはイエス・キリストを嫌い、非難したのです。

それは彼らの心が神様から遠く離れていたからです。心というのは全人格を表しますが、彼らの信仰が彼らの全人格を通して表れていないことです。

パリサイ人と律法学者たちは口先では聖書に従うと言っていましたが、イエス・キリストを受け入れなかったのです。イエス・キリストから遠く離れていたのです。神の国へ入る唯一なる道であるイエス・キリストから遠く離れているというのは神の御国からも遠く離れているということでしょう。

私たちはいかがでしょうか。

自分は今までこの“口先ではわたしを敬うが心はわたしから遠く離れている”み言葉に対して自分は大丈夫だと自信もって言えたことがありません。しかし、それではいけないのです。つまり、私たちの信仰生活が偽りの中にあってはならないのです。イエス・キリストがそれはダメだとおっしゃるからです。

もちろん、私たちは完璧だと言えないでしょう。しかし、完璧になることは誰もできないことだから今のままで良いのだということではありません。力を入れるべきことは、偽りのままにとどまるのではなく、口と心が一致する信仰です。このみ言葉を聞くたびに私たちは自分の信仰姿勢を吟味し、イエス・キリストが求められる生活をするように努力するのです。それが健康かつ健全な信仰姿勢だと自分は信じています。

2.人の教えを神様の教えより権威あるものとして受け入れている

彼らがイエス・キリストを受け入れることができなかったのは、人の教えを神の御言葉より大事にしていたからであります。彼らは人の言い伝え、教えを一番大事にしていました。それ故、彼ら行ったことが

“神の戒めを捨てて”(7節)、“神の戒めをないがしろにした”(8節)とイエス・キリストが言われています。

パリサイ人と律法学者たちは彼らの言い伝えの役割を神の律法を守る塀’だと言っていました。とても響きの良い言葉です。一番大切なものを守る素晴らしく、堅い壁。

しかし、神のみ言葉が他の何かによって守られなければならないようなものでしょうか。もしそうであるならば、神のみ言葉を守るものが御言葉より強いことになります。結局このような言葉からわかるのは、彼らは御言葉より自分たちの伝統に権威をおいていたということです。ですので、彼らは神様の戒めを捨てることとなるのです。人の言い伝え、人の声に従ったということです。

これは結局権威の問題にかかわることです。人の声、神の戒めどちらに権威をおいているか。

彼らが人の教えに権威をおいていたその一つの例として次のことが挙げられています。

“モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は死刑に処せられる』と言っています。それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。”(10-13)

神様の戒めは“父と母を敬え”です。これは十戒の第5番目の戒めなのです。エペソ人への手紙6章ではこのように記されています。“「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。”(2節)

この大事な戒めをパリサイ人と律法学者たちは自分たちの利益のために用いたのです。

本来なら父と母を敬うのために用いるべき物を、神様にささげると言い父と母のために使わなくてもよいようにしていたのです。神様にささげられたので、神様のためにしか使用することができないということです。しかし、彼らはコルバンと言って、実際は自分たちがそれを使う場合も多かったのです。

神様に仕えるということで父と母を養うことを怠っても大丈夫だと教えていたのです。しかし、それは父と母に対して行うべき義務を怠っていることです。しかし、神様はそのようなことに対する報いは死であると教えているのです。

しかし、パリサイ人と律法学者たちはコルバンということだけでそれを免れると教えていたのです。

神様の教えとはまったく違うことを教えていて、神の言葉を空文にしたのです。

それは、神の言葉が持っている権威と力を奪ったということです。しかし、人によって奪われることはあり得ません。

このあり得ないことをありうることかのようにしたのがパリサイ人と律法学者であるのです。彼らの教えは、つまり人の教えは神の教えよりも権威あるものだと人々に教えていたからです。

自分たちの都合の良いように、神の言葉の本来の意味を曲げてしまったのです。この代表的なことを私たちは旧約のサウル王の話からみることができます。

第一サムエル記の15章です。

サウル王はイスラエルの初代王として神様に選ばれた人物です。彼は王として民を治めることが必要でしたが、同時に神様に従わなければならない者でした。

このサウルに神様が命令されました。

“サムエルはサウルに言った。「主は私を遣わして、あなたに油をそそぎ、その民イスラエルの王とされた。今、主の言われることを聞きなさい。万軍の主はこう仰せられる。『わたしは、イスラエルがエジプトから上って来る途中、アマレクがイスラエルにしたことを罰する。今、行って、アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ。容赦してはならない。男も女も、子どもも乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも殺せ。』」”(1節~3節)

この神様の命令に従ってサウルはアマレクを打ちました。アマレク対する神様の命令は聖絶でした。

これに対して行ったサウルの行動がこのように記されています。

“サウルは、ハビラから、エジプトの東にあるシュルのほうのアマレク人を打ち、アマレク人の王アガグを生けどりにし、その民を残らず剣の刃で聖絶した。しかし、サウルと彼の民は、アガグと、それに、肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しみ、これらを聖絶するのを好まず、ただ、つまらない、値打ちのないものだけを聖絶した。”(7節~9節)

彼はアマレクを打ちました。勝利を治めました。一見、神様の命令を忠実に行ったように見えます。

しかし、聖書は“しかし”という言葉を用いて、サウルが完全に従っていないことを明らかにしています。サウルが行ったのは、完全な聖絶ではなく、選択的な聖絶だったのです。

彼は最も良いものを惜しみ、聖絶することを好まなかったのです。

何が起こったでしょうか。それは神様の絶対的な命令が彼の好みと判断によって全うされなくても良い印象が与えられてしまうのです。

サウルがこのようにすることによって神様の命令が、自分の判断、好みによって取捨選択できるものかのようになってしまったのです。

サウルのこのような考えに対して、神様はこのようにおおせました。

“するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」”(22-23)

サウルは神様の命令を自分の都合の良い方に解釈し、曲げたのです。このことによって彼はその王位から退かれるようになるのです。

“サウルはサムエルに言った。「私は罪を犯しました。私は主の命令と、あなたのことばにそむいたからです。私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです。”(24)

サウルが本当に恐れていたのが神様のみ言葉ではなく、民の声であったことを明らかにしているのです。

人の声、人の教えの権威を神様のみ言葉の権威より上に置くことは、神様を退けることであります。

人間的な観点から考えるとサウルの思いそのものが悪いとは言えないかも知れません。もし、神様の命令がなかったのならばとても理にかなう考え方だったでしょう。しかし、人の思いで良しとされてもそれが神様の命令に反するものであるならばそれは偶像礼拝だと神様は語られました。

口先だけの信仰はイエス・キリストを信じることに至らないことと、また人の教えを神の教えより大事にすることであることが教えられました。私たちはいかがでしょうか。

私たちは完ぺきではないけれど口先だけではなく心をも尽くして礼拝を捧げ、信仰生活をしていると信じています。

しかし、時にはサウルのように人の声に聴き従う場合もあるでしょう。その時、神様は必ず私たちにそのことが分かるようにして下さるのです。そしてそれを教えられた時、私たちがすべきことは悔い改めなのです。この悔い改めは私たちの心が神様から遠く離れていないことを証するのです。

本当に心が遠く離れている人々は、悔い改めることがありません。

イエス・キリスト当時のパリサイ人と律法学者がそうでした。彼らに対してイエス・キリストは偽善者だとはっきりと言われましたが、彼らは正すことをせず、自分たちの思いを貫いてイエス・キリストを十字架に付けたのです。しかし、私たちはそのようにしません。悔い改めをするのです。

そうすると神様は必ず私たちを赦して下さいます。もし、今口先だけでの、形式的な信仰生活をしていることが教えられたならばこの場で悔い改めましょう。神様は私たちが決して神様から離れないように守ってくださいます。