ペテロの手紙第Ⅰは、ペテロが殉教する約1年~2年ぐらい前に書かれたと言われています。それはイエス・キリストの昇天から30年ほどが経った頃で、今のトルコ当たりに住んでいたクリスチャンに宛てられた手紙です。

当時はローマ時代でしたが、ネロによるキリスト教に対する大迫害が起こった頃だと言われています。

そのような状況の中で、ペテロの手紙の受信者たちもローマで起こった大迫害が自分たちのところでも起こるのではないかという恐れを感じていたでしょう。

それだけではなく、彼らはクリスチャンとして生活することにおいて多くの問題をも抱えていたのです。ペテロの手紙の中でもそれをうかがうことができます。その主な内容は、彼らがクリスチャンになったことによって周りの人々が行っていた偶像礼拝またそれに伴う生き方から完全に離れたことによる葛藤でした。

周りの人々はクリスチャンとして生きる彼らの生き方を強く非難し、欺いていました。

彼らはクリスチャンとして生きることによって周りの人々との関係が難しくなり、社会的にも疎外されてしまう状況に置かれていたのです。

このような状況で彼らが直面していた様々な苦しみは、今日の私たちとも深き関連性があるのではないでしょうか。クリスチャンとして生きるということは2千年前のトルコでも、今日の日本でも、形は違うかも知れないものの、様々な問題を抱えていることにおいて同様ではないでしょうか。

使徒ペテロは、多くの苦しみの中で信仰を守っている彼らを励ますためにこの手紙を送ったと言われています。彼らと我々の状況が似てることから、ペテロの言葉を通して与えられている神様の励ましは、私たちをも励ましてくださることとなるのです。その御言葉に今日も共に耳を傾けましょう。

 1.私たちは生ける望みが与えられている

“私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。”(3)

 ペテロの賛美にまず目を向けましょう。先も申しましたように、ペテロをはじめ、この手紙を受け取る人々は平穏で豊かな暮らしをしていたのではありませんでした。しかし、ペテロは神様の御名を賛美しているのです。自分たちの置かれている状況に影響を受けることなく、賛美を捧げることができたのでしょうか。

 次の言葉にそのヒントが記されているのです。それはペテロ自身が救われて“生ける望み”が与えられていたということです。この“生ける望み”は新しく生まれ変わった者、つまり救われた者が抱くものなのです。

“望み”が生きているということです。望みそのものの躍動感を強調しているのです。

しかし、この“望み”とは一体何に対するものだったのでしょうか。

それなら、この“望み”は何に対することでしょう。

4節にこのように記されています。

“また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。”

この“望み”は神様によって新しく生まれ変わった者が受け継ぐ資産に関するものなのです。

“資産”というのは“遺産”を意味しています。これは父親が死んでから子どもが受け継ぐものなのです。この“遺産”は子供が用意するものではなく、父親が用意するものなのです。

つまり、神様がご自分の子どもであるクリスチャンのために用意してくださるものがあるということです。

しかも、それを“天にたくわえられている”のです。特別に用意しておられるということです。

“生ける望み”は天にある資産を、クリスチャンが受け継ぐことができるという希望を与え、それを受け継ぐまであきらめることがないように励ましてくれるものなのです。

これには、この資産を受け継ぐまで、神様が守ってくださるという意味も含まれているのです。

それが5節に記されています。

“あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです。”

神様が御力をもって守ってくださるのです。信仰によって私たちはこの守りを受けることができるのです。

 そしたら、クリスチャンがこのように守られなければならない理由は何でしょうか。

それは、クリスチャンとして生きることには試練が伴うからなのです。

“そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、様々な試練の中で、悲しまなければならないのですが、”(6)

この試練ということばは、神様が許してくださる訓練という意味があります。ですので、試練には神様の意図、目的があるということです。私たちが生きることにおいて経験する多くの苦しみ、悲しみは神様のお許しの下で私たちに与えられているという視点をもっていれば、試練に対する私たちの姿勢も変わるのではないでしょうか。実際の苦しみ、痛み、悲しみを感じなくなることではありません。しかし、試練は私たちを単に苦しめるものではなく、神様に従う者としてよりふさわしく変えられていくために欠かすことのできないものであることと受け止めることができるでしょう。

 ペテロはこの試練を次のように理解させてくれます。

“あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。”(7)

 純金を得るためには、金が混ざっている石を溶かして、不純物を取り除く作業が必要です。このように、試練は私たちの信仰をより純粋に神様に向けさせるということです。そして、この信仰の純粋さは神様が喜ばれるものなのです。それによって“称賛と光栄と栄誉”となるからです。

彼らは試練が自分たちの信仰をより純粋なものにしてくれることを、知っていたので、大いに喜んでいるのだとペテロが記しています。彼らと私たちは生きる時代と場所はちがうものの、同じイエス・キリストにつながっている者なのです。ですので、彼らのこのような姿勢は、私たちも持つことができることが分かります。

 次に彼らと私たちが決定的に同じ立場であることが記されています。

“あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。”(8,9)

この手紙の著者であるペテロと違って、彼らはイエス・キリストを直接見たことがありません。

ペテロは、イエス・キリストと3年間共に生活をし、十字架での死、よみがえられた後のイエス・キリストにも会ったのです。そして、イエス・キリストに直接命令を受け、使徒としてその働きを全うしていたのです。

しかし、この手紙の読者はペテロとは違います。イエス・キリストに会ったことがありません。

一瞬このことは、イエス・キリストに対する彼らの信仰がペテロのそれと比べ、弱くなっても仕方がないという考え方を支持するようにも見えます。しかし、ペテロはそうではないことを記しているのです。

ペテロは彼らの信仰を評価しているのです。

見たことはないけれど愛している、今も見てはいないけれど信じている、また言葉に言い尽くすことのできない喜びを持っているというのです。そして、それは彼らが救われた故のことだと言うのです。

 今日の私たちにおいても同じことを言えるのではないでしょうか。私たちもイエス・キリストを見たことはありません。しかし、私たちはイエス・キリストを愛し、信じています。そして、何よりイエス・キリストを喜んでいるのです。

これは私たちが救われているからこそ可能な事なのです。クリスチャンだからこそ体験している素晴らしい祝福なのです。

 それでは、このような愛と信仰、喜びは何に起因するものでしょうか。

もう一度3節の御言葉を聞きましょう。

“私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。”(3)

 ここでは、神様ご自身のあわれみのゆえに行われたことが記されています。

それは、イエス・キリストの復活であります。この復活によって私たちの救いが保証されたということです。

そして、復活があるからこそ、私たちの望みが“生ける望み”となるわけなのです。

 先ほど“生ける望み”によって私たちは神様から受け継ぐ資産に希望を抱くことができると申しあげました。

それならこの資産は具体的に何を意味するでしょうか。

ヨハネの黙示録21章には神の御国について記されています。その大きな特徴は、“わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる”ことと、“神ご自身が彼らとともにおられ”ることです。その結果そこには死がなく、悲しみ、叫び、苦しみが無くなるのです。 

 ですので、この“生ける望み”そのものは、神様ご自身に対するものであり、神様が共におられることへの期待であることが分かります。

このことは私たちの未来が死後にも存在していることを示しており、そこでは永遠に神様と共にいられる生活が私たちのために用意されていることを教えてくれます。

 イエス・キリストの復活は、イエス・キリストご自身が私たちから離れることなく、今も生きて私たちとともにおられることへの確証であります。そして、私たちを様々な試練の中で守ってくださり、再びご自身が来られる時に称賛と光栄と栄誉になるようにしてくださることへの望みを与えてくれるのです。

 使徒ペテロはイエス・キリストの復活を信じ、様々な困難の中でも神様が彼らを守ってくださると励ましました。そして、現在の苦しみに心を奪われないで、生ける望みであるイエス・キリストを愛し、信じて喜んでいる彼らこそが救われた者だということを教えてくれました。

 私たちもこの復活への信仰をもって生ける望みであるイエス・キリストを愛し、信じ、喜び続けましょう。