人生を長い旅に例えることがあります。クリスチャンにとって人生は福音のために歩む長い旅とも言えるのではないでしょうか。福音を信じることによってクリスチャンとなり、福音によって人生の目的と意義を見つけることができるのです。

 イエス・キリストが十二弟子を福音のために派遣されたことから、そこには福音のために生きる者の原点と目的が記されていることがわかります。今日の聖書を通してクリスチャンとしての人生の原点と目的を知ることができることを願います。クリスチャンの人生の旅の原点と目的はイエス・キリストによって召され、遣わされるということにあります。

1.福音のために12弟子を派遣された

 故郷であるナザレの人々に排斥されたイエス・キリストは、そこにはとどまらず、他の村々で教え回られました。そして、弟子たちをご自分の働きのために遣わされました。

この弟子たちの派遣は福音をより多くの人々に早く伝えようとするイエス・キリストご自身の思い、そして、弟子たちが福音のために持つべき姿勢の訓練のためであったと考えられます。

 ①12弟子を呼ばれた

 “また、十二弟子を呼び、二人ずつ遣わし始め、彼らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになった。”(7)

十二弟子は、イエス・キリストの召しを受けました。イエス・キリストの召しより先に彼ら自身の願望や意志でイエス・キリストに近づいたということではありません。

イエス・キリストはヨハネの福音書の中でこのように言われました。

“あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。”(ヨハネ15:16)

イエス・キリストが先に弟子たちをお選びになったのです。

弟子たちの新たな出発点がここにあります。つまり、イエス・キリストによって呼ばれたということです。

イエス・キリストの召しによって彼らはイエス・キリストとの親密な関係を持つようになり、福音を宣べる歩みを始めたのです。

 私たちも同じくイエス・キリストによって召されています。私たちが先にイエス・キリストを信じたのではなく、イエス・キリストの恵みを受けて召されて信じることができました。12弟子たちと同じく、今の私たちの歩みの出発点はイエス・キリストの召しにあるのです。

 ②12弟子を遣わされた

 そして、彼らはイエス・キリストによって遣わされたのです。聖書の原語では「遣わされた」という言葉の名詞形が‘使徒’を表す言葉です。つまりイエス・キリストの代理者として遣わされたということなのです。

ヨハネの福音書のことばにもありましたように彼らを任命されたのがイエス・キリストだからです。

 イエス・キリストのお働きの中心メッセージは“時が満ち、神の国が近くなった。悔い改めて福音を信じなさい”(マルコ1:15)というものでしたので、彼らの主な働きもここにありました。

この働きのために彼らは遣わされましたが、送られる時においてもその主権はイエス・キリストにあるということが大事だと思います。つまり、彼らが信仰においてより成熟してから、完全になってから送られたのではないということです。自らの判断でこの程度なら大丈夫だという自信ができて、彼らが出て行く時を決めたことではありません。

 この時に、まだ彼らはイエス・キリストに対する信仰が未熟な状態でした。彼らがイエス・キリストの十字架の死と復活の意味を全部悟りまた信じてから、出て行ったのではありません。

彼らを遣わされる方が、行きなさいと言われた時、彼らは出て行ったのです。

私たちは伝道することを自らの準備の度合いによって行うものだと思いがちなのではないでしょうか。もちろん、充分な準備の上で、いつでも出て行けるように備えることはとても重要です。しかし、それが出来ていなかったとしても、出て行くように命じられたらそれに従うことです。

 私たちは、イエス・キリストによってこの世の中に遣わされているのです。クリスチャンという名を持ってこの世で生活しているのです。キリストに従う者として、キリストに倣う者として、家庭や職場、学校などに送られているのです。その中でクリスチャンとして生活するのです。

 ③汚れた霊を追い出す権威を与えられた

 イエス・キリストは弟子たちを遣わされた時に何も持たせずに送ったのではありません。彼らが戦わなければならない存在の力を屈服させる権威を与えてくださったのです。ここまでのイエス・キリストのお働きを見ると、すべての汚れた霊がイエス・キリストの権威に従うことが分かります。その権威を弟子たちにもお与えになったのです。

 汚れた霊は、霊そのものだけではなく、その霊の活動により生じるすべての生き方をも含めたものを指しています。何といってもそれらの一番の特徴は聖霊に従わないということです。

“肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できません”(ローマ8:7)と記されているように神に敵対する存在なのです。

 しかし、弟子たちにはこの力を屈服させる権威が与えられたので、彼らは恐れずに出て行くことができたのです。むしろ、この権威こそが弟子たちに一番備えられなければならないものだったのです。そして、それはイエス・キリストによってすでに与えられたということです。

 時に私たちは伝道する力がないと思ったりしませんか。しかし、私たちには聖霊が共におられるのです。汚れた霊の力を打ち破る権威あるイエス・キリストの霊が私たちと共におられるのです。私たちが聖霊に従って歩むなら、汚れた霊の力は私たちに立ち向かうことができません。

 

2.福音に仕える者が持つべき基本姿勢を教える

 ①必要なものは主が備えてくださる

“また、彼らにこう命じられた。「旅のためには、杖一本のほかは、何も持ってはいけません。パンも、袋も、胴巻きに金も持ってはいけません。くつは、はきなさい。しかし二枚の下着を着てはいけません。また、彼らに言われた。「どこででも一軒の家に入ったら、そこの土地から出て行くまでは、その家にとどまっていなさい。」”(8-10

 福音のための働きに出て行く弟子たちに、必要なものを最小限にすることが求められています。これらの具体的な事柄は時代や社会の状況によるのですが、基本原理は同じであります。

“旅”と記されている言葉は、道を意味するのですが、生活や行動様式を意味する時にも使われる言葉だそうです(マタイ21:33、第2ペテロ2:21)。12弟子たちを派遣することにおいてこの言葉を用いたのは、この出発の時に求められること(原理)がこれからの歩み全般に及ぶことを意味することなのです。

 旅に出る弟子たちが用意するものがこれだけであるというのは、今の私たちには想像しにくいものです。一見サバイバルの大会に出るような思いもします。必要なものをどのように手にいれることができるかと疑問にもなります。しかし、次の御言葉でその疑問を取り除くことができます。

 この旅の目的が福音を伝えるためであること、また必要なものをどのように調達できるかというのが10節に記されています。行くところがどこであるにしても彼らを受け入れてくれる家があるということです。そして、その所での働きが終わるまで彼らがその家にとどまることができると約束されています。

 イエス・キリストは弟子たちに必要なものが福音の伝える働きによって供給できることを教えられているのです。イエス・キリストは“働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです”(マタイ10:10)と言われました。

 私たちが福音のために生きる姿勢を保っていればそのために必要なすべては必ず与えられるのです。問われるのは私たちの姿勢であります。私たちの生きる目的が何であるかです。

食べ物のために生きるか。お金のために生きるか。福音のために生きるか。私たちが福音のために生きるならば必要なすべては与えられます。

“だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます”(マタイ6:33)

 ②歓迎されないこともある

“もし、あなたがたを受け入れない場所、また、あなたがたに聞こうとしない人々なら、そこから出て行くときに、そこの人々に対する証言として、足の裏のちりを払い落としなさい。”(11)

 ユダヤ人は異邦の地から戻るときに、足の裏のちりを払い落とす儀式的習慣があったそうです。これをユダヤ人同志に行うということは異例的です。

これは自分が踏んだ地域の人々との関係を断つことを意味します。イエス・キリストによって派遣された弟子たちを受け入れないということは、イエス・キリストを受け入れないことと等しいことなのです。足の裏のちりを払い落とすことは、彼らを受け入れなかった人々の行動そのものがイエス・キリストを受け入れなかったことへの証言となるということです。

 福音を宣べることが歓迎されないということは現在の私たちにも多く経験することでしょう。

しかし、私たちは福音を受け入れない人々を断罪してはいけません。福音を受け入れないのは彼らの責任であります。必要なことは、福音を受け入れないことが何を意味するかをはっきりさせるということです。その方法は工夫すべきですが、福音を受け入れないことがどれほど深刻な結果を招くかということを曖昧にすることは福音の必要性を弱めてしまうからです。

 そして、信じない人々の反応に失望する必要もないのです。人々から受け入れてもらえないということはすでにイエス・キリストご自身が経験されたことです。実際にイエス・キリストの言葉を聞き、力を目撃した人々がイエス・キリストを排斥したならば、弟子をはじめ私たちのことはなおさらのことでしょう。受け入れないことにがっかりせず、続けてそれ以外の人々に福音を宣べることがっ求められているのです。

 

3.従うことによって福音が広がる

“こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め、悪霊を多く追い出し、大勢の病人に油を塗っていやした。”(12、13)

これはイエス・キリストが弟子たちに与えられた権威が実現されることを示しています。同時にイエス・キリストの派遣に従う者へ与えられた約束でもあります。それは悔い改めを宣布することによる霊的回復と病気をいやすことです。いやすという言葉には、仕えるという意味もあるそうです。病気をいやすことだけではなく病人や肉体的に弱い人々を助けることが含まれるのです。

福音を伝えることで人が霊的、肉体的に回復される様子が記されています。福音を受け入れる人には回復が約束されているのです。回復された人々は平安と喜びの中にいるのです。そして、福音を伝えた者は回復していく人々が味わう喜びと感謝を共にじながら、イエス・キリストの御名を喜び賛美するでしょう。

 弟子たちはイエス・キリストによって召され、遣わされ、与えられた権威を用いたのです。弟子たちは、この段階においてはまだ未熟で、後にイエス・キリストを否定するような弱い者たちでした。しかし、イエス・キリストの命令に従って出て行ったのです。

 弟子たちの歩みはまだ完全ではないものの、イエス・キリストに従うものでした。その原点はイエス・キリストの召しだったのです。そしてイエス・キリストによって遣わされました。その目的は福音を宣べさせるためでした。そして彼らはそれに従ったのです。

 弟子たちの原点と目的は私たちにおいても同じです。

私たちの状況はいろいろな意味で足りないものが多いです。

人間的な弱さがあります。人数も財政も足りない状況であります。

時には、このような現状を見て、福音のために生きる者への約束がどのように成就されるだろうか疑問になることもあります。

しかしこのような状況の中でもう一度私たちの歩みの原点と目的を覚えましょう。

そして、私たちと共におられる方が誰であるか、その方がご自分の働きに遣わされる者のために必要なものをどれほど豊かに備えてくださるかを確信しましょう。

そして、私たちも福音のためにこの世の中に遣わされていることを覚え、忠実にクリスチャンとして歩み続けましょう。そして、期待しましょう。私たちが御言葉に従い福音のために生きるならば、人々の回復を見ることができることを。そして、それを見て神様の愛と恵みを褒め称える私たちになれることをも。

私たちはイエス・キリストによって召され(呼ばれ)、遣わされたからです。