「恐れないで」

 私たちの歩みには様々な問題が生じます。そしてそのような問題は私たちを苦しめます。

しかし、私たちクリスチャンは問題に対して信仰をもって解決しようとします。

イエス・キリストに祈り、知恵と力を求め、助けをいただこうとするのです。

そのようにした時、私たちの多くの問題は解決され、また感謝と平安が与えられ喜ぶことができます。

しかし、時には問題がすぐ解決されず、むしろより深刻になることもあります。信仰をもって解決に挑みますが、なかなか解決されない時があるのです。

そのような時に、私たちはどうしたらよいでしょうか。

今日の聖書にはそれに対するイエス・キリストからのみ言葉が記されています。

それは、会堂管理者ヤイロという人に言われたお言葉ですが、現代の私たちにも求められているイエス・キリストからの御言葉なのです。

それは、“恐れないで、ただ信じていなさい”という言葉なのです。

より状況が深刻で絶望的な時でも恐れないで、ただイエス・キリストを信じているようにと言われているのです。そうすれば、必ず私たちはイエス・キリストから与えられる恵みの豊かさを体験できるのです。イエス・キリストは決して私たちを失望させることがないということを信仰を通して体験できるのです。このことを期待し、共に御言葉に耳を傾けましょう。

会堂管理者ヤイロは自分の娘の病気をイエス・キリストが直すことができると信じていたのです。

ユダヤ人として尊敬されていた彼が、イエス・キリストの足もとにひれ伏してお願いをしたのです(5:22-23)

イエス・キリストにひれ伏すということはイエス・キリストに対する当時のユダヤ人たちの態度から考えると非常に珍しいことでした。このような態度は彼がイエス・キリストに対してどのような姿勢を持っていたかをよく表してくれます。

彼が直面している問題の深刻さの故にそれを対する解決方法がイエス・キリストしかいないと彼は信じていたでしょう。

イエス・キリストは彼の願いを聞き入れ、彼の家に向かわれました。

しかし、その途中で長血をわずらっていた女性に会い、イエス・キリストはそこにとどまって彼女を直されたのです。

イエス・キリストが彼女に“あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい”と話しておられたちょうどその時でした。会堂管理者ヤイロの家から人がやって来て、こう言いました。

“あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。”(35)

長血をわずらっていた女性が癒されたことは大きい喜びと希望を与えることだったでしょう。

病気から解放された彼女当本人だけではなく、周りの人々にも、そしてヤイロにも希望を与えたことでしょう。

特にヤイロにおいては自分の娘も癒されるかもしれないという期待を高めてくれたのに違いないでしょう。

この出来事は、‘この世の誰もが直すことができなかった病気を癒されたお方はきっと私の娘をも癒すことができる’という希望を与えたでしょう。きっと‘じゃ、もっと足を急ごう’と思った矢先だったでしょう。

悲報が伝えられたのです。“あなたのお嬢さんがなくなりました。”

これは高まっていた期待を一気に壊してしまう出来事でした。

会堂管理者ヤイロの胸の中はどうだったでしょうか。

恐らく、‘終わってしまった’、‘もう何もできないのだ’、‘あ~もう少し自分が早くイエス・キリストの所へ来ていたならば’等々の多くのことが頭をよぎったのではないでしょうか。

体が崩れ落ちるようにその場に座り込んだかも知れません。

状況が先より深刻になりました。絶望的になってしまったのです。恐れに覆われてしまったでしょう。

娘を亡くした父親が持つ恐れとはどのようなものでしょうか。実際経験したことがないので想像に頼るしかないですが、私は想像するだけでもかなりの恐れを感じます。私はこのような想像をしました。

まず、これ以上娘の生の声を聞くことができない。笑い声、騒ぐ声、おしゃべりの声。その一つ一つを思い出しながら二度と聞くことができないという悲しみに覆われるでしょう。

そして、娘に怒ってしまった様々なことを後悔しながら自分を責めるでしょう。もっと優しくしてあげればよかったのに。

病気になったことに対し親としてあのようにすればよかったのでは、このようにしたらよかったのに、と思いながらいろいろと考えるでしょう。そして、毎年娘が亡くなった時期を迎えるたびにこの悲しみと痛みを繰り返しながら生活するでしょう。

ヤイロが自分の娘が亡くなった知らせを受けた瞬間、一瞬の間このような多くの思いが頭をよぎったのではないでしょうか。そして、娘の死を含めそれらのすべてのことは、彼にこれからの人生に対する不安や恐れを与えるのに十分なものだったと思います。

イエス・キリストはこのように彼が感じる恐れを知っておられたでしょう。そして、その恐れを取り除いてくださろうとされたのです。彼に今必要なのは恐れることではなく、ただ信じていることだとおっしゃったのです。

 

ただ信じていなさい」

 イエス・キリストはヤイロに「恐れないで、ただ信じていなさい」と言われました。

ヤイロに求められていたことはそのたった一つのことだけでした。

ただということばから教えられることは、方向性です。

今、この状況の中で人が見るべき方向がただ一つしかないということです。それは、人から言われている目の前の現実ではなく、あなたのそばにいる人が誰であるか、どういうお方であるかを見なければならないということです。

 

ヤイロが直面していた絶望に対して人々はこのように考えました。

まずは、イエス・キリストがこれ以上関わる必要がないということです。死んだ者に対してイエス・キリストもこれ以上何かをすることはできないという思いです。すべたが終わったので、これ以上イエス・キリストに頼る必要はなくなったということです。イエス・キリストが単なる人間であるならば、このような考え方は正しいかも知れません。

しかし、イエス・キリストが自然と悪霊を支配し、医者が治療することができない病をいやせる神の子であることを知っているならば話は違います。

しかし、ヤイロの周りの人々は、彼の視線をイエス・キリストではなく絶望的な状況にとどまらせようとするのです。

次にヤイロに対して人々ができることは、“取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしている”ことです。

これは亡くなった者への悲しみを表し、残された者の痛みに共感するとても大事なことです。しかし同時に、このような人々の行動はヤイロに娘が亡くなったという事実をより実感させることになります。

絶望的な状況を確かめさせることなのです。

残念ながらこのような人々の対応は娘を亡くした父親の悲しみ、痛みを解決してくれることはできません。もちろん、娘が生き返るという期待を持つこともできません。人ができることの限界を感じさせます。

最後に人ができる行動は、信仰の姿勢に対してあざ笑うことです。

イエス・キリストが家に到着し、人々が泣いたりわめいたりしているのをご覧になってこう言われました。

“なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです”(39)

しかし、人々はイエス・キリストのことばに対して“あざ笑った”のです。

人々はイエス・キリストがどういうお方であるかを知らないがゆえに、イエス・キリストをあざ笑ったのです。

イエス・キリストをあざ笑った人々は、イエス・キリストを連れてきたヤイロをもあざ笑ったかもしれません。

信仰を持っていない人々にとって、信仰というのはおろかなもののように見えるかもしれません。

このような状況の中ヤイロの絶望的な現実を助けることができる人は誰もいません。むしろ、より悲しくするだけです。

ですので、目を向けるところはただ一つだけなのです。

それは、ただイエス・キリストに信頼を置くことです。

「信じていなさい」

 イエス・キリストはヤイロに目を向けるべき方向がとこであるかを教えられました。

そして、それをし続けるようにとおっしゃるのです。

“恐れないで、ただ信じていなさい”。今も信じていなさいということです。

それは、ヤイロが最初に持っていた信仰を保ち続けなさいということです。

ヤイロは娘を直すのはイエス・キリストしかいないという思いでイエス・キリストの方に来たのです。

それが彼に与えられた信仰だったのです。

しかし、娘が死んでしまったのです。それまでの彼の信仰が無駄だったかのように思われたのです。

これ以上、イエス・キリストに対する期待、希望を持つことはできない状況であるかのように見えたのです。

しかし、イエス・キリストは彼に、最初にご自分に対して持っていた信頼を捨てずに、持ち続けなさいと言われたのです。

そして、イエス・キリストはヤイロがその信仰を持ち続けることができるように行動をもって助けてくださるのです。

まず、ヤイロの家に向かう足を止めなかったのです。多くの群衆は後ろにしておいて、3人の弟子だけを連れて向かい続けました。ヤイロがもうこれ以上イエス・キリストがなさることはないと言っている人たちのことばに揺れることがないようにその足を止めなかったのです。

次に、家に到着するとすでに多くの人々が少女の死を悲しんでいました。

それに対して、イエス・キリストは彼らに言われました。

“なぜ、取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。”

人々の行っていることに心を奪われることなく、これからイエス・キリストがなさることへの期待を持つことができるように助けてくださっておられるのです。ヤイロをはじめその場にいるすべての人が分かるようにはっきりと宣言されたのです。イエス・キリストの宣言こそが権威あるものであることを私たちは信仰によって知っているのですが、ヤイロにもそのような信仰を持つことができるように、自らの言葉をもって宣言してくださったのです。人々にはこの言葉があざ笑うようなものだったかもしれませんが、ヤイロには大きい希望を与えるものだったのではないでしょうか。

‘ヤイロよ、あなたの娘は死んだのではなく、眠っているのだ。これから私があなたの娘を起こしてやろう’と聞こえたかもしれません。

イエス・キリストはヤイロに信じることを諦めずに、保ち続けるように命じられたのです。

そして、素晴らしい結果が彼に与えられたのです。

イエス・キリストはヤイロの娘が眠っているとおっしゃった後に、彼女が置かれていたところへ入られました。

そして、このようにされました。

“その子どもの手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい」といういみである。)”(41)

手を取ってくださいました。言葉を掛けられました。そうすると

“少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた”(42)のです。

誰もが死んだと思い諦めていた少女にイエス・キリストは近づいてくださり、生き返らせてくださいました。少女はすぐ起き上がり歩き始めたのです。

イエス・キリストは恐れないでただ信じている者にどのような素晴らしいことが与えられるかをヤイロを通して教えられました。問題、またその解決のかたちはそれぞれ違うかもしれませんが、信仰を保ち続ける人は決して失望しないことをこのヤイロのことを通して私たちにも語っておられるのです。

私たちが信仰をもって歩む時、状況がより深刻化することもあるかと思います。そのような時にも私たちに必要なのは、イエス・キリストの“恐れないで、ただ信じていなさい”というお言葉です。このみ言葉に信頼を置いて、今日も信じ続ける私たちでありますようにお祈り求めます。