「イエス・キリストの働きは止むことがないのを知ることによって」

私たちは安心して生きられる人生を切に願っています。

私たちの生活には様々な問題、苦しみがありますが、それらにも関わらず安心して生きられる人生はきっと素晴らしいものでしょう。今日、礼拝を捧げるために集っている私たちにこの素晴らしい人生が約束されていることを皆さんに知っていただきたいと願っています。そのために私たちに必要なものが何であるかを共に耳を傾けましょう。

 本日の聖書箇所はマルコの福音書5:21-34ですが、まず21-24までの内容から教えられたいと思います。

この部分の内容は、イエス・キリストがゲラサ人の地で悪霊につかれた人を救われた後、再びカペナウムの方に戻られたところから始まっています。

イエス・キリストが戻られると、会堂管理者であるヤイロという人物がイエス・キリストの方に来ました。そして、一所懸命お願いをするのです。それは自分の娘が死にかかっているから癒してほしいとのことでした。

そうするとイエス・キリストはヤイロの後を追って、彼の家に向かいました。

 ここまでのイエス・キリストの姿を見ると、絶えず働いておられることが分かります。

朝から晩まで多くの人々を教え、また病人を癒されました。そして、嵐の中を通って異邦人の地に行かれ、悪霊につかれた人を助けられました。その足で、再び舟に乗り、戻って来られると今度は会堂管理者ヤイロが待っていたのです。疲れておられたイエス・キリストは舟で移動中に休まれました。食事をする暇もなく人々のために働かれました。

 何故、イエス・キリストは止まることなく人々を助ける働きを続けられたでしょうか。

 “わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。”(ヨハネ5:17)

これは安息日に人を助けたことでユダヤ人に非難された時、イエス・キリストが答えられた言葉です。

神様の御心は安息日だから人を助けるのを止めることではなく、むしろ安息日の意味を弁え、人を助けることをやめないように教えておられます。そして、イエス・キリストがこの世に来られた目的の一つは苦しみの中にいる人々を助けるためであることを教えておられるのです。そしてこのために働き続けるイエス・キリストの姿がここに記されているます。私たちが安心できる理由は、苦しんでいる者を助けようといつも働いておられるイエス・キリストの故です。誰においても困っている中、イエス・キリストに助けを求めれば、必ずイエス・キリストは助けてくださるのです。

 私たちは、イエス・キリストが助けを求める人を拒んだという話を聖書の中で見つけることができません。この事実は私たちに大きな安心感を与えてくれます。必ず、いつでも助けてくださるお方がおられるのです。そして、今の私たちはそのことを知っています。聖書が示すイエス・キリストのお働きの姿、助けを呼び求める者のための働きを止まないお方であることを知っているゆえに、この方にすがっている私たちは安心して生きることができるのです。

 

「信仰をもって近づく人に祝福を与えられる方であることを知ることによって」

 ヤイロの娘を助けるために移動する中での、一つの出来事が記されています。それが25-34での内容です。

12年間長血をわずらっている女性がイエス・キリストによって癒されることが記されています。

しかし、この女性はヤイロのようにイエス・キリストの前に現れて助けを求めたのではありません。それには理由がありました。それは彼女の生まれながらの身分とわずらっている病気のためでした。

 残念ながら彼女が生きていた社会は、男女差別が存在していました。女性ということだけで多くの制約を受け、尊重されることはほとんどなく、社会構成員の中で身分がとても低い存在でした。

彼女はその上に、長血をわずらっていました。この病気は血が止まらないもので、この病気にかかった者は汚れているとみなされていたのです。

よって当本人はもちろんのこと、病人が触ったもの、座った寝台、そして、病人がさわったものに触れる人も汚れた者とされたのです(レビ記15章)。皆から汚れている者と見なされ、近づくことを避けられていたのです。

彼女はこの病気を12年間もわずらっていたのです、差別と蔑視、無視され続ける人生でした。

彼女の人生の中に安心という2文字は見つけられない状況でした。

自分は彼女がそのような状況の中で良く頑張って生きていたと思います。病気の苦しみのゆえ安心できな毎日を送っていたのだろうと思うと彼女の強さは半端なものではなかったと思います。もし、私たちが彼女のような境遇に遭っていたならばどうだったでしょうか。

 この厳しい状況の中、彼女は自分の病気を癒すために一所懸命でした。       

“この女は多くの医者からひどい目に会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった”(26)

彼女は多くの医者に自分の病気を診てもらいました。治療をするためにいっしょけんめいでした。

ついに彼女の持ち物を全部使い果ててしまうまで彼女はあきらめなかったのです。しかし、彼女の病気は治らず、悪く

なる一方でした。

 ここまで頑張ったのに、彼女の病気は直らず、元の生活にも戻れないというのこ状況はとてもひどいものだと思いませんか。少しは良くなって、頑張ったかいがあったならばよかったのにと思いませんか。

このように考えると彼女が持っていた苦しみは、人の力では解決できない人間の根本的なものだと考えられます。

彼女が受けていた差別、病による苦しみ等々。

このような問題は時代、国、文化、文明に関係なくすべての人類が共通のものとして抱えている問題なのです。このような問題がすべての人を不安にさせるのであります。

この世でどんなに優れた医者(政治、科学、法律、宗教、哲学など)もこの問題を解決することができないのです。

彼女が診てもらったすべての医者が悪かったとは言えない、この世のすべてが悪いということではありません。うでの良い医者も多くいたでしょう。しかし、彼らが彼女の苦しみを解決できなかったように、この世のすぐれたものが人間の根本的苦しみを解決できないということをこの個所を通して聖書は教えているのです。

 

 それでは、何がこの苦しみを解決できるのでしょうか。

もう一度彼女のことに注目しましょう。

彼女はこれ以上医者を頼ることができない絶望的状況の中にいたのです。

その時、彼女はイエス・キリストのことを耳にしました。

イエス・キリストが罪人や遊女、取税人たちといっしょに食事をされたことを聞いたでしょう。おそらく人を差別しないイエス・キリストの姿に彼女の心は動かされたのではないでしょうか。

イエス・キリストが様々な病気にかかっている多くの人を癒し、また多くの悪霊を追い出されたことをも聞いたはずです。誰も治すことができなかった自分の病気もいやされると彼女は希望を持ち始めたでしょう。

それで、彼女は“「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていた”(28)のです。

従って彼女は、群れに囲まれてヤイロと共に歩いておられたイエス・キリストのうしろから近づき、着物にさわるのです。

“群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった”(27)

“すると、すぎに、血の源がかれ、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、”(29-30)

驚きです。こっそりとイエス・キリストの着物にさわっただけです。誰も治すことができなかった彼女の痛みがなくなったのです。彼女は苦しみから解放されたのです。

 どうしてこのようなことが可能だったでしょうか。それに関してイエス・キリストがこのように言われました。

“あなたの信仰があなたを直したのです”(34)

イエス・キリストが自分の苦しみを解決できるお方だと信じる信仰が彼女を直したというのです。

 多くの人がこの時イエス・キリストに触ったのですが、苦しみを解決してもらったのはこの女性だけでした。イエス・キリストに対する単なる興味で近づく者と信仰をもって近づく者の違いが表れているのです。

彼女がどのようにしてこのような信仰を持つことができたか、その正確な理由は記されていません。確かなことは、彼女がイエス・キリストのことを聞いて信仰が与えられたということです。そして、その信仰に従って彼女は行動に移ったということです。

 私たちに信仰を与えてくれるのは、イエス・キリストのことを聞くことであります。彼女がイエス・キリストのことをうわさで聞いたように今の私たちは聖書を通して聴くことができ、信仰が与えられているのです。

そして、その信仰によってイエス・キリストに近づき、さわることができるのです。

 

「聖書の言葉に信頼を置くことによって」

こっそりと起こったこのことに関して、イエス・キリストはわざわざそれを明らかにされるのです。

“だれがわたしの着物にさわったのですか”と足を止めて、周りを見ながら言われたのです。

弟子たちはこんなに多くの人が押し迫っているからイエス様に触ったのは一人二人ではないことを言いますが、イエス・キリストは、ご自分の着物にさわったのはだれかと尋ねておられるのです。

そこで、彼女は自分のしたことを明らかにします。

 これはイエス・キリストが彼女の不安を払拭させようとされた心づかいなのです。彼女の信仰を明白にすることです。“あなたの信仰があなたを直した。”

彼女が時間とともに自分のいやしが何に起因したかを忘れることがないようにしてくださったのではないでしょうか。

彼女が直ったのは、偶然ではなく、今まで受けてきた医者の治療によるものでもなく、ただイエス・キリストを信じる信仰のゆえだと教えてくださるのです。

そして、このことは彼女だけではなく、周りにいた多くに人々にも、ご自分を信じる信仰による恵みの素晴らしさを明らかにされたことなのです。

また、今日聖書の言葉を神様のみ言葉として信じている私たちにも、イエス・キリストの信じる信仰だけが苦しみから私たちを解放することができると教えてくださるためなのです。

 

 イエス・キリストは今も人の救いのためのお働きを止まないお方です。また信仰をもってご自分を求める者は必ず助けてくださるお方なのです。この世の誰にもできない人間の根本的な苦しみの解決をしてくださるお方なのです。そして、今も聖書の言葉を通してその事実を明らかにしてくださるお方なのです。

私たちが安心して生きるために必要なことは、イエス・キリストを証する聖書の言葉に耳を傾け、与えられた信仰に従って生きることだけなのです。

そのような信仰を持ってイエス・キリストに助けを求める者に、イエス・キリストは今日もこのように語って、約束してくださいます。

“安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい”(34)

 私たちの苦しみをご存じで、私たちの小さい信仰の行動にも大きい祝福を与えてくださるイエス・キリストをほめたたえましょう。これからもイエス・キリストだけにすがり、安心して生きる人生を送ることができますように祈り求めます。