「サタンの支配下にいる人の悲惨な状況」

 マルコの福音書5書にはイエス・キリストのなされた三つの癒しが記されています。一つ目は汚れた霊につかれた人を癒す、次に長血をわずらっていた女性を癒す、そして最後に会堂管理者の娘を蘇らせることです。

前回、私たちは嵐を静まらせ恐怖に陥っていた弟子たちを助けられたイエス・キリストの姿をみました。

イエス・キリストはこのことを通してご自分が自然を治める神であることを弟子たちに示されました。

イエス・キリストは何故嵐の危険にも関わらず湖を渡ろうとされていたかその理由が今日の聖書に記されているのです。

それは、汚れた霊につかれた人を救うためだったのです。

この個所はサタンの支配下にいる人間の姿がどれほど悲惨なものなのかを端的に記しています。そして、彼を救い出すことはイエス・キリストにしかできないということを教えています。また、イエス・キリストによってサタンの支配から救われた人がどのように生きるべきかが記されています。

この御言葉を通して私たちがどれほど大きい愛と憐れみを受けている者かを確認し、それを表す者となれるように望みつつ、共に御言葉に耳を傾けましょう。

 イエス・キリストの弟子たちが着いた場所はゲラサ人の地でした。そこには悪霊につかれた人が住んでいました。

その人がどのような状態であったかが次のように記されています。

“この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押えるだけの力がなかったのである。それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。”(3-5)

 この人の住まいは墓場でした。墓は死んだ人を葬る場所であって生きている人の住まいではありません。

そしてこの人は狂暴で、鎖や足かせでつながれていました。人間がまるで家畜のようにつながれていなければならないというのです。人間の尊さが完全に踏みつぶされている状態です。

このような苦しみの故でしょうか、彼は夜昼となく叫び続けいたのです。苦しみのうめき声を上げていたのです。その上、自ら自分のからだを傷つけていたのです。悲惨な状況です。彼は悪霊に支配されていたのです。

 彼には家も家族もいました(19節)。しかし、今はその家族も彼の傍にいません。彼の周りにはだれもいないのです。ただ彼を苦しめる悪霊だけなのです。

 墓場に住むという言葉はイザヤ書によると(イザヤ65:1-7)異邦人のことを意味していることが分かります。唯一なる創造主である神を認めず、受け入れない人々を指しているのです。そのような人々の悲惨な姿を端的に見せているのがこの汚れた霊につかれた人なのです。もちろん、神を受け入れないすべての人が実際に墓場に住み、自分のからだを傷つけながら生きているということではありません。これはサタンの支配下にいるすべての人間の霊的状況を示しています。神から離れている人間の実態を示しているのです。

 

「イエス・キリストのなされたこと」

 この汚れた霊につかれた人のためにイエス・キリストは湖を渡って来られました。嵐の危険も弟子たちの不平も、後に人々からの排斥を受けることをも知りながら彼一人のために湖を渡って来られました。この人のために嵐の中を通って来られるイエス・キリストの姿を想像すると私は感謝の気持ちで胸がいっぱいになります。

かつては私も、この汚れた霊につかれた人のような者であったことを思うとこのイエス・キリストの姿に大きい感動を受けます。嵐の危険があるからとして、ご自分が疲れたからとして救うべき人の元へ行かれるのを諦めない。汚れた霊につかれた人を癒しても人々から称賛を受けることはなく、むしろ嫌われてしまうことも気にせず近づいてくださったのです。このようなイエス・キリストの行いによって私は今救われているのです。

 イエス・キリストだけがこの人の問題を解決することができました。

汚れた霊につかれた人が抱えている苦しみの原因は、悪霊によるものでした。

彼の苦しみを家族も周辺の人々も解決することができませんでした。人は彼の役に立つことは何一つできませんでした。周りの人ができた唯一のことは彼を鎖や足かせでつないでおくことでした。しかし、これは彼のためではなく周りの人々のためであって、むしろ彼にとっては苦しみが増すことでありました。

また彼は、人にでは抑えることのできない力を持っていました。鎖を引きちぎり、足かせを砕くほどの大きい力を持っていたのです。この力は悪霊によるものであったがゆえに人々は彼を助けることができませんでした。彼のために周りの人ができることは何もなかったのです。

 しかし、イエス・キリストは違いました。

イエス・キリストはまず、悪霊の正体を明らかにされました。

“「おまえの名は何か。」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから。」と言った。”(9)

またそれにとどまらず彼の中に宿っている悪霊に対して“「汚れた霊よ。この人から出て行け。」”(8)と命じられました。

すると悪霊はそれ以上この人の中にいることができなくなったのです。悪霊の数は多く、人間より大きい力を持っているのですが、イエス・キリストの命令に従わなければならない存在なのです。悪霊たちはこの人から出て、豚の中に乗り移りました。そしてこの豚の群れはがけから水に落ちておぼれてしまいました。

 悪霊は人間を家畜のような扱いをしましたが、イエス・キリストは人が家畜とは比べられない尊い存在であることをこのことを通して教えられました。

私たちは人間の尊さを金銭的な価値に代えて考えがちなのですが、イエス・キリストはそれと全く違うことを教えてくださいます。人の価値は金銭的なものによって量れるよなものではないこと。

 イエス・キリストはこの人の中から悪霊を追い出すことと同時に、人としての尊厳性を回復させてくださいました。

“悪霊につかれていた人が、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっている”(15)ようにしてくださったのです。

墓場でけもののように生きていた一人の人間が、2千匹に及ぶ豚の金銭的の価値よりはるかに尊い存在であることを明白に示されているのです。悪霊に支配されていたこの人の本当の価値は、イエス・キリストによって明らかにされたのです。

 私たちも同じであります。私たちが人としてどんなに尊い存在であるかということはイエス・キリストによってはっきりと示されたのではないでしょうか。自分自身のことをふり返ってみると、以前の自分も自分の本当の価値を知ることができませんでした。持っているものや能力に本当の価値があるのだと思っていたのです。しかし、イエス・キリストに出会ってからその視点は変わりました。何より、自分のためにイエス・キリストが十字架で死んでくださったことは、イエス・キリストが私をどれほど価値ある者として見なしてくださるかをはっきりと教えてくれました。イエス・キリストによらず、自分の価値を見出すことは考えられないのです。

 

「イエス・キリストが求められること」

 しかし、ひとりの人間の救いを何より大事にされたが故に、イエス・キリストはこの地方の人々から排斥され、そこを離れなければならなくなります。

イエス・キリストが舟に乗ろうとされた時、悪霊の支配から救われた人が自分も連れて行かれるようにとお願いをしました。恐らくこの人がここから離れようとする理由は二つ考えられると思います。

一つは、悪霊の苦しみから救われた喜びと感謝の故にイエス・キリストと共にいたいという思いです。もう一つは、正気に戻った時点で、過去のことをふり返るととても恥ずかしいという思いがあったのではないかと考えられます。

しかし、イエス・キリストは彼の願いを受け入れてくださらなかったのです。そしてこのように言われました。

“「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」”(19)

彼の願いとは違うことが求められているのです。

 イエス・キリストによって救われたすべての人には、救いの恵みを人々に伝えることが求められています。

しかし、伝える方法や形はいろいろとあるのです。

イエス・キリストと共に宿食をしながら伝える者がいれば、自分の置かれている場所で伝える者もいるのです。皆が十二弟子のようにイエス・キリストと共に生活しながら福音を伝えるにはいかないのです。しかし、共通して求められていることは“主がどんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったか”を知らせることなのです。

 悪霊から救われたこの人にイエス・キリストが求められたことは故郷に残り、そこでイエス・キリストの恵みを伝えることでした。これは彼の願うことではありませんでした。ですので、簡単に従えるようなものではなかったでしょう。

もし、自分だったら相当の葛藤があったと思います。

しかし、この人はイエス・キリストのお言葉に従いました。

“そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。”(21)

彼が従った結果、この地方の人々はイエス・キリストの福音を聞くことができました。

 この地域の人々は、イエス・キリストによって悪霊につかれた人が癒され、豚の大群が水に溺れるのを見て、イエス・キリストを追い出しました。イエス・キリストはそのようにこの地方から離れて行かれました。

一見、イエス・キリストがこの地域の人々をあきらめたようにも見えます。

しかし、イエス・キリストはご自分によって救われた人をその地方に留まらせました。そして、彼にイエス・キリストから受けた恵みを人々に伝えるようにと命じられました。

 イエス・キリストが悪霊につかれた人を救われた理由がここにあるのではないでしょうか。その人の救いそのものだけではなく、その人を通して他の人々をも救おうとされる御心が教えられているのです。

 私たちにも同じことが求められています。それは、今自分のいるところでイエス・キリストが“どんなに大きなことをしてくださったっか、どんなにあわれんでくださったか”を言い広めることです。

そのためには、もう一度私たちの過去と今の違いが何であるかを確認する必要があるのではないでしょうか。時に私たちは自分の救いを当たり前のように考え、その恵みの大きさを忘れてしまうことがあります。現実の事柄に心を奪われてしまい救われている者としての相応しい生き方を見失う時もあります。しかし、もう一度私たちの救いがどのようなものであるかを覚えましょう。私たちのためにイエス・キリストがどんなに大きいことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったか、そして今もそうされ続けていることに感謝しましょう。そして、その喜びを自分の生活を通して表す者になりましょう。

 イエス・キリストは汚れた霊につかれた人の悲惨な状況に心を留め、彼のために大きい御業をなしてくださいました。そして、彼が自分の居場所でその恵みを人々知らせるように命じられたのです。彼はイエス・キリストの言われた通りにしました。私たちもこの人のように生きることができるように祈り求めましょう。