「信仰の現住所」

私たちはそれぞれの経験や知識に基づいてイエス・キリストがどういうお方であるかという問いに自分なりの答えを持っているのではないでしょうか。

イエス・キリストがどういうお方かという問いは私たちの歩みを左右する重要なことですが、苦しみに遭遇した時は特にそうであるのではないかと思います。もし、私たちが持っているイエス・キリストに対する認識が間違っているとするならば私たちは自分たちが遭遇する様々な苦しみに対して聖書的な観点を持つことができなくなってしまいます。

 イエス・キリストに従って歩む中、苦しみや予想もできなかった困難に遭遇した場合、私たちが示す態度は私たちの信仰の現住所を現していると思います。

私たちはイエス・キリストに従う信仰の歩みが必ずしも順風満帆ではないことをよく知っています。もし誰かが苦しみの中にいるとしたら恐らく私たちは‘信仰によって歩む道には苦しみが伴います’と声を掛け励ますでしょう。しかし、いざ自分が苦しみに出会った時には、どうでしょうか。他人に声を掛けるように自分にも同じ言葉をかけることができるのでしょうか。もしかして、イエス・キリストに対して抗議をしながら、感謝と平安の心を失っているのではないでしょうか。

 今日の聖書の弟子たちの姿が私たちに語ることがあります。

彼らは、イエス・キリストのお言葉に従って舟を出しましたが、思わぬ嵐に遭遇し、死の危機に直面していました。そのまっただ中、彼らはイエス・キリストにこのように叫びます。

“先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思わないのですか”(4:38)

この言葉には、イエス・キリストに対する彼らの思いが現れています。

まず、先生という言葉です。弟子たちはまだイエス・キリストを人のように考えているということが分かります。彼らにとってイエス・キリストはまだ良き教訓を教えてくれる先生だったです。単なる偉い人として受け止めているのです。人間の力を超える自然の脅威の前に何もできない自分たちと同じ人間であるかのように考えているのです。

 次には、自分たちの危機に関心を持っていないイエス・キリストだということです。

“何とも思わないのですか”という言葉は‘このような状況があなたには何の気がかりでもないのですか’という意味があります。おぼれて死にそうな状況をイエス・キリストは傍観しているお方であるかのように考えているのです。

 このような弟子たちの姿は、私たちにも非常に近いものではありませんか。

もし、この時弟子たちがイエス・キリストがどのようなお方であるかを正しく知っていたならば、危機の中での彼らの行動も正しいものとなったはずです。そして、恐怖で震えるのではなく、イエス・キリストを見つめてその助けを待ち望めたはずです。

 私たちは現在、イエス・キリストをどのようなお方として認識していますか。

もしかしたら苦しみや悩みを何とも思わないお方だと感じているでしょうか。もしそうであるならば私たちは苦しみや悩みに震えながら生活しているに違いないでしょう。イエス・キリストは私たちの困難を何とも思わない冷たいお方だと思っているとするならそのような考えは望ましくもし正しくもありません。

 では、イエス・キリストはどのような困難も解決できるお方であり、意図をもってこのような苦しみを許してくださり、しかも、その状況の中に共におられるお方だと考えているでしょうか。もし私たちがこのようにイエス・キリストのことを認識しているならば、苦しみの中でも感謝をささげながら生活をしていることでしょう。悩みの中でも忍耐と期待をもって前に進むことができるでしょう。舟がひっくり返されるような状況でも、決して沈むことがないのを確信することができるでしょう。 私たちの信仰の現住所を考えなら、今日の聖書が示すイエス・キリストの姿に焦点を合わせて歩めるよう祈り求めます。 

「神の御こころを行うために私たちを導くお方」

“さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われた。そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の船もイエスについて行った。”(4:35-36)

 “その日”というのは、イエス・キリストがたとえを通して人々を教えられた日を意味しています。夕方になるまでイエス・キリストは人々を教えられました。そして、夕方になって向こう岸へ渡ろうと弟子たちに言われました。

イエス・キリストは長い時間働かれたのでかなり疲れておられたことでしょう。それは嵐の中でも“とものほうで、枕をして眠っておられ”たことからも十分うかがえます。このように疲れておられるにも関われず、向こう岸へ渡ろうとされていたのです。しかも、時刻は夕方になっているのです。これから暗い夜になります。とても舟を出す時間として適切とは思えません。

 そのような中舟は、途中に嵐に遭遇するのです。イエス・キリストが、嵐が起こること予測できなかったとは考えにくいです。充分それを予知されていたはずです。それでも舟を出して、向こう岸へ渡ろうとされたのです。

一体何故でしょうか。

 イエス・キリストが向こう岸へ着いてすぐなさったことが次の52節に記されています。

“イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた”

向こう岸でイエス・キリストを待っていたのは汚れた霊につかれていた人でした。イエス・キリストはその人を救ってくださいました。そのためにイエス・キリストは疲れの中、夕方の時刻だったにも関わらず湖を渡ろうとされたのです。嵐に遭うことをも知りながらです。

 人から無視されている者への関心と彼らの救いは常にイエス・キリストが持っておられた御心でした。そのためにイエス・キリストは大いに働かれました。何故なら、それが神様の御心に叶うことだったからです。旧約の時代において、この代表的な例を見ることができます。

 神様はヨナという預言者に、アッシリアのニネベという町に行って神のみことばを伝えるようにと言われました。当時のイスラエル人にとってアッシリア人は自分たちを苦しめる悪い人々でありました。そして、ヨナも強い日差しの中で自分のために陰を作ってくれるとうごまが枯れることを彼らが滅びることより惜しんでいたのです。彼らに神のみことばを伝えることなんてとうてい考えられないことでした。当時の常識を覆すことでした。しかし、神様はヨナを通してご自分のみことばを伝え、彼らが悔い改めをし救われるようにされました。ヨナはこのことが気に入らなかったのです。そのようなヨナに神様はこのように語られました。

“あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。”(ヨナ4:10-11)

 イエス・キリストはこのような神様の御心を行うために向こう岸へ渡ろうとされたのです。

もちろん、その時弟子たちはイエス・キリストのこのような目的を知りませんでした。しかし、聖書を読んでいる現在の私たちはイエス・キリストの意図が分かります。そして今の私たちの歩みに適用することができます。

イエス・キリストは一人の魂を救うために時には、私たちの視点からすると適切ではないように見えることをも私たちに要求されることがあること、また時にそれは、嵐の中を通ることになることが教えられています。 

考えてみれば、信仰の道というのは時には常識的な事柄に捕らわれず、あえて危険とも思われる歩みを選択せざるを得ないことが度々あるのではないでしょうか。私たちひとり一人の歩み、また教会の歩みもそのようなところを通っているのではないでしょうか。そして、これからもそのように導かれることがあるでしょう。

その時、私たちが覚えておくべきことがあります。それは私たちの主イエス・キリストは一人でも多くのの魂を救おうとされる神様の御心に叶う道へと私たちを導いてくださるということです。その目的と意図のもとに私たちは導かれていることを心に刻みましょう。

時には嵐のような厳しい状況に遭遇することがあるかも知れません。それゆえ、神様の目的と意図を見失うこともあるかも知れませんが、イエス・キリストを信じて、嵐の中を通りましょう。

願わくは、汚れた霊につかれた人が救われ、ニネベの人々が悔い改めたようなことを私たちも経験することです。その喜びの日を待ち望みつつ、今もイエス・キリストの導きに従い続けることができますように祈り求めます。

「困難の中に共におられ、解決に導くお方である」

 ガリラヤ湖は地形上突風が発生すると言われています。海より200メートぐらい低い場所に位置し、周りは高い山々に囲まれていますので、山の方から水面を叩きつけるような強い風が度々発生するそうです。

イエス・キリストの弟子たちの多くは漁師でしたので、彼らはこのことを幾回にも経験したと思います。

しかし、今回の嵐はレベルが違いました。その様子がこのように記されています。

“すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった”(37)

あっという間に舟の中は水でいっぱいになって今にも沈みそうに見えたのです。緊迫な状況でした。

恐らく風や波の音と弟子たちの叫びで大変な騒ぎであったでしょう。しかし、その中でイエス・キリストだけ眠っておられたのです。弟子たちは、そのイエス・キリストを起こしました。起こされたイエス・キリストはまずこのようにされました。

“イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった”(40節)

 舟を飲み込むような勢いの嵐が一瞬で止まりました。風がやみ、波も静まりました。これはイエス・キリストが自然の力を治めるお方であることを示しています。経験豊かな漁師たちもあきらめるしかなかった自然の脅威をイエス・キリストは治められるのです。これは、イエス・キリストが海で起きる嵐だけではなく私たちの人生の嵐をも治めることができるお方であることを象徴しています。イエス・キリストのお言葉に従って嵐が止まったように、私たちの人生の嵐をも止めてくださるお方なのです。

 しかし私たちの中には最初から嵐が起こらないようにしてくだれば良いのではないかという思いもあると思います。しかし、イエス・キリストは嵐がない人生を私たちに約束されるのではなく、嵐を治めるご自分を私たちが見つめることを求められているのです。

嵐の中でも、イエス・キリストが眠ることができることに弟子たちが気づいていたならば、そこまで嵐を怖がる必要はなかったでしょう。イエス・キリストはこのように彼らに言われました。

“どうしてそんなにこわがるのですか。信仰がないのは、どうしたことです。”(40)

弟子たちの心は嵐への恐怖によって支配されていまいました。彼らは今自分たちとともに舟に乗っておられる方がどういうお方かをまだわかっていなかったのです。まだ、イエス・キリストを神様として信じていなかったのです。それゆえ、彼らは恐怖に支配されてしまいました。

 もしかして、私たちも嵐のような事柄、心配や悩み、苦難の故に私たちの主イエス・キリストがどういうお方であるかを忘れているのではないでしょうか。もし、そうであるならばイエス・キリストは嵐をも静まらせるお方であることを覚え、今もその力を持って私たちを守ってくださるお方であることに心をとめましょう。

 この方は嵐の中で私たちとともにおられるお方です。今にも沈みそうな舟ですが、その舟にイエス・キリストが共に乗っておられることを覚えましょう。その方は嵐の中でも休んでおられるお方なのです。嵐はこの方の休息を妨げることができません。私たちがこの方の中にとどまっているならば共に休みを得ることができるのです。たとい嵐の中にいるとしても。

 嵐は私たちを海の底に陥れることのためのものではなく、イエス・キリストがどんな状況においても共におられることをはっきりと教えてくれるものとなります。

出エジプトの時、海とエジプトの兵隊の間に挟まれて、絶体絶命の危機に立たされたイスラエルの人々にモーセはこのように言われました。

“恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。”(出14:13)

 神様は危機の中からご自分の民を救ってくださるお方のです。イエス・キリストは嵐の中からご自分の弟子たちを守ってくださるお方なのです。

 私たちは救い主イエス・キリストをどういうお方だと思っているでしょうか。この方はご自分の目的を持って私たちを導き、困難の中に共におられ守ってくださるお方です。どんな状況においてもこれは変わることのない真実なのです。この方をしっかりと見つめてこれからも歩み続けましょう。