本日、私たちはイエス・キリストの一連のたとえ話の最後の部分のみことばに耳を傾けます。イエス・キリストのたとえは日常生活で身近に触れるものを用いてわかりやすい内容でした。しかし、その奥に隠されている深い意味を悟ることができたのは弟子たちだけでした。

“イエスは、このように多くのたとえで、彼らの聞く力に応じて、みことばを話された。

たとえによらないで話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちだけは、すべてのことを解き明かされた。”(33-34)

 ご自分の弟子たちだけにはたとえを解き明かしてくださったように、本日私たちにもこのたとえを解き明かしてくださることを期待しましょう。

 本日のみことばには神の国のたとえが二つ記されています。一つは、人が地に種を蒔くたとえです。もう一つはからし種のたとえです。

これらは蒔かれた種がどのようになるかが記されています。神の国をその様子にたとえられているのです。

前者の方は、蒔かれた種は収穫の時を迎えることを通して種の生命力が強調されています。

後者は、小さいからし種が想像をはるかに超える大きい木のようになることが記されています。

神の国はこれらの種のように必ず成長し、拡張することが教えられます。このたとえを通して神の国がどのようなものかを知ることによって私たちは励ましをいただき、希望を持つことができます。

 

「神の国の成長」

まず、26節~29節のたとえです。

 “また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。

“地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです」。”(26-29)

 神の国は種を蒔くことから始まります。そして、蒔かれた種は芽を出して成長して実を結び、収穫されるのです。

この一連の過程は、種を蒔いた人が知らないうちになされていくことです。 

そのようにこのたとえが強調しているのは種の生命力です。種そのものが持っている生命の故に収穫が与えられるということです。種が確かな生命を持っているので、それは育ち、実を結ぶようになるのです。どうしてか種を蒔いた人は分かりません。種を蒔く人はそれを知らなくても種まきをするのです。それは種が持っている生命力を信じるからです。

ですので、種がどのような作用によって芽を出すかが分からなくても種を蒔くことができますし、この種蒔きがなければ収穫をすることもできません。

 自分の実家は農家でしたので、春また場合によっては秋になるといろいろな作物の種を蒔きました。土を耕して、種が育ちやすい環境を作り、種を蒔きました。そして、蒔かれた種は時間が経つにつれ芽を出し、成長して、収穫されました。すべては種まきから始まるのです。種を蒔くためには土を耕すことは必要です。しかし、土を耕しても種を蒔かないとその土から収穫は期待できません。

神の国は人が地に種を蒔くようなものだと記されています。これはすべての農業が種蒔きから始まるように神の国も種まきから始まるということです。神の国の種蒔きは福音を伝えることです。みことばを伝えることから始まるのです。どのように伝えるか、誰に伝えるか、伝えるために事前に何を知っておくべきかなどは重要な事柄ですが、それだけでは何も始まらないのです。種が蒔かれていない土のようです。

種の生命力を信じて、土を耕して種まきをする農夫のように、私たちも神のみことばの力を信じて福音を知らせ、伝えましょう。伝えられたところから神の国が始まるのです。

 そして、蒔かれた種は時間と共に成長し収穫の時期を迎えます。この収穫は喜びと感謝があふれることでしょう。またこの収穫があるからこそ、翌年に再び種を蒔くことができるのです。

神の国も同様です。蒔かれたみことばは無駄になることなく実を結び収穫されます。そして、これはみことばを伝えた者には大きい喜びと感謝となります。この感謝と喜びに助けられ、再び神の国のための種を蒔くことができるのです。

 

 蒔かれた種は人手によって芽を出すのではありません。種そのものが生命力を持っていなければ農夫が何をしても無意味なのです。温度管理、栄養管理、土壌管理などの様々な工夫をしても種に生命がなければ芽を出しません。種そのものに生命力がないからなのです。

 これは種を蒔いて、育てる農夫の努力が何の意味もないことを言っているのではありません。何を強調するかということです。農夫の努力より、種の生命力を強調するからなのです。

 使徒バウロはこういいました。

“私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。”(第Ⅰコリント3:6-7)

 コリント教会において分裂が起きました。私はパウロを支持する、私はアポロの教えに従うなどして、パウロ派、アポロ派のように分かれてしまったのです。コリント教会においてパウロとアポロの働きはとても大きいものでした。植えたのはパウロで、水を注ぐのがアポロだと言うほどコリント教会の成長にこの二人の働きは欠かせないものでした。

しかし、パウロは、成長させてくださったことにおいては、神様がより大切だと語っています。

いのちを与えられる方が神様であることをはっきりと示しているのです。パウロとアポロはこのいのちが成長するために必要な手助けをしていましたが、いのちそのものを与えることはできないのです。

パウロはこの核心をつく言葉を述べていたのです。

 種は農夫の力によって成長するのではなく、種が持っている生命力によって成長するのです。

これは私たちに二つのことを教えてくれています。

まずは、収穫に対して自慢して高慢にならないことです。収穫が与えられたのは根本的に種の生命力があるからこその結果です。その上に努力があって与えられたものです。種そのものの生命力がなければどんな努力も実を結ぶことはできません。

 もう一つは、私たちが努力することを怠ってはならないことです。

種が確かな生命力を持っているのに、それを管理する努力を怠ってしまうと収穫を得ることはできません。むしろ、生命力があることを信じるからこそ豊かな実りを得るために様々な努力をするのです。 

 私たちはみことばの生命力に信頼を持ちましょう。

その信頼があるからこそ、一所懸命にみことばを伝えましょう。今蒔かれた種は小さくて、一見その可能性を見出すのは難しいかも知れません。しかし、蒔かれた種は必ず収穫ができます。それが神の国の特徴です。私たちのみことばを伝える働きが、すぐ実を結ばなくても、時にはその可能性を見出すことが難しくても、みことばの力を信じて伝える努力をし続けましょう。

 

「神の国の拡張」

 神の国は成長と共に拡張します。広がりを持つのです。

“また言われた。「神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。

それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいものですが、

それが蒔かれると成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」”(30-32)

 ここは蒔かれた種が実を結ぶというより大きくなるということが強調されています。

からし種は一番小さい種だと記されています。しかし、それが生長するとどんな野菜よりも大きくなり、その枝には空の鳥が巣を作るほどだと記しています。

 種の小ささと生長した後の大きさが比較されています。からし種は成長すると大きいのは3メートロにもなると言われています。枝も太いのは大人の腕ほどになると言われています。ですので、鳥が巣を作ることも可能だそうです。

からし種は小さいのです。小さくて弱いように見える存在です。

 神の国はからし種のようだというのは、神の国が宣布される時には小さくて弱いように見えますが、その完成の時においてはこの世のどの国よりも偉大で大きいということを意味しています。

 小さいということは人の注目を集める力がないものとも言えます。

目立たないし、魅力も感じさせないことでしょう。しかも、これが地に蒔かれると土の粒とあまり区別ができないほどになってしまいます。種が蒔かれていることすら気づくのが難しいほどなのです。

 神の国もそうだということです。この世の中で、神の国を伝えることは人々にとっては小さく見えます。魅力的でもなく重要に思われないかもしれません。

それを伝えた人にとっても神の国を伝えることが、土の中にまぎれ込んでしまい消えていたように思われるかもしれません。

 しかし、この小さい種が芽を出し、生長するのです。それは種が持っている生命力の故です。

しかもどの野菜より大きく生長するのです。大きくなり広がっていきます。神の国がそうであるということです。

ただ大きくなるだけではありません。空の鳥が巣を作るほどに大きくなるのです。拡張するのです。

 神の国はイエス・キリストのお働き以来、大きくなっているのです。完成に向かっているのです。

イエス・キリストのお働きの当初は、この世の中で小さいものでした。しかし、イエス・キリストの宣告された神の国は当初に比べるとはるかに大きくなっているのです。

 私たちの教会もこの神の国の一員としてその役割を果たしているのです。

私たちは神の国はからし種が大きい木のように生長することを知っているので、今ここにおいて教会の働きを続けることができているのです。

願わくは、私たちの教会の働きそのものも大きくなってほしいですが、もっと願うのは神の国の一員として忠実に歩みたいということです。

 神の国に属している神の教会ですので、忠実に神の御心を行う教会として歩みたいのです。

イエス・キリストは神の国は大きくなることをからし種のたとえを通して教えてくださいました。

小さいからし種を蒔く時、からし種が大きくなることを知っている農夫のように私たちもイエス・キリストのみことばを通して、神の国が大きくなることが教えられ、知っているのです。

 

何の頼りもないように見えたからし種でしたが、鳥がその陰に巣を作れるほどに大きくなり安全な場所を与えてくれるのです。

現実の厳しさの中で、時にはみことばがからし種のように思われることがあるかも知れません。そのように思われたとしてもいのちを持っている種であることには変わりありません。

目に見えるまま小さい種だと言って捨ててしまうとそれきりなのですが、種が持っている力を信じて、蒔くと必ず成長し収穫が与えられます。そして、その広がりは私たちの思う以上に多くの人々に平安と喜びを与えられるのです。それは私たち自身にも当てはまることなのです。

 神の国は、必ず成長し広がるのです。私たちに必要なのはこの神の国の種、みことばへの信頼です。みことばの力を信じて、みことばを伝える働きを中断することがないようにしましょう。蒔かれたみ言葉は私たちが知らないうちに芽を出して収穫の時を待っているのです。

現実と比べると小さくて弱いように思われてもみことばを伝えましょう。みことばの力は私たちの目に見えるよりはるかに大きいのです。多くの人々に真の平安と安息を与える力を持っているのです。

このみことばの約束を信じて、期待を持ってみことばの働きに励みましょう。