「たとえで語られる」

 イエス・キリストは再び湖のほとりで教えられました。おびただしい人々が集まってきました。そして、イエス・キリストは以前と同様に舟に乗り、語られました。

その教えの多くはたとえをもって語られたものでした。今日の聖書箇所には種がまかれた4つの場所が書いてあります。これらの場所を大きく二つに分けることができます。

一つは、道ばたと土の薄い岩地、いばらの中です。これらの特徴は実を結ばないことです。もう一つは、良い地です。これは豊かに実を結ぶ場所です。これらを区分する基準は実を結ぶか否かにあります。

同じ種がまかれても、実を結ぶのはこの良い地だけなのです。

私たちが実を結ぶ良い地であることを願いながら御言葉に共に耳をかたむけましょう。 

 多くの群衆を前において語られたイエス・キリストのたとえ話は、このことばをもって始められました。“よく聞きなさい。” つまりこれから私が話すことに耳を傾けてください。注意深く聞きなさいということです。それから、たとえ話を語られました。

そして、たとえ話の終わりにもう一度このように語られました。

“聞く耳のある者は聞きなさい。”

“聞く”ことを促されているのです。必ず聞いて、心に刻まなければならない大事なものであるということを強調されているのです。聞くべきたとえ話の内容は次の通りです。

“種の蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。”(4:3-8)

 

「たとえの解釈」

 イエス・キリストはたとえ話を自ら説明して下さっています。

“種蒔く人は、みことばを蒔くのです。”(4:14

種はイエス・キリストのみことばであることが分かります。

ですので、種蒔く人は一次的にはイエス・キリストご自身を指しています。そして、イエス・キリストのみことばを伝えるすべての人々をも意味するのです。福音を伝える人とも言えます。

みことばが蒔かれる地は、イエス・キリストのみことば、つまり福音を受け入れる人々の心の姿勢を意味します。

それでは、最初の地に対するイエス・キリストの説明を聞きましょう。

“みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです。みことばを蒔くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。”(4:15)

種は土で覆われないと芽をだすことができません。芽をだすところかすぐ鳥に食べられてしまいます。

このように道ばたに種がまかれるというのは、みことばに関心を全く示さない人々のことを指しています。このような人たちは受け入れようとする試みがなく、むしろ無視し軽んじるのです。

それゆえ、みことばがその人の中で働くことができず、サタンが持ち去ってしまう結果になります。このたとえから分かるのは、みことばを受け入れないことはサタンに自分の魂を明け渡すことに等しいことであるということです。当然、実を結ぶことは期待できません。

 

“同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人のことです。みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れるが、根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。”(4:16-17

彼らはみことばを聞いてすぐ喜んで受け入れます。しかし、みことばによって苦しみを受けるとすぐみことばを疑い、離れてしまうのです。

蒔かれた種が芽を出すためには、太陽の光が必要なのです。しかし、同時にこの太陽の日差しは芽にとって苦しみを与えるものであります。

これは、みことばに従って歩もうとする者には困難や迫害が必ずついてくるということです。しかし、岩地のような人の特徴は、困難や迫害が起こるとすぐみことばの教えから離れることなのです。イエス・キリストを信じると告白した者がイエス・キリストのゆえに不利な状況に陥るとイエス・キリストから離れてしまうのです。

もしかしたら私たちの知り合いの中にもこういう人々がいるかもしれません。共にみことばを信じましたが、今はみことばの教えから離れてしまった人々がいるのではないでしょうか。

彼らは何故、そうなったでしょうか。もしかしたらみことばの教えに従おうとする時戦わねばならない様々な現実の事柄を前にしてつまづいてしまったかもしれません。

私はそのような人々を批判するつもりも、資格もありません。しかし、このみことばによると、みことばのための苦しみの故に、みことばの教えを守っていないとするならば、そして、そのようにし続けているのならば、それは彼ら自身が岩地であることを自らの歩みを通して証明していることだということです。

私たちは、みことばのための困難や迫害の中でも信仰を守っていた多くの人々を知っています。聖書はそのような人々の話で満ち溢れています。そして、今日もそのように生きている多くの人々の証しを聞くことができるのです。

願うことは、私たちもそのような生き方をすることです。困難や迫害に対して自信満々に立ち向かうことはできないかも知れません。しかし、私たちの目指す信仰は、みことばのための困難や迫害に戸惑うことなく、当然なものとして受け入れ、みことばの教えに従うものであります。

 

“もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いているが、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。”(4:18-19)

いばらの中に蒔かれたというのは、みことばを聞いているが、それを実らせることができない人々のことです。その原因は世の心づかいと富の惑わし、その他の欲望だと語られています。

 世の心づかいは世への心配とも訳されます。私たちが生きていくことには様々な心配ことがあります。しかし、心配そのものが悪いというより心配に埋もれてしまうのが問題なのです。このような人はこの世が求める方向にその心が動いてしまうのです。当然みことばの実を結ぶことはできません。

 世の心づかいの中には特定の世代が求める事柄もあります。子育て中の親にとっては子供の教育や健康、安全などが重要な課題となってきます。高齢の方には余生をどう生きるかが大きい課題です。そして、そのような課題のゆえに求められる世の必要があります。これらは無視できない大事なことです。しかし、このようなことへの関心がみことばに従う私たちの信仰を支配してはいけません。

 富の惑わしですが、同じく富そのものが悪いわけではありません。富を必要以上に追及することが問題なのです。富への欲望がその人を支配してはならないのです。その代表的な人物としてアカンとサウル王を挙げられます。彼らは神様の命令(みことば)を無視して、ほしくなったものを勝手に自分たちのものにしたのです。それによって、彼らは神様からの厳しい裁きを受けなければならなかったのです。

このような富への欲望は私たちにもあるものです。富はよいものですが、それが私たちの人生の目的にならないように、富のゆえに私たちの心が惑わされないように祈り求めましょう。

 富だけでなく、その他の欲望も私たちの中に蒔かれたみことばが実ることへの妨げにならないように気を付けなければなりません。

この世の心づかい、富の惑わし、その他の欲望による結果は同じです。みことばの実を結ぶことができないのです。

 

みことばの実が豊かに実れるのは良い地なのです。

“良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。”(4:20)

みことばを聞いて受け入れるというのは、喜びをもって聞き、受け入れることです。みことばへの渇望があり、与えられるみことばを喜びの中で受け入れることです。

そして、実を結ぶというのは与えられたみことばに従うことを意味しています。神様はヤコブを通してこのように語っておられます。

“また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。”(ヤコブ1:22

“完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます”(ヤコブ1:25

実を結ぶことは聞いて受け入れ、行うことまでのことを言います。

みことばの種が蒔かれてその実を結ぶ者が良い地なのです。

 

「たとえの目的」

イエス・キリストはたとえで語られる理由をこのように言われました。理由を知ることから、だれが良い地であるかが教えられます。

“あなた方には神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。

それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため』です。”(4:11-12)

“彼ら”というのは誰のことを指しているのでしょうか。それは、パリサイ人や律法学者を意味します。そして、イエス・キリストから離れていった多くの群衆のことをも意味しています。

イエス・キリストによってたとえ話の中に隠れていた神の国の奥義が教えられたのは、イエス・キリストの弟子たちをはじめ、いつもつき従っていた人たちだけでした。

このたとえを聞いた多くの人々には、神の国の奥義が教えられなかったのです。おそらく、彼らはイエス・キリストが教えられる神の国の奥義より、癒しや悪霊を追い出すなどの奇跡を見て、体験することが目的だったと思われます。

理解するに難しいたとえで話されると興味を失い、知ろうともせず、ほとんど離れていったのです。従って、彼らはイエス・キリストのたとえ話に隠されていた神の国の奥義を聞くことができませんでした。

 しかし、イエス・キリストのそばにいつもつき従っていた者たちは神の国の奥義を聞くことができました。それは彼らが見てわかるように、聞いて悟るように、悔い改めて赦されるようにするためでした。

悔い改めるのは今までの自分の行いを悔いて、新しい行動に変えることです。それには、いうまでもなくみことばの教えに忠実に従おうとする行いが付いてくるのです。そしてその行いには祝福が約束されているのです。

 さて、ここで誰が良い地でしょうか。

それは、みことばによって自分の心に道ばたや岩地、いばらのようなものがあることに気づき、悔い改める人なのです。

そして、みことばに従って努力し、実践する人が実を結ぶ良い地なのです。

イエス・キリストがこのたとえを語られた目的は、ご自分のお望みによって呼び寄せられている者がみことばの実を豊かに結ぶことなのです。

私たちはイエス・キリストによって良い地として認められていますが、時には道ばたや岩地、いばらの中にあるような状況になることもあります。今の私たちの心はどのような状況でしょうか。

もしこのみことばに照らし合わされ、教えられ、戒められることがあれば悔い改めましょう。良い地に交じりこんでいる悪いものを主に取り除いていただくように祈り求めましょう。そして、私たちの心の土を耕していただき、みことばの教えに忠実に従う者とさせていただきましょう。豊かな実を結ぶ良い地であり続けられますように。