「イエス・キリストのお望みによる」

 イエス・キリストのうわさを聞いて多くの人々がイエス・キリストのおられる場所に集まりました。

イエス・キリストの人気が高まっていたのです。

人が多いので、イエス・キリストは舟を用意してそれに乗って語らなければならなかったのです。人だけではなく、悪霊たちもイエス・キリストに対して“あなたこそ神の子です”と叫び、人々を驚かせていました。

このように高まっている人気、多くの支持者がいたのです。この人たちを率いてやりたいことを十分にできる基盤が整えられているようにも思えます。私たちならおそらくそのようにしたのではないでしょうか。

 しかし、イエス・キリストはそのようなことはせず、多くの人々から離れて行かれました。

“さて、イエスは山に登り、ご自分のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみなみもとに来た。そこで、イエスは十二弟子を任命された。”(1314a節)

 山はイスラエル人にとって神様が臨在される場所として認識されていました。イエス・キリストは人々から離れ、祈りをささげるために山に登られました。そして、夜明けまで祈られたのです。

祈られた後に、イエス・キリストはご自分のお望みになる人々を呼びよせました。当時イエス・キリストのもとには彼を慕う多くの人々がすでにいました。彼らはイエス・キリストによって病気が癒され、悪霊の支配から救われた者達です。よって熱烈なイエス・キリストのファンが多くいました。しかし、彼らはイエス・キリストのお望みになる人々ではありませんでした。

 イエス・キリストのお望みによって呼び寄せられた人々はこの山にいたのです。ルカの福音書では彼らを弟子として記しています。

多くの弟子がイエス・キリストの呼びかけに応じて、みもとに来たのです。その中からイエス・キリストは特別に十二人の弟子を任命されたのです。ルカの福音書ではこの十二人の弟子のことを「使徒」と名付けています(ルカ6:13)。

多くの弟子から特別にこの十二人を任命されたことは、彼らが弟子を代表することを意味すると考えられます。ですので、この十二人が担っている働きは、他の弟子たちにも求められることと言えます。そして、イエス・キリストによって召されている私たちにも求められていることなのです。

 

「十二人を選ばれた」

 ここで、イエス・キリストは何の目的でこの弟子たちを呼び寄せられたかを聞く前にどのような人をお呼びになったかを考えてみましょう。

聖書にはこのように紹介されています。

“こうして、イエスは十二弟子を任命された。そして、シモンはペテロという名をつけ、

ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、このふたりにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。

次に、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党員シモン、

イスカリオテ・ユダ。このユダが、イエスを裏切ったのである。”(16-19節)

 この人たちの中には無学で普通の人、人々から軽蔑されていた取税人など人間的に自慢できる才能や権力、お金を持っている者はいませんでした。その上取税人と熱心党員は政治的な意見が真正面から衝突する者達です。一般的には、このような者たちと共に一体何ができるのかと疑われてもおかしくないように思えます。

 しかし、イエス・キリストは彼らを望まれたのです。人間的に弱さがあり欠点が多い者をお選びになったのです。そして、そばに置き、遣わそうとされたのです。

 イエス・キリストが人を呼び寄せる時、いわゆる人間的な誇りを基準としているのではないことが分かります。私たちはここで任命されている人たちに何か特別なものを期待してはいますが、聖書で見た通り彼らに特別な何かはありませんでした。それなら、私たちは何をここから学ぶべきでしょうか。それは、どのような人が召されるかということではなく、誰によって召されるかということです。イエス・キリストの召しに人間的な基準があるのではなく、召された人はイエス・キリストのお望みによって選ばれたということです。

 パウロはこのように語っています。

“兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くなく、権力者も多くなく、身分の高い者も多くはありません。

しかし、神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれました。

また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。”(第1コリント1:26-29

 イエス・キリストによって任命された弟子たちもコリントの人々のようでした。決して強くて、権力があって、身分が高い者ではなかったのですが、イエス・キリストによって召されたのです。弟子たちは後に、教会の柱のような人物となりますが、それは彼らの特別な能力の故ではなく、イエス・キリストによる召しの故なのです。

そして、この事実は私においても同じです。

私がこの世においてどのような者かというより、私を召してくださった方が誰であるかを知ることが重要なのです。私を召してくださった方を知っているからこそ、その方に喜ばれる生き方をするように努力するのです。そして、その方を信じることによって助けられ強められるのです。

 

「イエス・キリスト共に」

 イエス・キリストはこの世において誇ることがない人たちを弟子として選ばれました。そして、彼らを通して成し遂げようとされる計画がありました。それはこのようなものです。

“それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。”(14b15節)

イエス・キリストが望まれることはまず、彼らをそばに置くことです。次には遣わすことなのです。そして彼らを遣わす理由は、福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであります。

そばに置くということは、文字通りそばに置くことを意味しません。つまり観賞するためではないのです。

イエス・キリストは彼らといっしょに生活するためにそのようになさいました。そして、ご自分のなさる事を弟子たちに見せることによって、彼らが見倣うことを願っておられました。

イエス・キリストはご自分がどのように考えられ、祈られ、どのように人をまた神様を愛されたかを身近なところで見せるために彼らをそばに置かれたのです。このことが重要な理由はイエス・キリストによって彼らが送られる、つまり派遣されるからです。イエス・キリストの望まれることを他の人々に示し、また行わせる必要があるからです。彼らの働きの基準はイエス・キリストでなければならないからです。

 弟子たちはイエス・キリストと共に生活をした経験から自分たちがそれまで、見たこと、聞いたことが何を意味するかはっきりと理解していました。それなら今日の私たちはどのようにイエス・キリストと共に生活しながら学ぶことができるでしょうか。

それは、聖書のことばを通してです。

聖書のことばが示すように考え、行動を取ることによって学ぶことができます。

私たちは様々な出来事に直面し、その都度取るべき行動を決めなければなりません。その時に聖書のことばを基準とすることがイエス・キリストと共に生活することになります。

 私は自分に対して自信を持つことがなかなかできません。自分が得意としているのはこれとはっきり言えるものがなく、時には落ち込んだりもします。つい最近もそのような感情が自分を苦しめた時がありました。その時、この聖書のことばに出会いました。

“私たちは、この宝を、土の器の中にいれているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。”(第2コリント4:7)

 自分は確かに土の器であります。できれば銀、金の器であってほしいですが残念ながらそうではないのです。自分の観点の限界はここまでです。しかし、聖書はその中にいれてあるものに注目させてくれるのです。“宝を入れている”と。この“宝”はイエス・キリストです。

 自分が土の器であることだけに目をとめてしまうと、そこからはそれ以上のものは出ません。しかし、宝を入れてある土の器となると全く違う意味を持つようになります。

この時、私は決めなければなりません。自分が感じる、見ている事実にとどまるのか、それとも聖書のことばに自分の思いや感情を従わせるか。もちろん、私は聖書のことばが示すように、宝を入れてある土の器であることに自分の思いや感情を一所懸命従わせました。そして、今も、これからもそうし続けます。このことは、この世の誰のことばよりも私に喜びと平安を与えてくれています。

 このように私たちは聖書のことばを通してイエス・キリストと共に歩む生活ができるのです。そして、イエス・キリストとともに生活することこそがイエス・キリストが弟子たちを呼び寄せられ、十二人を特別に任命された目的なのです。イエス・キリストと一緒に歩んでからこそ忠実に遣わされることも可能になります。

 私たちもイエス・キリストがお望みになって呼ばれたものです。それは、イエス・キリストと共に生活するため、そして、イエス・キリストによって遣わされるためなのです。 

 私たちは今どのようにしてイエス・キリストと共に生活しているでしょうか。

聖書のことばは私たちの生活にどのような影響を与えているでしょうか。一人ひとりが自分の歩みを聖書のことばに照らしてみてください。

この一年はイエス・キリストと共に生活できるように、また聖書のことばが私たちのすべてを支配するように祈り求めながら共に歩みましょう。