「福音を恥とは思わない」

パウロは福音を恥とは思わないと語っています。しかしこの言葉はむしろ福音を誇りとしているというニュアンスが強いです。

 パウロはローマに住んでいるクリスチャンにこの手紙を書き送りました。当時のローマは世界の中心地と言えるほど大都会でした。おそらくそこに住んでいる人々は、繁栄と安定、自由を誇りとしていたと思います。このようなことは今の世界においても同じではないでしょうか。しかし、パウロが誇りとしているのはこれらではありません。

 パウロは自分の全生涯を福音のためにささげた人でした。そのようなパウロの歩みは、はたして人々が誇りとして受け止めるようなことだったでしょうか。パウロの実際の歩みはどうだったでしょうか。

それをパウロ自身がこのように語っています。

“今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、ののしられるときには、慰めのことばをかけます。今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。”(第1コリント4:11-13)

別の所ではこのように記しています。

“私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。”(第2コリント11:23b~27)

 これらのことはパウロの福音のための歩みの中で彼自身が経験したことです。パウロが経験してきたこのような事柄は決して人々が自ら望むようなものではありません。むしろ、多くの人の場合は恥ずかしいと思うようなものなのです。

 パウロは、晩年には囚人となってローマで投獄されました。そして、当時のクリスチャンの中でもこのようなパウロを恥ずかしいと思った人々がいたようです。それで、パウロはテモテにこのように書き記しました。

“ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください”(第2テモテ1:8)

投獄されている人を恥ずかしいと思うことは当然なことかもしれません。

私たちは福音のために受けるこのようなことをどのように考えているでしょう。もしかすると、私たちの心の中にこれらを恥ずかしいと思っているところがあるのかも知れません。

 ある方が教会へ行くことを周囲に知られるのが恥ずかしくて、わざと遠回りをして教会へ行っていたということを証の中で記したものを読んだことがあります。私は、何故かその気持ちが分かるような気がしました。程度の違いはあると思いますが、私たちにはパウロほどに大胆に福音を誇りとすることができていないところがあるのではないでしょうか。しかし、そこにとどまってはいけないのです。

 テモテにパウロが言ったように、恥じてはいけないのです。

 

 「信じる人にとって救いを得させる神の力です」

 それは何故でしょうか。このような恥ずかしいとも思える状況においても恥じてはならない理由は何でしょうか。パウロはその理由をこのように語っています。

“福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。”

 つまり福音は人を救うことができるからだと言っています。ユダヤ人だけではなくギリシャ人だけでもなく、誰であっても信じるすべての人を救うことができるからだと言っています。

実際、パウロの働きを通して多くの人々が救われたのです。その様子を私たちは使徒の働きの中で確認することができます。

“イコニオムでも、ふたりは連れだってユダヤ人の会堂に入り、話をすると、ユダヤ人もギリシャ人も大ぜいの人々が信仰に入った”(使徒の働き14:1)

ユダヤ人でもギリシャ人でも多くの人々が信じて、救われました。

福音を恥と思わない最大の理由は、この人々が救われることにあったのです。人の救いがあるからこそ、すべての苦難の中でも福音を誇ることができているのです。

ここまでの私たちの教会の歩みを考えた時、本当に多くの恵みと祝福をいただいていることに、感謝が満ち溢れます。しかし、福音を信じ、救われる人が与えられないとパウロと同様に福音を誇ることはできません。

このようなことには責任を覚え、大いに反省しています。

パウロには福音のために苦しみをともにする同労者たちがいました。

私にも同じく皆さんという同労者が与えられています。

そして、パウロの働きを通しては多くの人々が救われました。しかし、自分の働きを通してはそうではありませんでした。

この違いはどこにあるのか。パウロと自分との違いは何であるか。

“福音は、神の力”です。“力”というギリシャ語から英語のダイナマイトという言葉が派生しました。

ダイナマイトと言われたら私たちは何を想像しますか。凄まじい爆発力、何でも破壊する力を想像するでしょう。福音は、このような力であります。

そして、福音に仕える人にはこの力に対する信頼が必要です。すでに福音を受けている者にはこの力をもあることを知る必要があります。

 ダイナマイトを手にもって、目の前の障害物をどうすればよいかと悩むことは愚かなことです。またダイナマイトを持っていながら攻めて来る敵をただ恐れていることは非常に残念なことです。

 パウロはこの神の力を信じ、苦しみも敵も恐れず、歩んだのです。自分が持っている力が何であるかを知っていたからです。そして、神の力を信頼して宣教の働きに励んだのです。神様は真実にパウロの働きに答えてくださり、人々を救われました。パウロは救われる人々を見て、神様の力をより信頼でき、福音のために受ける様々な苦難を恥ずかしいと思わなかったのです。福音を恥とは思わなかったのです。

私にも神様の力である福音が与えられているのです。 それならパウロと私の違いは、力に対する信頼です。どれほどそれをよく用いているかの差であります。

自分自身もパウロのように神様の力を信頼して働きを全うしたいと思います。そして、救われる人々が起こされることを体験し、パウロと同様に福音を恥とは思わない者として、歩み続けたいと心を新たにしております。

 

「福音によって信仰に始まり信仰に進ませる」

 パウロが福音を恥と思わないもう一つの理由は、福音が神の義を示しているからです。

そして、パウロはそれを自分の力で獲得したのではなく、神様の恵みによって教えられ与えられたと語っています。

“なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。”

‘義人は信仰によって生きる’ということばは、旧約聖書のハバクク書2:4から引用されたものです。

バビロンの侵略によって混乱を極めていた中、神様からの助けがないように見える状況で与えられた御言葉がこれなのです。絶望的な状況でも神様を信じる者は信仰によって生きることが約束されています。

 宗教改革者として有名なマルティン・ルターは、自分の罪とその罪を裁く神様の正義の故に苦しんでいました。しかし、この御言葉によってイエス・キリストを信じる信仰による罪の赦しを確信し、宗教改革に進みました。罪の赦しは人の努力や力ではなく、神様の一方的なあわれみであり、他の方法では得るとのできないものです。そのために神様自ら行われたのがイエス・キリストによる救いなのです。これが福音なのです。

 このイエス・キリストを受け入れる人を神様は義人として認めてくださるのです。必要なのは信仰なのです。

そして、この信仰はより強い信仰を持てるようにしてくれます。それが“信仰に始まり信仰に進ませる”ということです。別の言い方にすると、信仰を持っている人は、その人生を再解釈することができると言えます。現実に起きていることを受け止めながら、その中で神様の御心を見つけることができるということです。

 実際、皆さんがこのように生きておられるのです。

去年、K夫人が思わぬ形でけがをしてしまい、一か月ほど礼拝へ来られなくなりました。激しい痛みに苦しめられ全く身動きがとれない状況でした。しばらく経って、やっと教会へ来られるようになり、このようにおっしゃいました。

今まで、自分は熱心に祈って来たが、今回の出来事で自分の力で祈れたわけではないことがはっきりとわかりました。祈れたのは本当に神様の助けがあったからこそでした。

思わぬけがで苦しんでいた人の言葉とは思えないものではないでしょうか。けがをしたことを恨んだり、神様は何故自分を守ってくださらないのかと不平不満を言うのではなく、むしろ祈ることは神様の助けの故ということを悟ったことへの喜びと感謝がありました。信仰によって救われた人の姿なのです。

 Kさんは定年を迎えました。そして、新たな道を歩もうと願い、祈り求めているのです。しかし、思い描いたような道は与えられていない状況なのです。失望感で落ち込むこともあり得るでしょう。しかし、Kさんは今の状況も神様のみ旨であると信じ、与えられている状況の中で何ができるかを一所懸命祈っておられるのです。近所の方々にどのようにして福音を伝えることができるかを積極的に考えておられるのです。

 F先生は、体力的に以前のように精力的に働くことは難しいと思い、何をすれば福音宣教の働きに役立つかを一所懸命考えられた結果、今までのご自分の説教と論文などを誰もが読めるようにインターネット上で公開されました。そのために連休を利用して新しいHPを作成し、公開されたのです。私たちの教会のHPからもアクセスできますし、検索しても見ることができます。是非、皆さんもご利用ください。

 私はこのような皆さんの姿を見ながら福音の素晴らしさを感じ、信仰による人々の強さを目の当たりにしています。そして、これこそが福音を恥と思わない、むしろ誇りと思うことだと受け止めています。

 信仰は私たちの人生を再解釈する力と知恵を与え、人生がより豊かなものとなるように助けてくれるのです。ですので、私たちは福音を恥とは思わないのです。むしろ、喜びと誇りであるのです。

福音は信じるすべての人にとって救いを得させる神の力であり、その人の人生を豊かにするのを信じ、恥じるのではなく誇るべきであることを体験し証しする今年の歩みでありますように切に祈り求めます。