2017年、最初の礼拝を皆さんと共に捧げることができ、心より感謝しています。

去年の様々なことの中で共に祈り、話し合い、歩んでくださった皆様に感謝いたします。去年の歩みを反省しながら、それと同時に希望をもって新しい年に臨みたいと願っております。

 さて、今日の説教題を「福音の恵みを共に受ける者となる」とつけさせていただきました。

福音は、喜びの知らせです。救いがあり、赦しがあり、平安と希望がある素晴らしい知らせなのです。ですからこの福音を広げれば広げるほど救いと赦しが、希望と平安がこの世に満ち溢れるようになります。その中で福音を伝える者もこの恵みに共に与かる者となるのです。

 今年はこの福音の広がり、実りのために働き、また共にその恵みを受ける者となって歩んでいきたいという願いを込めてこのように題をつけました。今日の聖書箇所から福音を伝える者が持つべき姿勢が教えられます。それは自由でありながらすべての人の奴隷であることです。しかも、その目的は人が救われることにあり、福音を伝える者も共に福音の恵みを受けることにあるのです。

 

「福音を伝える人は自由である」

 まず、聖書の御言葉に耳を傾けましょう。

“私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました”(19節)

この言葉にはパウロ自身がどのような者なのかが記されています。それは、福音を伝える者は、福音を信じることによる自由人であるということです。

ここでパウロは特に人に対して自由だと語っています。これは人を無視することではありません。

人を恐れることなく、人によって妨げられることがないという確信と大胆さを意味するのです。

人に対して自由ですので、誰もパウロを止めることができないという確信なのです。

パウロのこの確信はとこから与えられたものなのでしょうか。

それはパウロが出会ったイエス・キリストによるものです。

“私は確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。”(ローマ8:38,39)

 イエス・キリストに出会ったパウロはこの世の誰であっても自分を神様から引き離すことができないという強い確信が与えられていました。それゆえ、パウロは誰に対しても自由であったのです。

この自由はパウロに大胆さを与えていました。それで、パウロは様々な困難にもあきらめることなく福音を伝えることができたのです。

 福音を受け入れる者はこのパウロのように誰に対しても自由であります。

しかも、より多くの人々を獲得するためであるならば、つまり、より多くの人々に福音を伝えるためであるならば、人を怖がらず福音を伝えることができるのです。

私たちもパウロと同じく福音を受けている者です。誰に対しても自由な者なのです。

この世の誰も、何も私たちを神様の愛から引き離すことはできません。言い換えれば、神様はいつも私たちの味方となってくださり、守り、導いてくださるのです。神様が共におられ、守ってくださることへの確信があるからこそ私たちは人に対して自由に生きることができます。私たちの歩みに福音を信じている者としての自由が満ち溢れますように祈り求めます。

 

「福音を伝える人は自由を自制する」

 しかし、パウロはこの自由をどのように用いていたでしょうか。

それは、“すべての人の奴隷と”なることでした。

“奴隷となる”ということは、ある人々の必要とそのための奉仕に自分自身を捧げるということです。

自由なのですが、その自由に自制を掛けていることなのです。与えられている自由を自分の楽しみや欲求を満たすためではなく、より多くの人の救いのために使うということです。

自由なのにわざわざ奴隷となるというのは簡単に理解できることではありません。しかし、パウロはそのようにしたのです。このようなパウロの姿勢は誰から学んだものでしょうか。

“人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって使えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです”(マルコ10:45)

パウロの生き方は徹底的にイエス・キリストの教えを継承したものだったのです。

 

それなら、パウロはどのようにしてすべての人の奴隷となったか、それをこのように記しています。

“ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。

律法を持たない人々に対してはー私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが、-律法の持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。

弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人にすべてのものとなりました。それは何とかして、幾人かでも救うためです”(20-22節)

 パウロがユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人には異邦人のように、弱い者には弱い者のようにとした目的は、ひとりでも多くの人を獲得するためだと言っています。獲得というのは救うことを意味しています。

人の救いという目的のためパウロは自由でありながらも自ら、すべての人の奴隷となる歩みをしたのです。

 ここで、パウロが行ったことの実例を簡単に見たいと思います。

まず、ユダヤ人にはユダヤ人のようになったことです。これは使徒の働き16章と21章に記されています。

“パウロは、このテモテを連れて行きたかったので、その地方にいるユダヤ人の手前、彼に割礼を受けさせた。彼の父がギリシャ人であることを、みなが知っていたからである”(使徒16:3)

 次は、パウロがエルサレムに上った時の行ったことです。

“そこで、パウロはその人たちを引き連れ、翌日、ともに身を清めて宮に入り、清めの期間が終わって、ひとりひとりのために供え物を捧げる日時を告げた”(使徒21:26)

パウロの働きの主な対象であるユダヤ人の救いのために彼はユダヤ人の習慣を尊重し、割礼と身を清める儀式を行いました。

  そして、パウロは律法を持たない人々には律法を持たない者のようになりました。律法の行いによって救われるというユダヤ人の意見を否定し、信仰による救いを語り続けたのです。パウロは律法の行いによる救いに対して激しい対立をも躊躇することなかったのです。“さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、モーセの習慣に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われないと教えていた。そして、パウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバと、その仲間のうちの幾人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった”(使徒15:1-2

 そして、パウロはガラテヤ人への手紙の中でもこのように語っています。“しかし、私といっしょにいたテトスでさえ、ギリシャ人であったのに、割礼を強いられませんでした。”(ガラテヤ2:3)

 律法になじんでいない異邦人には無理に律法を押し付けるのではなく、律法の完成者であるキリストを信じる信仰のみを伝えたのです。

 そして、弱い者に対しては、弱い者となりました。

弱い者というのは、福音を信じているが、その理解においてはまだ成熟していない人々のことを意味します。

パウロは、まだ成熟していない人々の信仰が成長できるよう助け、彼らをつまずかせることがないように自ら弱い者の立場に立ったのです。特に偶像にささげられた肉に関するコリント教会のあやまちを教えるためにそのようにしたのです。

“次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、分かっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます”(第Ⅰコリント8:1)

 偶像に対する正しい知識を持っていた人々は、まだその知識を持っていない者たちを配慮せずに、自分たちの立場ばかり考え、自由に肉を食べていたのです。しかし、これはまだ幼い信仰を持っている人々を苦しめることとなっていたのです。ですから、パウロは正しい知識を持っているならば、愛をもって知識を用いるように勧めているのです。そして、自分はその愛の故に、弱い人々の立場に立つことを表明したのです。

“ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。”

 パウロ自身にとって偶像にささげられた肉を食べることは何の問題にもならないものですが、それによって兄弟がつまずくならば、その兄弟のために肉を食べないということなのです。

 誰に対しても自由であるパウロは、ユダヤ人にも、異邦人にも、弱い者にも仕える者となっていたのです。そしてそれはより多くの人を獲得するためだったのです。

 

「福音の恵みを共に受ける者となる」

 なぜ、パウロはこのようにしたのでしょうか。

“私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです”(23節)

 パウロは、これらのことは福音のためだと言っています。つまり福音を伝えるためだということです。

パウロはすべての人にすべてのものとなりましたが、それは人の歓心を買うためではなかったのです。また人々を楽しませるためでもなかったのです。

 ただ福音のためだったのです。そのため、パウロは福音の真理を曲げることがないように歩んで来たことが分かります。ユダヤ人のようになりました。しかし、自分は律法の下にあるのではないと明白に記しています。異邦人のようになりました。しかし、神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者だと記しています。弱い者のようになりましたが、弱い者のままでも良いとは教えていません。

 パウロはこれらの人々に対して、彼らのあやまちを指摘できる知識と信仰がある人でした。しかし、パウロは彼らを批判することより、彼らの立場を理解し、真理を曲げることでなければ積極的に人々の立場に立とうとしたのです。知識をもって人を裁くより、愛をもって人の徳を建てようとしたのです。それは彼らが福音を受け入れることへの願いの故です。

そして、パウロは“福音のためにしています”と語っています。この手紙を書いている時においてもそうだと語っています。彼において福音のために自分の自由を人の奴隷となるように用いる歩みは現在進行形であったのです。

何故でしょうか。その理由をパウロは自分も“福音の恵みを共に受ける者となるため”だと言っています。

 パウロぐらいの人物なら福音の恵みをこれ以上受ける必要はないとも思われます。しかし、パウロはそれを願っているのです。これは福音を伝える者が受け取る報いのことです。

まずは、人々の救いが起こっていることへの喜びです。パウロにとって人々が救われることこそ福音の恵みを共に受けることだと理解できる言葉なのです。

福音を伝える者にとってこの世の中で得られる最高の喜びは人が救われることです。罪の中で苦しんでいる人々が福音を受け入れ、神様の子となるそのことは何という素晴らしいことでしょう。“死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから、食べて祝おうではないか”と喜ぶ父の喜びと同じ喜びがあります。この喜びを私たちも今年は体験したいと切に願っています。

そして、天で受けられる報いです。

福音のために自由を自制し、愛をもって歩んだものに対しては天での報いが約束されているのです。

“私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにもでも授けてくださるのです。”(第2テモテ4:7,8)

 2017年この新しい年にはぜひ私たちの教会もこの喜びを体験することができるように願います。そのために私たちは自由でありながらすべての人をイエス・キリストに導くためにあらゆる人のようになったパウロの姿勢を私たちも倣いたいと願います。知識だけではなく愛をもって、人をイエス・キリストに招く私たちでありますように。共に福音の恵みを受ける者となる今年でありますように一緒に歩みましょう。