今日は、クリスマスです。イエス・キリストの誕生を記念し、祝う日です。この喜ばしい日に皆さんと共に礼拝を捧げられることを嬉しく思っています。

誕生祝いというのは、普段親しくしている人同士で行う喜ばしいことです。

全く知らない人の誕生日をお祝いすることを普通はしません。

それなら、イエス・キリストの誕生を記念するこのクリスマスをお祝いすることは、イエス・キリストが私たちと親しい関係でなければならないということになります。一体イエス・キリストと私たちはどのような関係なのでしょか。それは、イエス・キリストが私たちのための救いであるということです。共に御言葉に耳を傾けましょう。

 

「羊飼いたちに喜びの知らせがあった」

今日の聖書箇所はイエス・キリストがお生まれになったのを一番早く知らせてもらった人が誰なのかが記されています。“さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです」”(8-10節)

 喜びの知らせを受けていたのは羊飼いたちでした。当時において彼らの社会的身分は決して高くないものでした。また彼らの仕事というのは、野宿をしなければならないものでもありました。つまり、家で寝ることがほとんどないということです。しかも、夜番をしながら羊を見守らなければならないのです。かなり大変な仕事だったでしょう。当時の人々において決して人気のある職業ではなかったと思います。

 彼らはいわゆるエリートではありませんでした。いや、社会中間層とも言えない人たちでした。このような人々の生活は豊かさとは距離があり、安定的な仕事でもなかったのです。暖かい布団はなく、風と露を防げる壁と屋根の囲いもなく、時には羊を狙う獣の危険もありました。

 この仕事のこう言った特徴は、なかなか安定的な生活が得られず、厳しい現実に惑わされながら生きている今日の多くの人々の姿だとも言えるのではないでしょうか。

 このような人たちに素晴らしい喜びの知らせがあったことは大きい意味を持ちます。

それは、社会的身分の低い者たちがまずこの知らせを聞くという恩恵を受けているということです。疎外されている人々もこの恩恵を受けることが可能だということです。むしろ、そのような人々がこの良き知らせを受ける中心的な者だということです。

国を治める支配者たちが先に恩恵を受けるのではありません。これは、支配者によって独占されるものではないのです。

 このことははるかに昔預言者イザヤによって言われていたことです。

“私の上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油そそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれた人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。”(ルカ4:18-19)

 救い主がお生まれになったという素晴らしい知らせが羊飼いたちにまず与えられたのはこの御言葉が成就される始まりであります。しかも、この知らせは例外がなく“民全体”に広がるものなのです。ここにいる私たちをも含め、すべての人に届く知らせなのです。

  

「あなたがたのための知らせである」

 民全体のためのすばらしい喜びの知らせが何であるかが次のように告げられています。

“きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。”(11節)

“きょう”というのは天使が現れているその日のことです。そして、その日に救い主がお生まれになったと告げられています。救い主は、捕らわれている者に、虐げられている人に自由を与えられるお方です。目の見えない者に目の開きを与えてくださるお方なのです。

この方は“主”です。つまり、すべての権力に勝る力の持ち主であり、万物を思いのままに支配される創造者だということです。“主”がなさろうとすることを誰も阻止することはできません。必ずそれを成し遂げるお方だということです。“キリスト”はメ“シヤ”とも言われますが、その意味は「油そそがれた者」です。特別な働きのために選ばれた者だということです。これは救い主であるお方がその働きのために神様によって特別に任命されたということです。

従いまして、救い主は神様によって遣わされる絶対的力の持ち主であるということです。

 “ダビデの町”というのはベツレヘムという町のことです。すでに神様によって預言されていた町からその方がお生まれになったということです。そして、当時のユダヤ人たちはこの救い主を心から待ち望んでいたのです。

この喜ばしい知らせが羊飼いたちに告げられているのです。

しかも、今その知らせを聞いている羊飼いたちをもそれに該当することが重要なのです。つまり“あなたがたのために”救い主がお生まれになったのです。

 いくら素晴らしい知らせであっても自分と関係のないものならどうでしょう。素晴らしい知らせの恩恵を自分は全く受けることがなく、別の人だけが受けるというならそれは素晴らしいけれど喜ばしいことにはなりません。

しかし、聖書は“あなたがたのために”と記しています。どれほど感謝な事でしょう。この知らせを聞いているあなたがたのためだと言っているのです。そして、同じくこの聖書の言葉を聞いている私たちにも当てはまるものなのです。わたしたちのために救い主がお生まれになったのです。

 所で、救われるということはどういうことでしょうか。聖書的な意味では私たちの罪が赦され、神様と和解できるということですが、実際の生活においてこれをどのようにして知ることができるでしょうか。多くの人々が思うように救われればすべての願い事が叶えられ、病気の痛み、経済的な困窮から解放されるということでしょうか。 

 自分自身のことを考えると救われたからと言ってすべてが願い通りになったと言えません。切に祈り求めたことが叶えられた時もありました。反面、叶えられなかった時も沢山あります。自分は救われていると信じていますが、自分の願いが叶うという視点に立つと、時には救われていて、時には救われていないことになってしまうのです。

それなら、救いとは何でしょうか。

それは、どのような状況においても自分を離れない、見捨てることのない絶対的な方がおられることが信じられることと言えるでしょう。救われた者にも喜びと共に苦しみ・悲しみがあります。しかし、そのすべてにおいて自分は守られていることを確信し、体験することができます。さらにすべてのことに感謝できる人生を歩めるようになるのです。救われた者は、この世のどの力より強い力の持ち主によって守られているからなのです。

 この素晴らしいお方が私たちのために救い主としてお生まれになったのです。この救い主を受け入れるために必要なものはありません。優れた知識も、金銭も、権力も、人々からの尊敬も必要ありません。必要なのは“私をお救いください”という祈りなのです。誰でもこの祈りはできます。言葉で言い表すことができなくても心の底からの願いとして祈ることも可能です。私たちのためにお生まれになった救い主イエス・キリストです。 

「見つける」

 羊飼いたちがこの知らせを受けたとしてもそれを確認しない限り自分たちにとって喜ばしいことかどうかはわからないままになってしまいます。

私たちのためにお生まれになった救い主イエス・キリストだと聞いても、それをどのようにして確認することができるでしょうか。

 “あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。”(12節)

“見つける”と記されていますが、これはその場所に行ってそれを見て確認するということです。確かめることができるということなのです。何を見て確かめることができるでしょうか。それは布にくるまっているみどりごを見つけることです。

ここで重要なことは“飼葉おけに寝ておられるみどりご”です。当時のベツレヘムには宿が足りないほど多くの人々が集まっていました。この時に生まれた赤ちゃんが何人かいたかも知れません。生まれたどの赤ちゃんも布にくるまっている筈です。しかし、しるしとなるのは“飼葉に寝ておられる”ということです。

普通は生まれた赤ちゃんをきれいな布にくるんで、気持ちの良いきれいな場所で寝かせます。誰も家畜小屋の飼葉おけに赤ん坊を寝かせようとは思いません。普通はあり得ないことです。

布にくるまっているからそのすべてが救い主となるわけではありません。救い主としてのしるしが示されているのです。このしるしを確認することができれば彼らも大いに喜ぶことができるでしょう。羊飼いたちはこの赤ちゃんを見つけることができたら自分たちが言われたことが事実であることを疑いなく受け入れることができるはずです。実際、この羊飼いたちは言われたとおりにその町に行って、それを確認するのです。(ルカ2:16,20) 

それなら、今の私たちはどのようにそれを確認できるでしょうか。

どこかの家畜小屋を見つけなければならないでしょうか。違います。

今の私たちに救い主がお生まれになったことのしるしとして与えられているのはこの聖書です。このように聖書を通して私たちのために救い主がお生まれになったことを聞いているのです。

聖書は大きく、昔からの約束という意味の旧約と新しい約束である新約に分かれていますが、この約束はすべて救い主キリストに関するものなのです。

従いまして、イエス・キリストが救い主であるという事実を見つけるためには聖書の言葉を聞かない限りできないのです。

他の多くの宗教には人に役立つ良き教えがあります。実際その中でいくつかは人に役立つものもあります。しかし、イエス・キリストが記されている本は聖書しかありません。救い主を見つけたいと願うなら、受け入れたいと願うなら聖書のことばを聞く必要があります。

 私たちにおいても、救い主としてお生まれになったイエス・キリストを見つけたいと思うなら聖書を読みましょう。そして、聖書を学びましょう。私たちが祈りの中で聖書の言葉に耳を傾ける時救い主イエス・キリストによる真の平安と喜びを頂くことができます。そして、このように喜びを言い表す時が来ます。

“いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に平和が、御心に叶う人々にあるように”(14節)

 

救い主がお生まれになったクリスマスの素晴らしい喜びの知らせは私たちのためなのです。聖書の言葉を通して常にそれを確認することができます。救い主であり、力ある神様の人を救うための特別なお働きのためにこの世に来られたイエス・キリストを信じる私たちでいられますようにと祈り願います。