イエス・キリストはバプテスマのヨハネによるバプテスマの後に、ガリラヤ湖を中心として神様の福音を伝えられました。そのメッセージは“時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。”(マルコ1:15)です。

そして、神の福音がもたらす自由と喜びを病人を癒し、悪霊を追い出す具体的なお働きを通して人々に示されたのです。

 今日の聖書はそのようなイエス・キリストのガリラヤ湖を中心とされた最初のお働きのまとめに当たります。ここにはイエス・キリストの忠実な働きの結果が記されています。私たちの歩みがイエス・キリストの忠実なお姿を倣って善い結果をもたらすものとなることを期待しながらみ言葉に共に耳を傾けましょう。

「イエス・キリストの働きに反発する者がいる」

 このイエス・キリストのお働きは多くの人に熱烈に歓迎されましたが、ある者たちには強い反発を買うことになりました。イエス・キリストのお働きに一番強く反発したのが、パリサイ人たちでした。

“そこで、パリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどのようにして葬り去ろうかと相談を始めた。”(3:6)

 これは、イエス・キリストが安息日に片手のなえた人を癒されたことに対して、パリサイ人たちが取った行動です。病気で苦しんでいる人を救うことには関心がなく、安息日を守るという形式だけに心がとらわれてしまい、イエス・キリストの行いがこの形式を無視したと考えていたのです。彼らはそれを自分たちの地位を脅かし、教えの権威を奪うこととして受け止めていました。そして、彼らは、本来なら手を組むことを考えられない人々、つまり、ヘロデ党といっしょにイエス・キリストを葬り去ろうと計画を立てたのです。

 もし彼らが神様の律法を守るようにと教える真のリーダーであるならばイエス・キリストのお働きを熱烈に歓迎すべきでした。自分たちにはできないことがイエス・キリストを通して行われているからです。苦しんでいる人々が助かっているからです。共に喜ぶべきはずです。真のリーダーであるならばそうであったはずです。しかし、彼らはこの喜びを示していないです。むしろ、憤慨をしているのです。パリサイ人たちのこのような姿はなかなか理解に苦しむところですが、イエス・キリストの忠実なお働きによって彼らの妬みが明らかにされています。

パリサイ人たちは妬みを明らかにしてさらにイエス・キリストを殺そうと企んでいたのです。

 これはイエス・キリストがパリサイ人のように形式的な事柄に捕らえられることなく、忠実に神様の御心に叶うお働きをされたからです。

 今日の日本において、パリサイ人たちのようにイエス・キリストに対する敵対感を示されることはあまり経験しないことです。その反面、イエス・キリストの福音に従う人たちも少ないのですが、、、。

もちろん、クリスチャンとしての生き方が、必ず人々に嫌われなければならないということではありません。ここで大事なことは、どれほどまっすぐに神様の御心に叶う生き方を示しているかということです。つまり人の反響を気にしてその都度その都度姿勢を変える生き方ではないということです。時には人から反発を買うことも、時には多くの人々から歓迎されることもあるかもしれません。しかし、そのようなことに左右されることなく、示すべきものを示す生き方がイエス・キリストが見せておられるのです。

 年の終わりを迎えるこの時期、私はどれほど福音の真理をはっきり示して来たかが問われる思いがします。今年も残りわずかですが、私自身の歩みを反省するととともにイエス・キリストの福音をより明白に示す者とならなければという心になっています。教会の皆さんも同じくそれぞれの歩みを振り返り、さらに福音を示す歩みをされるようにと願います。 

「イエス・キリストを求める多くの者がいる」

パリサイ人のようにイエス・キリストを葬り去ろうとする人達もいましたが、多くの人はイエス・キリストを求めて近づいてきたのです。

“それから、イエスは弟子たちとともに湖のほうに退かれた。すると、ガリラヤから出て来た大勢の人々がついて行った。また、ユダヤから、エルサレムから、イドマヤから、ヨルダン川向こうやツロ、シドンあたりから、大勢の人々が、イエスの行っておられることを聞いて、みもとにやって来た。”(3:7-8)

これらの地域はバプテスマのヨハネを求めて来た人々の地域と比べるとより広範囲であることが分かります。ヨハネに対しては“ユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼の所へ行き”(マルコ1:5)と記されています。

しかし、イエス・キリストに対してはそれら以外の地域が記されています。

イドマヤという場所はユダヤの南のほうです。エルサレムから南に数十キロ離れています。

ツロとシドンというのはガリラヤ湖北西部の海岸地域です。ここは異邦人の場所でもあります。シドンの出身として有名な人はイゼベルです。彼女はイスラエルの王アハブの妻でしたが、イスラエルを偶像礼拝の罪に走らせた当本人です。神様の預言者エリヤを殺そうとしたのも彼女です。

 イエス・キリストの働きはより広く、遠くの人々にまで届きました。そして、ユダヤ人だけではなく異邦人にも伝わったのです。そして、多くの人々がイエス・キリストのみもとに来たのです。

“イエスは、大勢に人なので、押し寄せて来ないよう、ご自分のために小舟を用意しておくように弟子たちに言いつけられた。それは、多くの人をいやされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押しかけて来たからである”(3:9-10)

 あまりにも多くの人々がイエス・キリストのみもとに来たので、押しよせることでけがなどをしないようにイエス・キリストは小舟を用意しなければならないほどでした。

ここで、イエス・キリストのみもとに来ていたのは誰だったでしょうか。

それは“病気に悩む人たち”でした。イエス・キリストのなされたことは広い地域の多くの人々に伝わりました。しかし、そのすべてがイエス・キリストのみもとに来たわけではありません。“病気に悩むひとたち”でした。

“多くの人がついて来たので、彼らをみないやし”(マタイの福音書12:15)たと記しています。

病気に悩む人たちの中で、イエス・キリストのみもとに来た人はみないやされたのです。これは、イエス・キリストの忠実なお働きによってご自分のもとに来た人々すべてが必ず助けられたということです。

そして、彼らは“イエスの行っておられることを聞い”たのです。必ず助けられることを聞いたのです。

イエス・キリストの忠実なお働きは病気で悩むすべての人々に希望を与えられました。この希望のゆえに彼らは病人でありながらも遠く険しい旅路をしてイエス・キリストのみもとに来たのです。異邦人でありながらもありうる差別への恐れを乗り越えて、イエス・キリストのみもとに来たのです。

 もし、「イエス・キリストのみもとに行けば助かるかも知れない」だけのうわさでしたら、これほど多くの人々がイエス・キリストのおられる場所まで来ようとはしなかったでしょう。

しかし、イエス・キリストは忠実に働かれました。重要なのは安息日ではなく人間であることを教えられました。それが神様の御心であることを明らかにしてくださいました。

人々から嫌われる取税人や罪人たちとも交わりました。共にお食事をされました。それを通して、彼らを救うために来られたことをはっきりと示されたのです。神様はいけにえより憐れみをより大事にされることをも明らかにしてくださいました。これらのことはパリサイ人の働きとは全く違うものでした。イエス・キリストは神様の御心を忠実に行いました。このようなイエス・キリストのお働きは苦しみの中にいる人々にどれほど大きい喜びを与えたでしょう。

 私たちもイエス・キリストの忠実なお働きによって救われた者です。そして、イエス・キリストは今も生きておられます。ご自分が行われた忠実なお働きを私たちに託してくださったのです。

私たちにはイエス・キリストのように忠実に神様の御心に叶う歩みをする責任があります。それは、悩んでいるすべての人々にイエス・キリストの福音を伝えることです。そして、距離的に遠くいる人にも、心的に遠くいる人(イスラエルにとって異邦人のような人々)にも忠実に福音を伝えなければなりません。なぜなら、イエス・キリストの福音は彼を求めるすべての人を救うことができる神様の力だからです。

“私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です”(ローマ書1:16)

 イエス・キリストは過去も今も未来にも忠実なお方です。信じるすべての人に救いを与えられるお方です。苦しむ人々に喜びと平安を与えてくださるお方なのです。その人がイエス・キリストを信じれば必ず助けてくださるお方なのです。このイエス・キリストを私たちも忠実に伝える者であり続けたいのです。 

「神様の時を待つお働きである」

 今日の聖書で私たちからすると少し首をかしげるような箇所があります。

まず、7節の“退かれた”という言葉です。イエス・キリストが湖に行かれたではなく“退かれた”と記しているのです。その理由は、パリサイ人たちとヘロデ党の人たちがイエス・キリストを葬り去ろうという企みをイエス・キリストが知ったからなのです(マタイ12:15)。

 一見、イエス・キリストが彼らを怖がって逃げたようにも見えますが、それは違います。イエス・キリストが十字架の死を受け入れることから決して死を恐れるお方ではないことが分かります。

それなら、彼らに立ち向かう力がなかったからでしょうか。それも違います。

“わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでもおもうのですか”(マタイ26:53)と語られたように、イエス・キリストは彼らを退ける十分な力をも持っておられるお方でした。しかし、その後イエス・キリストはこのように語られました。

“たが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。”

イエス・キリストは力がないからではなく神様の時に、神様のみ言葉が実現されることのためにこうなさったのです。

 もう一か所私たちに疑問を与えるところがあります。

“また、汚れた霊ともが、イエスを見ると、みもとにひれ伏し、「あなたこそ神の子です」と叫ぶのであった。イエスは、ご自身のことを知らせないようにと、きびしく彼らを戒められた。”(3:1112)

 悪霊たちがイエス・キリストに対して“あなたこそ神の子です”と叫びましたが、イエス・キリストはそれを言わないように厳しく戒められたのです。

“あなたこそ神のこです”ということばは本当に正しい知識ですし、イエス・キリストとご自身も喜ぶ告白なのです。ペテロの“あなたは生ける神の御子キリストです”(マタイ16:16)に対して、イエス・キリストはその信仰告白の上にご自身の教会をたて上げると約束されました。なのに、これを人々に知らせないようにと戒めておられるのです。 なぜこのようにされたでしょうか。その後の出来事からその理由が分かります。

 つまり、イエス・キリストは人々がご自分のことを誤解しないように注意をしておられたのです。弟子たちでさえ、イエス・キリストのことを自分たちが思い描いていた方として受け入れていたのです。他の人々は言うまでもないことです。

 特に悪霊につかれていた人々が叫ぶ“あなたこそ神の子です”という言葉は、それを見た人々にイエス・キリストが単なる悪霊を追い出す方としての認識しか与えられない可能性が大いにありました。病気を癒されることにおいても同じ可能性があったのです。

 しかし、イエス・キリストは人々の思いや期待によってご自分の存在が明らかにされることを許されませんでした。ただ、神様の時に、神様のご計画に従ってそれが明らかになることを願っておられました。

 イエス・キリストはご自分に敵対する者たちに立ち向かう十分な力がございました。そして、いつでもご自分のことを明らかにすることもできるお方でした。しかし、そうされずに、神様の時、ご計画を待っておられるお方でした。それを待つには、人々の嘲りや避難を受けることもありました。いのちが脅かされる時もありました。死を怖がる弱い者のように誤解される可能性もありました。

 しかし、どのようなことにおいてもイエス・キリストは神様の時を持っておられました。神様の御心が行われることに従い忠実に働かれました。そして、それによって神様から“すべての名にまさる名を(ピリピ2:9)”与えられ、“すべての口がイエス・キリストは主であると告白し、父なる神がほめたたえられる(ピリピ2:11)”ようにされたのです。

 

 イエス・キリストは強い反発を受けました。一方、多くの人から歓迎をも受けました。悪霊さえイエス・キリストを認め、騒ぎました。しかし、イエス・キリストは神様の時を待ちながら神様の御心を行うことだけの忠実なお働きをされました。

今年も私たちは忠実なイエス・キリストのお働きによって、その深い恵みによってここまで歩んで来られました。このことへの大きい感謝を捧げましょう。そして、イエス・キリストの忠実なお働きの姿勢を倣い、これからも共に歩みましょう。私たちの忠実な歩みは時には人から反発を買うことも、時には歓迎されることもあるでしょう。しかしそれらのことに一喜一憂せず、神様の時が来て、神様がほめたたえられる善い結果が与えられる期待をもって歩み続けましょう。