安息日は神様が人間のために設けられたもの。これが安息日の真の意味です。

しかし、イエス・キリストがおられた当時のパリサイ人たちはこのことが分からなかったのです。それゆえ、安息日にしてはならない39の定めを設け、それを守らない限り安息日に対する神様の命令を犯すことになると強く主張していました。このパリサイ人とイエス・キリストのやり取りの中でイエス・キリストが教えられる安息日の真の意味と、日曜日(主日)礼拝を守っている私たちの持つべき姿勢を御言葉から聞きたいと願います。

 

「安息日への誤った考え方」

 まず、当時のパリサイ人の安息日に対する考え方はどうだったのでしょうか。

イエス・キリストと弟子たちは麦畑の中を通るようになり、途中で弟子たちが麦の穂を摘んで、手でもんで食べました。弟子たちはお腹がすいていたからです。

当時において他人の畑で穂を摘んで食べるという行為自体は何の問題もないことでした。むしろ行為そのものよりこれを行った「時」が大きい問題となりました。弟子たちが行ったことに対してのパリサイ人の言葉にそれがよく表れています。

“ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日なのに、してはならないことをするのですか”(2:24)

 問題は、安息日に弟子たちが麦の穂を摘み、手でもんで食べたということなのです。

パリサイ人たちは麦の穂を摘んだことを収穫したとして、手でもんだことを脱穀として見なしているのです。

律法には種蒔きや収穫の時期であったとしても安息日に働くことを禁じていました。

それなら、弟子たちの行動を安息日に関する命令を犯したと言えるのでしょうか。

これに関してイエス・キリストはこのように語られています。

“ダビデのその連れの者たちが、食物がなくてひもじかったとき、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。アビヤタルが大祭司のころ、ダビデは神の家に入って、祭司以外の者が食べてはならない備えもパンを、自分も食べ、またともにいた者たちにも与えたではありませんか”(2:25,26)

 ダビデに関するこの話は旧約聖書の第1サムエル記21章に記されています。サウル王に追われて逃げ回っていたダビデは三日間何も食べられず、食物を求めて祭司の所に行きました。そこには、祭司しか食べることのできない供えのパン(これは安息日毎に新しいパンに代えられていたので、新しいパンと代えられた古いパンです)がありましたが、祭司はそのパンをダビデに与え、ダビデはそれを食べ、いっしょにいた者たちにも与えたのです。

 文字通り考えればこれは律法を犯した行為です。しかし、イエス・キリストはそのようには理解しておられません。

むしろ、弟子たちが行ったこともダビデが行ったことと同じであることを強調しておられます。弟子たちもお腹がすいて空腹を満たすために行ったことであって、それが律法を犯す行為には当たらないことだとおっしゃっているのです。

その理由を次にこう説明されています。

“安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。”(2:27)

 この御言葉からだと、安息日であっても人間の基本的な必要を満たすための行為は認められると考えられます。

安息日だからと言って食べることまでしてはならないのだというのは文字通りの解釈です。それなら安息日には誰も食事をしてはならないことになります。

 パリサイ人たちは安息日をこのように文字通り守ることへの固執を捨てなかったため、多くの人々を苦しめていたのです。これはまるで人が安息日を守るために生きなければならないという考え方なのです。

 しかし、イエス・キリストは安息日に対して、このような考え方は間違っていることを教えておられるのです。それは、後に会堂において片手のなえた人を安息日に癒された場面においても明らかにされています。

イエス・キリストはこのように語られました。

“安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。”(3:6)

 この問いに対する答えは明らかです。それは言うまでもなく善を行い、いのちを救うことを実践することなのです。

人間が安息日のために造られているのではなく、人間のために安息日が設けられていることをより明らかにしてくれるのです。

 

「イエス・キリストは安息日にも主である」

 それでは、イエス・キリストは何故このように言えるでしょうか。

“人の子は安息日にも主です”(2:28

「人の子」はイエス・キリストご自身を指す言葉なのです。つまりイエス・キリストが安息日の主であり、イエス・キリスト抜きでは安息日を真の意味とその恵みをいただくのができないことです。このことは最初に安息日が設けられた聖書の御言葉を通してより明らかになります。

まず、創世記2:1-3に安息日のことが記されています。神様は六日間すべての万象をお造りになった後、七日目にすべてのわざの完成を告げ、休まれましたと記されています。

“神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それはその日に神がなさっていたすべての創造のわざを者生まれたからである。”(創世記2:3)

神ご自身が休まれたのは、創造のわざが完成したからなのです。これ以上の働きをしなくても良いということです。完成されたからです。それで神はこの日を祝福し聖であると、特別に区別されたのです。安息日はこの創造主となる神様を認めるために設けられたのです。私たちが祝福され聖なるものであることを覚えさせるために設けられたのです。

 聖書のもう一か所を読んでみましょう。申命記の513-15ですが、15節にこう記されています。

“あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったことと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。”(申命記5:15

 ここでは、神様がイスラエルをエジプトの束縛から救い出してくださったことを覚えるために安息日を守るようにと命じられているのです。救い主は神様であることを覚えるために安息日を守るのです。

 イスラエルの人々はこの出来事を覚えるために安息日を守ることが命じられていました。しかし、長い時間とともに彼らは本来の神様の安息日に対する意図を忘れてしまい、文字通りに安息日を守ることだけに心がとらわれていたのです。安息日は、神様の創造と救いを覚えるための形式であったのに、彼らは形式にこだわり過ぎてしまったのです。形式的な彼らの生き方に対してイエス・キリストはこのように語られました。

“わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。お前たちははっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。”(マタイ23:23

 しかし、イエス・キリストはご自分が罪を赦す権威をもっている神であることを教えられました。そして、安息日を設けられた神様の本来の目的・意図が何であるかご自分の権威をもって教えられていたのです。

 このことは私たちにも密接に関連しているのです。

それは私たちは安息日を守っているのではありませんが、イエス・キリストが復活された週の初めの日、日曜日(主日)を守っているからです。安息日でも主日でも求められることは同じです。神様の創造を覚え、罪からの救いを覚えることです。ですので、私たちは感謝と喜びの心をもって礼拝を捧げているのです。

 ここで礼拝を捧げている私たちは神様が私たちをどれほど愛されているかを知っています。そして、神様の求められる生き方が何であるかをも知っているのです。

しかし、私たちも昔のイスラエルのパリサイ人のように、形式的な事柄に心を奪われる弱さを持っています。そして、礼拝を捧げる喜びより、礼拝を守れたという達成感もしくはプライドが先立つこともありうるのです。そして、人の行動に対して憐れみと愛をもって考えるのではなく、礼拝に出席するかしないかだけで判断をすることもあり得るのです。

 安息日にも主であるイエス・キリストは“安息日は人間のために設けられたのです”と語られました。私たちもこの理解をもって共に礼拝を捧げる者でありつづけましょう。

 

「安息日には善を行うことを積極的に」

 イエス・キリストは別の安息日に会堂に入られました。

そして、その会堂の中には片手のなえた人がいました。パリサイ人たちはイエス・キリストとこの人に関心を注いでいました。彼らが関心を示しているのは片手のなえた人に対するものではなく、イエス・キリストが癒しの働きをされるかされないかに対するものでした。彼らは安息日に病人を癒してはならないと人々に教えていましたので、イエス・キリストが病人を癒すと安息日を守らなかったと非難するためでした。

 ひどい話です。彼らは病気で苦しんでいる人に対しての同情やあわれむ心ではなく、その人になさるイエス・キリストの行動が安息日にしてよいかどうかにすべての関心を示しているのです。

このような彼らにイエス・キリストがこう問われました。

“安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。”(3:6)

この問いに対してパリサイ人たちは黙って何も答えなかったのです。恐らく彼らも何が良いことかを知っていたからでしょう。しかし、彼らは自分たちの正当性を否定されないように黙っているのです。このようなかたくなな彼らの心にイエス・キリストは怒られました。

 パリサイ人たちは安息日には何もしないという守り方をしていたのです。してはならない多くの事柄を細かく決め、それにそって人々を束縛し、ましてはメシアであるイエス・キリストをも裁こうとしていたのです。

自分たちの正しさがすべての人に勝っていると大いに勘違いしていたのです。それゆえかたくなな心を変えることができなかったのです。

 イエス・キリストは安息日にこの片手のなえた人を癒されました。安息日は人間のためにあるということを自ら示してくださったのです。

安息日を守ることは、「何もしない」という消極的な事ではありません。むしろ、神様の目的・意図に叶うことを積極的に行うことなのです。

同様に、私たちが礼拝を守るということは、礼拝を捧げることにとどまらず、より積極的に神様の御心を行うためにあります。これは必然的に私たちの日々の生活と密接なかかわりを持っているのです。そして、それは私たちと関係しているすべての人々に対する姿勢として求められることなのです。

 日曜日(主日)に礼拝は私たちの日々の歩みにおいて、イエス・キリストが主であり、救い主であることを認める出発点とも言えます。礼拝を通していただいた恵み、喜びを他の曜日の歩みで分かち合い、行って行くことです。それに私たちの礼拝の真の意味があり目的があるのです。

 イエス・キリストが安息日に善を行い、いのちを救うようにと教えられたように私たちにおいてもこのことが行えるように祈り求めていきましょう。