今日はアドベント第2週の礼拝です。アドベントはメシアがこの世に来られることを待ち望むことを意味します。イエス・キリストはメシアとしてこの世に来られました。それがクリスマスなのです。現在の私たちはキリストが再びこの世に来られることを待ち望んでいるのです。

 イエス・キリストがこの世に来られたのは人々を救うためです。そして、再び来られるのはこの救いを完成させるためなのです。アドベントの期間はこのようなイエス・キリストの到来の意味を深く考え、その恵みに感謝し、喜ぶ時間として過ごしたいと願います。このようなことはクリスチャンとしての相応しい生き方について、改めて考える機会を与えているとも言えます。

 イエス・キリストの到来がもたらす新たな生き方が今日のみ言葉に記されています。それは、喜びが満ち溢れること、イエス・キリストが人生のすべてであること、イエス・キリストの恵みを願い続けることであります。このような生き方ができることへの期待をもって今日のみ言葉に共に耳を傾けましょう。

 

「喜びに満ち溢れる生き方」

 イエス・キリストは多くの罪人や取税人たちと共に食事をしておられました。それを見て、人々がイエス・キリストにこのように尋ねました。

“ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか”(18節)

 バプテスマのヨハネの弟子たちとパリサイ人は断食の習慣を持っていたのです。彼らはよく断食と祈りをしていました(ルカ5:33)。習慣として断食をしていた彼らからみると断食をしないイエス・キリストと弟子たちが異常な者のように見えたのです。彼らにとっては気に入らない、批判すべき行動であったのです。

 この問いに対してイエス・キリストは婚礼の場を例えとしてこう語られました。

“花婿が自分たちといっしょにいる間、花婿に付き添う友だちが断食できるでしょうか。花婿といっしょにいる時は、断食できないのです。”(19節)

 ここで花婿とはイエス・キリストご自身のことを指します。付き添う友だちはイエス・キリストに従う人々のことです。

花婿の友だちが花婿といっしょにいる時は悲しむのではなく喜ぶのです。それと同様にイエス・キリストに従い、イエス・キリストと共にいる人々は喜びに満たされているのです。

 しかし、次にこのようにおっしゃいました。

“しかし、花婿が彼らから取り去られる時が来ます。その日には断食します。”(20節)

 これはイエス・キリストの受難を予告する言葉です。一時的でありますが、イエス・キリストが人々から離れる時が来るので、その時には断食をするということです。悲しむのです。

 断食をするかしないかはイエス・キリストが共におられるかおられないかによるのです。そして、イエス・キリストが共におられる時はその必要がないということなのです。

特に、ここではバプテスマのヨハネの弟子たちとパリサイ人がなぜ断食をしないのかとイエス・キリストに対する批判をしていた点から、イエス・キリストと共にいる者の喜びが強調されると思えます。

 実際、イエス・キリストは多くの病人を癒し、人々を苦しめていた悪霊を追い出しました。イエス・キリストによって彼らは癒され、自由になり、今までの苦しみから解放された喜びに満ちていたのです。そして、この食卓はこのような喜びの満ち溢れる交わりなのです。イエス・キリストが共におられることによって与えられた喜びの時なのです。

 聖書は神様の喜ぶ断食をこのように記しています。

“わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。”(イザヤ58:6-7)

 このみ言葉によると断食そのものより、つまり食べるか食べないかのことより大事なことがあるのが分かります。断食をするかしないかより神様の望む生き方をしているかがより大事であるということです。つまり、律法の文字通りの実践ではなく、律法の本来の目的を知り行うことなのです。

 イエス・キリストがこの世に来られた目的はまさにこのことなのです(ルカ4:18-19,21)。まさに花婿と共にいる人々のような喜びを、ご自分に従う者に与えられるのです。この喜びがイエス・キリストが来られたことによって私たちに与えられているのです。そして、イエス・キリストは私たちから離れることなく今も共におられるのです。従いまして、私たちは喜ぶことができるのです。この喜びを日々体験する私たちでありますように。

 

「イエス・キリストが人生の主である生き方」

“だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、新しい継ぎ切れは古い着物を引き裂き、破れはもっとひどくなります。”(21節)

 真新しい布切れはイエス・キリストが来られることによって与えられた福音であり、古い着物は律法を人間的思いによって解釈し文字通りの適用を固執するユダヤ教の教えだと言えます。

これはイエス・キリストの福音による生き方とそうではない生き方との対照であります。

真新しい布切れを古い着物の継ぎにするというのは、古い着物の修繕のために真新しい布切れを使うということです。つまり、イエス・キリストを信じない人生をより良い物にするためにイエス・キリストの福音を用いることとも考えられます。福音の手段化と言えるでしょう。

 これは、自分が正しいと思う人生、歩みたい人生のために、イエス・キリストが役に立つだろうという思いで、イエス・キリストに興味を示す人々の生き方です。

先週F先生の説教の中にもありましたように、良い話を聞けるならばお寺でも教会でも構わない、それで自分の人生がより豊かになるなら快くイエス・キリストのことにも興味を持つということです。

 自己実現という言葉があります。私たちの生きているこの時代は今までのどの時代より自己実現という考えが強いのではないかと思います。

この自己実現とは何かをこのように定義したものがありました。

人間の欲求のうち最も高度であり,同時に最も人間的な欲求として,自己の内面的欲求を社会生活において実現すること。アメリカの心理学者 A.マズロー 1954年に欲求5段階説を発表しました。人間には下位から順に生理的欲求,安全への欲求,社会的欲求,自尊欲求,自己実現欲求がある。’

 福音を、イエス・キリストを自分の内面の欲求を満たすために、自己実現のために用いることをたまに耳にすることがありますが、私たちはどうでしょうか。

 真新しい布切れを古い着物の修繕に用いる者は誰もいないとおっしゃったのです。自己実現のためにイエス・キリストを手段とするのはしてはならないことなのです。

 むしろ、聖書は私たちに対して“キリストを身に着た”(ガラテヤ3:27)と記しています。

これは私たちが全人格を用いてキリストを受け入れる必要があるということを意味します。キリストが私たちの自己実現のための手段ではなく、目的であり全てであることを意味するのです。

 キリストは私たちの人生の主人です。

私たちはこのようなことを行っていないでしょうか。むしろ自分の認識していないうちにしてきたかもしれませんし、もしかしたら続けているかもしれません。しかし、キリストはだれもそのようなことはしないと語られました。

 願わくは、イエス・キリストを私たちの人生の主であることを認めつつ、自分の人生をより良いものとするための手段としないように心掛けましょう。キリストを古い着物の継ぎとして利用してはならないのです。

「イエス・キリストの恵みを願い続ける生き方」

イエス・キリストはこう語られます。

“また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです”(22節)

 新しいぶどう酒の‘新しい’というのは今まではなかった新しいものを意味します。これはイエス・キリストがあらわれたことやそれに伴う新しい時代を意味します。

 新しい皮袋の‘新しい’は本質が変わって新しくなったという意味です。

この‘新しい’という言葉は“だれでもキリストのうちにあるならその人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。”(第2コリント5:17)

において使われている言葉と同じです。従いまして、イエス・キリストによって新しくなった人々や価値観と言えます。

 イエス・キリストは今までこの世にあらわれた人々とは全く違う新しい方です。何より人でありながら救い主だったのです。イエス・キリストの教えは権威のある、新しい教えでした。それは人々を驚かせました。

この驚きは二つの反応となって表れるのです。キリストを自分たちの立場を脅かすとものとして視る者となるか、従う者となるかです。

 そして、この新しい方を受け入れることができるのは、従う者であります。

従う者は、以前とは本質的に変えられているのです。

以前は“自分の罪過と罪との中で死んでいた者”でした。“罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って歩んで”いました。私たちはみなかつては“不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように生まれながら御怒りを受けるべき子らでした”(エペソ2:1-3)

私たちクリスチャンはかつては自分がどういう存在であったかを良く知っている者なのです。そして今は、キリストによってどのように変えられたかをも良く知っているのです。つまり、自分の罪とキリストの恵みを知っているのがクリスチャンです。

そして、この二つのことに対する思いは日々新しくなっています。つまり、私がどれほど罪深い者であるかについてとそれをはるかに超えるキリストの恵みの深さに対する知識や思いは日々新しくなっていくのです。それゆえ、私たちは何よりキリストの恵みを切に求め続ける者として生きるようになります。

 私たちはこの新しい皮袋のように根本的に新しくなっているでしょうか。それなら私たちは常にこのように祈っている者でしょう。(エペソ1:17-19)

神様をもっと知るように知恵と御霊を豊かに与えてください。’

‘神の召しによって与えられる望みが、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか知るようにしてください。’

‘信じる私たちに働く神様の力がどのように偉大なものであるかを知るようにしてください。’

このように祈る私たちに神様はしっかりと答えてくださいます。そして、新しい者として歩み続けさせてくださいます。

 

 キリストが来られることによって私たちは喜びに満ち溢れる者となり、キリストが私たちの生きる目的となり、キリストの恵みを求め続ける者へと変えられていくのです。そして、これには神様の祝福が約束されているのです。このアドベントの期間、各自がこのことを深く考え、その素晴らしい恵みを喜びましょう。