【アドベントのこの時期に】

 

今日の日曜日からアドベントが始まります。

日本語では「待降節」と書き、「たいこうせつ」と読みます。

「アドベント・待降節」は、キリストのご降誕(誕生)を待ち望む期間として、教会の歴史において長い間守られてきた習慣です。

イエス・キリストは、歴史的には約2千年前にお生まれになりました。

しかし私たちは、心の中で改めてイエス・キリストのご降誕を思い起こし、クリスマスを待ち望みながらこの時を過ごしていくということです。

これがアドベント・待降節の意味なのです。

 

ある日本の会社が「クリスマスの過ごし方」というアンケートを取り、その結果を発表しています。

それによると、日本人のクリスマスの過ごし方は、一番多い順からこのようになっているそうです。

1,家でゆっくり過ごす。

2,イルミネーションを見に行く。

3,ホームパーティーをする。

4,仕事をする。

5,温泉に行く。

6,国内の旅先で過ごす。

7,レストランで食事をする。

8,特に予定はない。

9,海外旅行に行く。

10,イベントに参加する。

11,ショッピングに出掛ける。

12,教会に行く。

何と、「教会に行く」というのは12番目、最下位に来ていました。

私たちはこの事実をどう受け止めたらよいのでしょうか?

この最後の「教会に行く」という順位がもっと上になるように私たちも祈り取り組みたいですね。

 

実は今日、私は都先生のピンチヒッターとして、ここに立っています。

都先生はお母様にイエス・キリストのことを伝えるために韓国へと帰国されました。

今のアドベントのこの時、いや、いついかなる時も、私たち人間にとってそれが一番大切であるということを伝えるために、お母様のところに帰って行かれたのです。

その都先生から昨日、私たちにメールが届きました。

お母様がイエス・キリストを救い主として信じることができた、と。

何と言うグッドニュースでしょうか、何と嬉しい神様からのクリスマス・プレゼントであることでしょうか。

 

【キリストのほか救いなし】

 

今日、私たちが開いている聖書箇所は、これまで申しましたことに深く関係する御言葉です。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」

 

「この方」とは、イエス・キリストのことです。

「この御名」とは、イエス・キリストというお名前のことです。

「世界中、どこにおいても、イエス・キリスト以外に救いはない」と言うのです。

何という大胆な発言であることでしょう!

いったい誰がこのような大胆な言葉を語ったのでしょう?

 

実は、この言葉は主イエスの12弟子の一人、ペテロが語った言葉です。

どのような状況において、この言葉は語られたかと言いますと、次の通りです。

それは、主イエスが十字架にかかり、復活され、聖霊が降ったその後に起こった出来事なのです。

 

主イエスの弟子ペテロとヨハネは、神に祈りを捧げるためにエルサレム神殿へと出かけました。

ところが神殿の「美しの門」と呼ばれるところに、生まれつき足のきかない男性がいたのです。

その男性は、そこに座り、神殿にやって来る人々から、物乞いをしながら生活していました。

ペテロとヨハネがやってくると、その男性は、いつものように施しを求めたのでした。

それに対して、ペテロとヨハネは答えました。

「私たちを見なさい。」(3:4

「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」(3:6

すると、その男性はたちどころに癒されて、立って歩くことができるようになったのです。

そして、その奇跡の出来事を見た人たちが5千人もイエス・キリストを信じるようになった。

まさに神様による奇跡が起こったのでした。

 

しかし人々がその奇跡に驚き、大騒ぎとなったので、当時の官憲は二人を逮捕したのでした。

そして留置場にぶち込んでしまった。

翌日、そのことを巡って、エルサレムでの議会が開かれたのです。

その議会は「サンヒドリン」とも呼ばれていたのですが、約70人のユダヤの代表者が集まって事柄を相談したり決めたりする、当時最高の権威を持った決定機関でした。

今の日本は三権分立であり、司法(裁判所)、立法(国会)、行政(政府)は分かれて機能しています。

しかし、当時のサンヒドリンは、この三つの機能が一つに束ねられていたような組織でした。

そのエルサレム議会の前にペテロとヨハネは引き出されて、尋問を受けたのでした。

 

その尋問を受けながら、その時にペテロが答えた言葉が、実にこの御言葉なのです。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(4:12

 

この言葉は果たして本当なのでしょうか、どこまで普遍妥当性があるのでしょうか?

聖書には、このように記されています。

「彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。」(4:13

口語訳聖書では、「無学な、ただの人たち」と訳されています。

ガリラヤ湖の漁師出身です、無学です、ただの人、なのです。

そのような人たちの言葉をどこまで信じることができるのでしょうか。

しかし、「使徒の働き」241節では、すでに3千人の人々が信じたと記されています。

更に、今日の聖書箇所、「使徒の働き」44節では、5千人の人々が信じたと記されています。

そして、その後の約2千年の歴史を通じて、この言葉を信じた人々は数限りがありません。

そして今や、世界の人口の約三分の一は、そのことを信じて生きるクリスチャンとなっているのです。

その事実を知らされる時、この言葉は神が語らせて下さった、聖霊が語らせてくださった、としか言いようがありません。

ペテロとヨハネは、ただ神の口となって、神ご自身の言葉を語ったのである、ということです。

実は、その事実を聖書は、はっきりと記しているのです。

「ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った」(4:8)、と。

 

ペテロとヨハネが聖霊に満たされて語った言葉、まさに神ご自身の言葉である、この御言葉に私たちは今朝、心を結びつけたいと思います。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(4:12

 

【この日本とキリストを信じる私たちの信仰】

 

私はこの日本の社会においてイエス・キリストとその救いを伝えるということは本当に大切なことであるといつも思わされています。

かつて北海道の室蘭で開拓伝道に取り組んでいたときのことです。

ある中年の男性が教会に通い始め、とても熱心に説教に耳を傾けるようになられました。

それは、神学校を出たばかりの新米の牧師にとっては本当に、感激であり、嬉しいことでした。

それこそ私は命がけで説教を準備して、語り続けました。

ある日の礼拝後、その方と談話をする機会があった時に、その方は言われました。

「先生の説教は素晴らしいですね」

私は、説教のための隠れた労苦が報われた気がして嬉しくなりました。

しかし、その方の次の言葉で大きなショックを受けてしまいました。

「私はこの教会だけでなく、お寺さんにも通っています。

教会さんでも、お寺さんでも、役に立つ良い話が聞けて、とてもありがたいです」

私は目の前が真っ暗になったような気がしました。

私が命がけで説教していることは、一体何だろうか。

聞く人にとっては、教会でもお寺でも、どちらでも構わないような話しなのだろうか。

役に立つ良い話しであれば、どこで語られようと、聞かれようと、構わないのだろうか。

私はとても悩み、深い葛藤を味わいました。

そして、しばらく悩み苦しむ時期を過ごしましたが、とうとう結論に至りました。

教会の説教と他の宗教における説教との違いがあるとすれば、それは何であろうか。

それはイエス・キリストである!

イエス・キリストを語るかどうか、キリストがあるかないか、これこそが違いである。

そしてそれ以来、キリストを宣べ伝えることこそ教会の使命であると確信して今まで歩んで来ました。

その確信は今に至っても全く揺らぐことはありません。

 

それに続き、その後にまた、その確信を一層強める体験が与えられました。

1977年~80年にかけて、私は家族を伴い、アメリカに留学しました。

哲学のクラスを受講していた時のことでした。

教授であるドクター・リード(元牧師)が、私たち学生に質問を投げかけてきたのです。

「皆さん、キリスト教のユニークな点は何だと思いますか?」

学生たちは次から次へと手を上げて答えて行きました。

「愛の宗教です」、「啓示の宗教です」、「賛美です」、「祈りでしょう」、「慈善だと思います」。

ドクター・リードは、首を横に振り続けました。

そして、答えが尽きてしまったのを見て、片手を高く上げ天を指さし、大声で言いました。

「ジーザス・クライスト!!!」

今でも、私はその時のことを忘れることが出来ません。

イエス・キリストこそ、キリスト教の最もユニークなところであるということです!

まさに初代教会は、このイエス・キリストを信じ、宣べ伝えることによって形成されていったのです。

そしてこの2千年にわたる歴史において、その信仰と確信は受け継がれ、今の私たちにも至っているのです。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」

 

この説教の後には、新聖歌428番「キリストには代えられません」を共に歌います。

これはビバリー・シェーというアメリカの歌手が造った信仰告白の賛美です。

しかし、それはまた私自身の信仰告白の賛美でもあります。

「私はイエス・キリストによって救われて今ここに生かされている。

私にとってイエス・キリスト以上の幸いはありません、イエス・キリスト以上のものはありません。」

皆さんにとってはいかがでしょうか。

皆さんも同じではないでしょうか。

アドベントのこの時、あらためてこの真理、この恵みに与っていることを感謝しようではありませんか。

そして、この真理、この恵みを宣べ伝える者とさせていただこうではありませんか。

 

「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」