今日の聖書はイエス・キリストがこの世に来られた目的をはっきりと記しています。それは、“罪人を招くため”だとイエス・キリストご自身が語られています。イエス・キリストのこのお働きによって私たちも罪が赦されました。イエス・キリストに招かれ罪赦された者として相応しく生きることを心より願い求め、今日のみ言葉に耳を傾けましょう。

 

「レビを招く」

 

 多くの群衆がイエス・キリストのもとに来ました。イエス・キリストは彼らに教えられたのです。

そして、道を通りながらある人に目を留めて声を掛けました。

“わたしについて来なさい”

イエス・キリストからこう言われたのは取税人であるレビという人でした。後にイエス・キリストの弟子となるマタイであります。マタイの福音書の著者でもあります。

このレビの職業は取税人でした。税金を徴収する仕事をしていたのです。

ローマの植民地であるイスラエルの人々にとって、取税人は嫌われる者でした。彼らはローマのために働く者と見なされたからです。そして、当時の取税人の多くは税金を公正に徴収せずに、自分たちの財産を増やす手段としていたので多くの人から嫌われていたのです。つまり、祖国を支配する異国のために働き、しかも、私利私欲を満たす者が多かったので、同国の人々に受け入れられなかったのです。

 取税人に対するイスラエル人の憎しみの感情を自分も分かるような気がします。自分の国も過去他の国に支配された歴史があります。その中で、支配国の味方になって同胞を苦しめた人達に対する憎しみは本当に根強いところがあります。長い年月が経った現在もその人々への法律的争いがあるほどです。自分の国の誰もがその人達のことを嫌っているのです。おそらく、当時の取税人も同じだったと思います。

 それなら、なぜ、イエス・キリストはこのような取税人であるレビを注目して、彼を選んだでしょうか。社会的な知名度があり人々に尊敬される者を選べば、より多くの人々がイエス・キリストの言葉に耳を傾けたのではないかという思いがします。

 このような思いを当時のパリサイ人たちもしていました。彼らはイエス・キリストが取税人と罪人と食事をされるのを見てこのようにつぶやきます。

“なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事くぉするのですか”

 人の病気をいやし、悪霊を追い出す力を持っている人が、なぜ取税人や罪人と食事をしているのか。もっと良い人、つまり地位と権力、お金がある人々と食事をするのがはるかに良いのだと思っていたでしょう。

しかし、このような見方に対して、イエス・キリストははっきりと答えておられます。

“わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです”

これをたとえとしてこう語られました。

“医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です”

医者は病人を治療します。治療をせずにおいておくのは医者の望むことではありません。そして、彼を必要とする病人がいれば何も問わずに助けるのが医者の使命です。

イエス・キリストはこの医者のごとく、罪人の苦しみや悩みを取り除いてくださるお方です。そのために来られたのです。レビはこのイエス・キリストのお働きの良い例となっています。

 イエス・キリストに選ばれたレビはもはや以前のレビではありません。イエス・キリストの声を聞いた彼は“立ち上がって従った”のです。ルカの福音書では“何もかにも捨てて、立ち上がってイエスに従った”と記されています。

イエス・キリストの声を聞き、一瞬にして彼の中に変化が起こっているのです。

今まで仕事をしていた場所から立ち上がったのです。心の変化がなければそのまま座って仕事を続けるはずです。しかし、彼は立ち上がりました。それにとどまらず、イエス・キリストに従ったのです。イエス・キリストのお働き、人生の歩みを共にすることを決心したのです。

 人々から嫌われ、何も役立つ働きができないように見えるレビでしたが、イエス・キリストは彼を選ばれました。それによってレビは変わり、イエス・キリストに従う者となりました。このレビを通して罪びとを招くために来られたというイエス・キリストのお働きがより明らかになっているのです。

 私たちもこのレビと同じです。自らの素晴らしい物の故にイエス・キリストによって救われたのではありません。むしろ、弱くて無力で、人々に良い影響を与える良いものは何一つなかった者だったかもしれません。深い絶望感を覚え、助けがほしいと願っていたかもしれません。イエス・キリストはこのような私たちを招いてくださいました。そして、今も招き続いておられるのです。イエス・キリストと共に歩む生き方への招きです。“わたしについて来なさい”。私たちもレビのように立ち上がりイエス・キリストに従いましょう。

 

「いっしょに食事をされる」

 

 レビは自分の家に食事の用意をしてイエス・キリストを招きました。そこには取税人や罪人も多くいました。彼らの中に交じってイエス・キリストも彼らと食事をされました。

ここで、罪人というのは刑事上の犯罪を犯した人を意味するより、身分の低い社会階級の人を指している言葉です。当時の社会において、彼らは律法を忠実に守ることへあまり関心がなかったのです。彼らの多くは異邦人との間で生まれた者や奴隷、遊女だったからです。彼らは取税人と同様に人々から嫌われる存在でした。

取税人や罪人がイエス・キリストと共に食事をする。このことは天国での宴会を象徴することです。

 イエス・キリストによって救われた多くの人々が共に、国籍・人種・性別の差別がない楽しい交わりをしているのが天国での食事のことです。救われた罪人のお祭りと言えるでしょう。

 ここで大事なことはこの素晴らしい交わりの中心にイエス・キリストがおられるということです。取税人や罪人だけでの楽しい交わりではなく、彼らが従っているイエス・キリストが真ん中におられる交わりなのです。

取税人も罪人もそれぞれ違いますし、個性や考え方、話題などが違うでしょう。このように違う彼らがイエス・キリストに従っていたと記されているのです。彼らが交わりができるようにしてくれているのはイエス・キリストなのです。

 ユダヤ人たちが食事をいっしょにするというのは、彼らにとってとても大切で親しい人関係であることを意味します。そのことを考えると、イエス・キリストは彼らの中におられ、彼らの友だちと呼ばれることを恥ずかしいと思われなかったということが分かります。むしろ、彼らの中で、彼らと共に食事をすることを喜び楽しんでいたのです。

 私たちこそ、救われている罪人です。しかも、国籍や背景が違う人たちの集まりなのです。

イエス・キリストによらなければここでともに交わりを持つことはあり得ないのです。しかもお互いを愛し合い、いたわり合う交わりはなおさらでしょう。イエス・キリストがこの真ん中におられるからこそ可能なことです。

 この素晴らしい交わりにより多くの人々が加わるように切に祈り求めます。なぜなら、私たちがこの交わりの素晴らしさを体験しているからです。本当の喜びと一致がある交わりをしているからなのです。より多くの人がこのイエス・キリストによってそれぞれが招かれ、つながれている交わりの素晴らしさを分かってほしいなのです。

 

「裁くのではなく招く」

 

 イエス・キリストが取税人や罪人と食事をされることに強い不満を抱く人たちがいました。彼らはパリサイ人でした。パリサイ人は厳格に律法を守り、きよさを保つことを大事にしていた者たちでした。その試みは良かったのですが、そのことが自分たちの誇りとなって、人をさばいてしまったのです。自分たちは正しい人であり、取税人や罪人とはかかわってはならないという態度を持っていたのです。

 取税人や罪人に罪があるということに関してはイエス・キリストもパリサイ人も同じ考えです。しかし、とった行動は真逆なものなのです。イエス・キリストは彼らの中に入られ、共に交わられたのです。彼らを受け入れてくださったのです。しかし、パリサイ人は彼らを追い出したのです。彼らといっしょにいると自分たちも汚れてしまうと思っていたのです。

 イエス・キリストはおっしゃいました。“医者を必要とするのは病人です”と。医者は病人と接触することを恐れません。接触せずに彼らを診察し、病名を定め、それにあった治療を行うことができません。イエス・キリストは本当の医者です。病人の中に入り込み、直接彼らの患部をさわって癒してくださいます。心の悩みを聞き、解決してくださいます。ご自分を求める罪人を拒むことがないお方です。拒むどころか自ら探しに行かれるお方なのです。

 パリサイ人は誰より神様のみ言葉を知っていると自負する者たちでした。しかし、神様の御心を行うことをしませんでした。自分たちの行いによる義のゆえに、人々を自分たちと線引きをしていたのです。そして、指摘はするが解決はしようとしない冷たい人でした。病名を定めるが、病気が自分にうつるのを恐れて治療は行わないよう医者のようです。私たちならそのような医者を信頼するでしょうか。

 イエス・キリストは罪人をさばくためではなく招くために来られました。私たちもそれで招かれた罪人なのです。このことを心に刻みましょう。そして、私たちも自分の持っている基準によって人々をさばくことはしないように注意しましょう。もし、私たちがパリサイ人のようなところがあることに気づかされるならば、その態度を改めましょう。イエス・キリストは罪人を招くために来られたのです。このイエス・キリストのように、まだイエス・キリストを知らない人々をお招きする人生を送る私たちでありたいと願い求めます。