「四人が一つの思いで協力する」

 

 今日の聖書箇所には中風の病気にかかった一人が登場しています。

中風の主な症状は身体が麻痺することです。程度によって身体の一部分や半分または全身が麻痺してしまう病気なのです。今日の人物は全身が麻痺している人なのです。彼は自らの力で動けません。きっと大きい苦しみと無力感に襲われていたのに違いないでしょう。

 彼がこの苦しみから解放できる唯一の望みはイエス・キリストの所に行くことです。しかし、残念ながら自らイエス・キリストの所には行けません。そこでこの中風の人をイエス・キリストの所に連れて行くのが四人の人たちです。

今日はこの四人の行動を通して神様が私たちに語ってくださる御言葉に耳を傾けましょう。

“そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。”(3節)

 自力で動けない人を力強い人であれば一人で何とか運ぶことができるかも知れません。しかし、ひとりよりは二人、二人よりは三人、四人が協力して運ぶ方が断然やりすくなります。しかも、思わぬ障害に遭遇した場合それはより明らかになります。

 協力することにおいて人数が多いのも必要ですが、より大事なことは協力する人々の心が一つになることです。そして、一心となって同じ目的のために精一杯のことをすることです。

 中風の人を連れて行く四人の心は何があっても彼をイエス・キリストの所に連れて行くことにありました。そのことに同じ心を持っていたので、彼らは中風の人を連れて行くことができたのです。この四人は中風の人の病気の深刻さの故に、彼の苦しみを取り除いてあげたいという願いで一つになったに違いないでしょう。そして、その方法として選んだのがイエス・キリストに連れて行くことでした。

何故なら、イエス・キリストは神様の御力をもって人々の病気を治しておられたからなのです。‘イエス・キリストにこの人を連れて行けばきっと助かる’と彼らは思ったでしょう。そして、そのために心を一つにして中風の人を連れ出したのです。

 イエス・キリストを信じるクリスチャンは、人生の歩みの中で直面する様々な問題をどのよう解決すべきかを知っている者です。キリストが神様の御力をもってご自分を信じるすべての人の苦しみを解決してくださるからです。その信仰をもって生きながらその事実を人々にも伝えようとするのがクリスチャンです。自分が救われた喜びを体験しているのです。それゆえ、苦しみの中にいる人々を見るとその喜びを彼らも体験してほしいと自然と願うのです。特に、親しい人々が苦しんでいるならばその願いはなおさらではないでしょうか。

 私たちの家族の中でまだイエス・キリストを信じていない方々がおられます。その家族のために私たちは涙をもって祈っているのです。しかし、時には一人の力ではもう無理ではないかと思う時もあるでしょう。自分もそのような一人でした。しかし、私たちの教会では救われていない家族のために、信仰から離れている家族のために共に祈り、まず彼らを伝道しようという共通の認識を持っているのです。自分自身、教会の皆さんのこの共通認識と祈りによって再び家族への思いを新たにすることができています。

 一人の力では家族をイエス・キリストの所に連れて行くことは大変かも知れません。しかし、教会が心を合わせ、そのために協力すれば必ずイエス・キリストの救いが与えられると信じます。願わくは、祈りをもって家族を礼拝へ誘えるように心掛けましょう。礼拝へ誘うことが難しい場合は自らイエス・キリストを伝えられる良き機会が与えられるように祈り、与えられた機会に愛をもってイエス・キリストを伝えましょう。

 

「信仰によって大胆な行動を取る」

 四人は中風の人をイエス・キリストのおられる家まで連れてくることができました。

しかし、思わぬ障害に遭遇してしまいます。

“それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。”(2節)

“群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、”(4節)

中風というのは時間を争う病気ではないので、おそらく彼らは待つことも可能だったと思います。しかし、彼らはそうはしませんでした。

“その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつりおろした。”(4節)

 大胆な行動をとったのですが、これを見て皆さんはどのような思いになりますか。

何故、順番を待たないのか、人の家の屋根を勝手に壊して良いのか、みことばを教えるイエス・キリストと中いる人々に大きい迷惑になるのではないか等々の思いはしませんか。

しかし、今日の聖書にはそれらに関する言及は全くありません。代わりにこう記されています。

“イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子を。あなたの罪は赦されました」と言われた。”(5節)

 イエス・キリストは四人の行動に対する批判ではなく、むしろ彼らの信仰を認めておられるのです。

そこでの四人の行動を私たちはどのように理解すべきでしょうか。人の家を壊した、人に迷惑をかけたなどの批判をすることも可能ですが、イエス・キリストが彼らの信仰を認められたということに心を置きたいのです。もちろん、魂をすくうためなら何をしても良いというのではないということです。

 考えて見ると、上のような批判はイエス・キリストの周りにいながら病人が屋根から降ろされることを目撃した人から起こりうるものなのです。しかし、イエス・キリストは彼らを非難するのではなく信仰があると認めておられるのです。

 このことから教えられることは魂の救いのために行う行動に関して、少なくても教会内ではそれらのことを信仰として認めてあげる必要があるのではないかという思いです。

救霊への純粋な動機であるならば、時には群れに迷惑をかけたとしてもそれらのことを理解しようとする姿勢が必要ではないか思います。時には屋根をはがして穴をあけるような破格的事柄かも知れませんが。

しかし、願うのは、私たちがこの四人のような純粋な信仰の動機を見て取ることができ、理解者となることです。

 このように思うと伝道においてそれを妨げる、つまり戸口を塞いでいる人々や屋根は自分たちにとってどういうものであるかという問いをする必要があるのではないでしょうか。

私たちの教会において具体的事柄を申し上げることは難しいですが、少なくとも個人においてはそれが何であるかをそれぞれが知る必要があると思います。それは、今まで培われてきた神学的背景かも知れません。国柄かも知れません。性格かも知れません。職業かも知れません。これらはなくてはならないものですし、有効に用いられるものですが、魂の救いの重要性から考えると一時的にははがされなければならない屋根のようなものではないでしょうか。

 

「喜びに満ち、神様に栄光を帰せる」

 

 中風の人をイエス・キリストの所に連れて来て、大胆な行動を起こした四人の働きによって次のような結果が持たされました。

“「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。”(11節)

“すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない」と言って神をあがめた。”(12節)

 この中風の人は罪が赦されたと同時に病気が癒されたのです。四人によって運ばれてきたその人は自分の寝床をたたんで、歩いて家に帰ったのです。

これには大きい喜びがあります。自ら動けなかった人が自力で立ち上がり、歩けることは大きい喜びです。そして、彼だけではなく、彼を運んだ四人にも大きい喜びが与えられたのは想像できます。もしかして、この中風の人に家族がいたとするならばその家族の喜びも大きっかたでしょう。家を出た時は他人に運ばれていた人が歩いて帰って来ることは夢のような話でその喜びは本当に大きいはずです。

 イエス・キリストによって罪を赦されることは喜びに満たされることです。苦しみの束縛から解放され自由な生き方へ変えられていく喜びなのです。この喜びの姿は周りの人々に驚きを与え、彼らが神様をほめたたえずにはいられないようにするのです。

 その光景を想像するだけで私たちも喜びに満たされ、彼らとともに神様の御名をほめたたえたくなるのではありませんか。このような出来事が私たちの教会においても起こることを切に祈り求めます。喜びに満ち溢れたお祭りのような光景、人々が救われ神様を共に賛美をする素晴らしいことが私たちにも起こりますように。

 私たちもこの四人のような者になりましょう。

イエス・キリストを知らなく罪による苦しみでうめいている人々をイエス・キリストのおられる所に連れて来ましょう。時には非難されるかもしれない大胆な行動をも信仰をもって行いましょう。そうするとイエス・キリストによる救いと喜び、神様に栄光を帰せる素晴らしい祝福が与えられます。