「ツァラアトの人をあわれむ」

病に苦しんでいる人々を癒し、悪霊を追い出されたイエス・キリストのもとにツァラアトにかかった人が近づいて来ました。

ツァラアトというのは重い皮膚病を指す言葉です。

これは、皮膚にはれもの、かさぶたや光る斑点などができ、その患部の毛が白くて、周りの皮膚より深く見えている症状を意味します。

これにかかった人は汚れた者と見なされました。自ら“汚れている、汚れていると叫ばなければならない”と聖書に記されているのです。しかも、“汚れているので一人で住み、その住まいは宿営の外でなければならない”と定められ、人々から離れての生活を強いられていたのです。

人々が彼に近づくこともなければ、自分から人々に近づくのも許されていない生活をしなければならないのです。

彼は人々から嫌われる存在で、受け入れてもらえない者なのです。

この病気に掛かった人は病気による痛みと孤独に苦しむのです。

 このツァラアトの人がイエス・キリストのみもとに来たのです。彼にとって勇気が必要な事だったでしょう。必死の思いでイエス・キリストを求めて来たと思います。彼は“ひざまずいて”こう言いました。“お心一つで、私をきよくしていただけます”

当時のユダヤ人の習慣からすると、このツァラアトに掛かった人々を追い払うのが常識です。しかし、イエス・キリストは彼を“深くあわれみ”ました。しかも、“手を伸ばして、彼にさわって”こう言われました。“わたしの心だ。きよくなれ。”彼に対するイエス・キリストの心が良く示されています。心に感じる同情だけではなく、手を伸ばし彼をさわったのです。

 何人かの牧師と一緒に車に乗って掛川に行く途中のことでした。サービスエリアのガソリンスタンドでヒッチハイクをしている青年がいたので彼を乗せて上げました。大阪から東京までヒッチハイクで往復していたのですが、私たちの車に乗ることになったのです。彼はイエス・キリストに関してほとんど聞いたことがない人でした。そのような彼にとっては大変な車に乗ってしまったということですね。何せ牧師が4人もいたわけですから。いろいろな会話をし、食事も一緒にして彼を降ろしました。彼を降ろした後に、一人の牧師がこう言いました。‘こういう人(ヒッチハイクをする人)が本当にいますね。しかも、乗せて上げる人々もいるんですね。驚きました’と。乗る人も乗せる人も互いを知らないし場合によっては危険を伴うことも考えられるという意味だったと思います。言われてみるとそれもそうだなという思いもしました。

しかし、運転をしていた牧師はそういうことよりその青年が困っている、助けが必要であることだけ考え、反射的に彼の方にハンドルを回したと思います。

  イエス・キリストもこのような心ではなかったでしょうか。ツァラアトにかかった人が人々の中に入って来ることは群れ全体を汚すことにもなりかねないのです。おそらく当時のユダヤ人たちはそのように思っていたでしょう。

しかし、イエス・キリストには彼の苦しみが先に見えたのではないでしょうか。

もちろん、イエス様ですので彼の病気を恐れることはあり得ないです。これは私たちがまねできないことです。

しかし、イエス・キリストが示した行動には彼をあわれむ心が良く示されているのです。私たちはこの心を倣いたいのです。

状況を適切に判断する知恵と知識が必要であるのは言うまでもないですが、それによってより大事な心の姿勢を失うことがないかをよく吟味する必要はあるのではないでしょうか。

 私たちの教会にツァラアトのようなものによって苦しんでいる人々が訪れて来ることを願い、そして、彼らに対して私たちもイエス・キリストのようなあわれむ心を持って迎え入れることができるようにしましょう。

 

「交わりの回復」

 イエス・キリストのあわれみ深い心は彼の肉体の病気の癒しだけに留まるのではありません。彼が社会の一員として交わりの中で生きることができるようにしてくださるのです。

彼をきよめられたイエス・キリストは次にこう命じられました。

“気をつけて、だれにも何もいわないようにしなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々へのあかしのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめの供え物をしなさい。”

 ツァラアトにかかった人は、病気が治ったとしても勝手に村に入ることが禁じられていました。まずは、祭司の所に行って自分の病気が治ったことを見せなければならなかったのです。その後に定められたきよめの供え物を捧げることによって普段の生活に戻ることができたのです。

これは、彼が神様の民としての、そして社会の構成員としての役割を果たすことができる地位の回復を意味します。イエス・キリストは肉体の病気を癒すことだけではなく、彼の霊的・社会的地位の回復までも考えておられたのです。

 きよめられた人は、以前どれほどのひどい病気を抱えていたかに関係なく、きよい者と見なされ、その地位が回復されるのです。イエス・キリストがこのツァラアトにかかっていた人に与えられたのはこの素晴らしい祝福なのです。

 人間は、人の過去を気にします。出身地がどこか、以前の職業が何だったかなど。そして、それをもとにその人の今を判断しようとするのです。それによって偏見が生じ、差別が生まれることはしばしば経験することなのです。

しかし、イエス・キリストによってきよめられた者同士にとっては過去の事より、キリストによって変えられている今が一番大事なのです。キリストによって救われ、きよめられ、結ばれている。それには偏見も差別もありません。

出身地が違っても、国が違っても交わりを妨げるものはありません。

私たちの教会がそれを証明しているのではないでしょうか。

ここには、日本、中国、韓国の人々が、時にはアメリカの人々も加わりともに礼拝を捧げているのです。神学的な背景も違います。しかし、私たちが共に礼拝を捧げることにおいてこれらのことは問題になりません。

むしろ、イエス・キリストの恵みを覚える時にそれぞれの立場や過去のことをありのままに受け入れることができているのです。私たちは互いを愛し、喜びとし、共に助け合っているのです。

 これはツァラアトをきよめられた人にイエス・キリストが与えようとされたものなのです。そして、これこそ私たちを罪から救い出してくださったイエス・キリストのあわれみ深い心にかなうことです。

 「自分勝手なあかし、しかし」

 イエス・キリストによってきよめられた人は、イエス・キリストに言われたことを行いませんでした。彼は、言われたことをせずに人々に自分に起こった出来事を言い広めたのです。このように記されています。

“ところが、彼は出て行って、この出来事をふれ回り、言い広め始めた。そのためイエスは表立って町の中に入ることができず、町はずれの寂しい所におられた。しかし、人々はあらゆる所からイエスのもとにやって来た。”

 イエス様は彼にまず祭司に見せるように、誰にも何も言わないように命じましたが、彼はそうしませんでした。

病気が治った喜びが大きいあまり、それを早く多くの人々に伝えたかったでしょうか。きれいになった自分のからだを多くの人々に見てもらいたかったでしょうか。

 彼の中にある喜びがどれほど素晴らしいものかは私の想像をはるかに越えるものでしょう。しかし、彼が行ったことによってイエス・キリストは少し困ってしまったのです。町に入ることができなく、町はずれの所におられるようになってしまったのです。もちろん、それによってイエス・キリストのお働きができなくなったことはありません。

 彼は素晴らしい体験の故にその事実を証ししたでしょう。しかし、それはイエス・キリストの望まれることではなかったです。それゆえ、素晴らしい証にも関わらずイエス・キリストを困らせることになってしまうのです。 

 ツァラアトの病状は、体の一部分が腐敗し、患部の感覚ななくなることと患部がからだの皮膚より深く見える特徴があります。神学校の授業の中でこのような病状からこの病気が人間のむさぼりの罪を象徴するという話を聞いたことがあります。そして、むさぼりは自己中心的な生き方と密接なかかわりがあることだという見解の授業内容でした。

このツァラアトからきよめられた人が見せた行為がこれに当たることではないでしょうか。

彼が先に行うべきことはイエス・キリストから命じられたことでした。しかし、彼はイエス・キリストの命令を無視し、自分が体験した出来事を伝えることを優先したのです。一見、素晴らしい体験者でイエス・キリストを証しするかのようにも見えますが、結果はイエス・キリストを困らせるのです。

 しかし、よく考えて見れば自分自身もこのような所があるのではないかと気づかされています。自己満足のためにイエス・キリストの素晴らしい恵みを用いるのではないかと。

肉体のツァラアトではなく霊的のツァラアトにかかっている自分の姿が、このきよめられた人の行為に映し出されているのではないか。

 しかし、この時の唯一な希望はイエス・キリストのあわれみ深い心なのです。

肉体のツァラアトに苦しんでいる人をあわれみ、彼をきよめられたイエス・キリストは変わることのないお方です。救われた恵みの中で、しかし、霊的なツァラアトにかかっている自分をもあわれんでくださる。“わたしの心だ。きよくなれ。”このみことばは変わることのない真理の御言葉だからです。

  ツァラアトに苦しんでいた人を、汚れているからと言ってさげすむことなく、嫌がることなく彼の患部に手を置き、きめてくださったイエス・キリストのあわれみ深い心。

救われているにも関わらず、自己中心的な生き方で苦しんでいる私たちをも同じ心を持って受け入れてくださるイエス・キリスト。

私たちはこのイエス・キリストにつながっている者として、このあわれみの心を倣い、共に歩みたいと心から祈り求めます。