「御霊によって」

自由を与えられるために私たちは召された者だと神様は語られています。キリストによって私たちは自由を得ています。そして私たちは、この自由を肉の働く機会としてはならないということと愛をもって互いに仕えるために用いることが求められています。
これは私たちの自由が愛によって制限されるものだということです。
しかし、愛をもって互いに仕えることはとても素晴らしいことだと分かってはいるものの、私たちの生活の中でこれを実践することは簡単なことではないのです。

どうすればこのことを実践することができるでしょうか。
それは私たちがもっと努力することによって達成できるものなのでしょうか。
もし、そうであるならば私たちはどれほどの努力をすれば良いでしょうか。このような問いかけはクリスチャンの誰もが抱えている悩みではないでしょうか。

今日の御言葉はその答えを私たちに示しています。それは、御霊によって歩むことです。
このように記されています。
「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(16節)
私たちの自由を肉の働く機会としないためには、私たちが御霊によって歩むことが必ず必要です。
それこそが、肉の欲望を満足させることがないようにする唯一の方法だからです。
‘肉’は神様から離れ、罪の中にいる状態を言い表しています。
‘欲望’は熱烈な願望を意味しています。自制が難しい人間の欲求です。
この肉の欲望は、主に性的欲望・物質的な豊かさ・他人の物を欲しがる欲望などを指しています。
これらのことは神様の望むこととはかけ離れているものなのです。

御霊によって歩むというのは、私たちの歩みを御霊の導きと共にするということです。御霊は神様の霊ですので、神様の望まれることが何であるか一番よくご存知です。そして、そのように生きられるように絶えず私たちを助けてくださるお方なのです。
御霊に導かれ、御霊と共に歩む者が、肉の欲望を満足させるような歩みをすることはありえないことなのです。神様はそのようなことが「決して」ないと語られています。御霊によって歩む者は与えられた自由を自分の欲望を満足させるような生き方をしないのです。

「肉の行い」

それでは私たちが肉の欲望によって行うこととしてはどういうものがあるか、御言葉に耳を傾けましょう。
「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。」(19-21a)
このような肉の行いは四つの種類に分けることができます。
まずは、性的な罪に関係があります。
・不品行:姦淫を意味することばです。禁じられているすべての性的な行為、そしてそれに対する間接的な参与を含める行為を意味しています。
・汚れ:肉体の不潔だけではなく心の中に存在している性的罪まで意味します。新共同訳ではわいせつと記しています。
・好色:不品行や汚れを楽しむ姿であります。抑えることのできない性欲やむさぼりを意味します。
このようなことを行いながらも良心において少しも恥ずかしいと思わない状態です。
次は、宗教的罪です。
・偶像礼拝:創造主となる神様以外の神々を崇拝すること。偽神を礼拝することです。
・魔術:偶像礼拝と関連性が深く、偽神を礼拝する時に特別な薬品を使用する行為を表しています。薬品を使って人の心を騙し取り、偶像礼拝をさせる行為です。
次は、社会的態度・人に対する態度に関係ある行為です。
・敵意:敵対心、個人的な憎しみなどによる問題を意味しています。この言葉は複数形で使用されていますが、それは人間関係の中に現れる様々な敵対的な関係を意味します。民族・血統による対立。宗教的対立。
・争い:争うのを好むことです。
・そねみ:熱心とも訳せる言葉です。ここでは燃え上がるようなねたみを意味します。
・憤り:爆発するような怒りを意味しています。複数形で使われていて、様々なケースにおいて憤る姿を表しています。
・党派心:利己心とも言います。自分自身を主張したがる様子、目的のためなら卑劣な手段も惜しまない様子です。特に、真理に対して反対し、自分たちの利益を真理より優先する心を表します。
・分裂:不和を起こす行為です。
・分派:仲間争いと新共同訳は訳しています。ここでは福音の真理を拒む集団を指す言葉です。異端とも訳す聖書もあります。
・ねたみ:そねみより強い意味を持っています。内的心だけではなく実際の行動を伴う行為として考えられます。私のものにできないなら他の人もそれを持ってはならないという曲がった論理もこれに当たります。
次には、お酒に関連することです。
・酩酊:お酒に飲まれることでしょう。度を越える飲酒を指します。
・遊興:お酒の神、バカスを拝む祭りから由来。これは酒に酔って行う性的堕落として有名だったそうです。
これ以外にも多くのものが肉の行いとしてあることをパウロは示しています。

そして、これらのことを行う者に対して厳重な警告を送っています。
「前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」(21節)
これはパウロがここで初めて言ったのではなく以前も語ったことでした。それは明白で強い宣言です。肉の行いをしていながら神の国を相続する者はいません。つまり、このような者は救われていないということです。
「している」というのは、習慣的に繰り返して行っていることを意味します。
肉の行いを恥ずかしいとも、悔しいとも思うことなく、むしろ楽しんで、正当化しながら行い続ける者が神様の御国へ入ることはできません。もし、クリスチャンと言いながらこのような肉の行いを止めることなく、離れようともしないならばその人は‘救い’というのを誤解しているに違いありません。
そのような人に対して聖書ははっきりと「神の国を相続することがありません」と記しているからです。

「御霊の実」

私たちが肉の行いから離れ御霊によって歩むことには御霊の実が与えられる約束がされています。
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」(22-23節)
・愛:イエス・キリストが示してくださった愛。他の実の基礎となります。罪人を愛するために御子を送ってくださった神様が立証したもので、自己犠牲を伴います。感情より意思が大事な徳目です。
・喜び:外部的環境に左右されない内なる喜びです。幸せか不幸かにも左右されません。どのような状況でも持続する豊かな喜びです。
・平安:逆境の中でも与えられる平安。神様の主権と義に対する信頼感によるのです。
・寛容:忍耐です。‘長い’+‘心・感情’ 私たちに対する神様の寛容・忍耐に根拠しています。
・親切:神様の慈しみ、罪びとを救おうとされる神様の親切な心です。
・善意:良き品性と行動を共に意味する言葉です。主に人が行う善を意味しています。
・誠実:信仰とも訳される言葉ですが、ここでは他人から信頼を得られる状態を意味しています。
・柔和:寛容に近い意味を持っています。柔和は、怒りが適切な方向に向けられるように守ってくれるのです。偶像を喜ぶ民に対するモーセの怒り、神殿での売買に対するイエス・キリストの怒りが良い例です。
・自制:神様にも他人にも向かず、自分自身に向けられる実です。

御霊によって歩む者にはこれらの実が約束されています。御霊ご自身が私たちを導いてくださるからです。私たちはこの導きを受けて、歩まなければなりません。

「葛藤の連続、しかし」

このように肉の行いと御霊の実をひとつずつ考えて見るとこの二つは混じることのできないものであることがよりはっきりと教えられます。この二つは限りなく対立しています。
「なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。」(17節)
この結果私たちは「自分のしたいと思うことをすることができない」のです。
パウロはこれをローマ書7章ではこのように記しています。
「そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見出すのです。私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいます」(21-22節)。
つまり、私は善を愛し、行おうと切に願っています。私の新しい本性は神様を、敬虔を、善を熱望しています。これはすべて救われた者の告白です。しかし、これにこの言葉を付け加える必要があります。‘私の力では、この新しい欲求を持っていたとしても、私が願うことを行うのができないのだ’と。

何故でしょうか。それは、御霊に対立する肉の願いの故です。
これがクリスチャンの悩みです。葛藤です。むしろ、これはクリスチャンだけの悩み、葛藤です。
御霊によって歩むことには必ずこのような悩みがあります。
救われたのに悩みや葛藤があるでしょうか。
そうです。救われても悩みや葛藤はあります。むしろ、悩むからこそ救われたと言えるのです。
それなら、クリスチャンの歩みは悩みの連続で終わってしまうのでしょうか。いいえ。そうではありません。
私たちが御霊によって歩むことは葛藤が伴うことではありますが、私たちを神様の国へ導き入れてくれます。御霊の実が約束されていて神様の御国を相続する者としてくれるのです。このことに関しては次週、御言葉を共にお聞きしたいと思います。
今週の歩みにいろいろな悩みや葛藤があるかも知れませんが、御霊によって共に歩もいではありませんか。