「神の約束は変わらない」

 神様がアブラハムにされた約束は何でしょうか。
それは「あなたによってすべての国民が祝福される」という約束でした。
これは、アブラハムと肉体においての彼の子孫にカナンの地を与えるということを意味します。
そして、この約束はそれだけではなく、キリストを信じるすべての人に相続(救い、義と認められる)されることを意味しています。
「ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は子孫たちと言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、あなたの子孫にと言っておられます。その方は、キリストです」
それでは、神様とアブラハムの間でどのようにして契約が結ばれたでしょうか。
神様はアブラハムとの契約のために牛、雌やぎ、雄羊、山鳩とそのひなを用意するようにとおっしゃいました。
そして、動物は真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにするように命じられたのです。
このような準備ができると、神様はアブラハムとの契約のために切り裂き、向かい合わせにしていた動物の間を通られました。
切り裂かれた動物の間を通ることには、この契約は絶対変えられないという意味があります。
もし、契約当事者が約束ごとを破った場合は、切り裂かれた動物のようになるという意味です。
この契約は命を捧げて守るものだということです。
しかし、この契約はアブラハムの申し出によって結ばれたものではありません。神様からの一方的な契約です。ですので、この契約を守る義務は神様だけにあるのです。このようなことはありえないですが、神様が契約を破られた場合は、神様のいのちを捧げることになります。神様が死ぬということです。しかし、神様は死ぬことがありません。ですので、この契約は絶対変わらないものであります。
今日の御言葉は人の日常生活からの例をあげて、神様の約束が変わらないことを記しています。
「兄弟たち。人間の場合にたとえてみましょう。人間の契約でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしません。」
契約は契約当事者が満足、納得した上で成立します。ですので、契約に至るまで多くのことを話し合い、調整をするのです。そして、変えたり、つけ加えたりしなくても良いものになってから成立するわけですから成立後にはそれを無効にしたり変えたりしません。
人同士の契約もこうであるなら、神様の契約は言うまでもないということを強調しているのです。

「律法の存在」

  ところが、神様はアブラハムとの約束以外に、モーセの律法をも与えられました。
約束が先に与えられて、何世紀の時間が経ってから律法が与えられました。
それでは、この律法は何でしょうか。
「では、律法とは何でしょうか。それは約束をお受けになったこの子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して、仲介者の手で定められたのです」
この御言葉によると律法は約束が実現するまで、約束を受けたものが正しく生きるために示されたものなのです。違反を示すものですので、すべきこととしてはならないことが示されているのです。そして、それは従うことへの命令でもあります。
神様の約束と律法の大きな違いがあります。約束は、神様ご自身が‘わたしが…行う。わたしが…このことをなす’です。神様の計画、恵み、権威が現れています。
しかい、律法は‘あなたは…しなければならない’であります。これは人の義務、行い、責任を示しています。約束は信じることが求められますが、律法は従うことが求められています。
それなら、律法は約束を補うためのものでしょうか。律法を守ることで約束が成就されることでしょうか
律法は約束の成就のために不可欠なものでしょうか。
違います。「先に結ばれた契約は、その後四百三十年たってできた律法によって取り消されたり、その約束が無効とされたりすることがないということです。」
律法の目的は何でしょうか。「違反を示すため」だと記されています。
神様は「律法によってはかえって罪の意識が生じるのです」(ローマ3:20)
「律法のないところには違反もありません」(ローマ4:15)
「律法をよらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう」(ローマ7:7)

「律法は神の約束の必要性を強調する」

律法が違反を示すものなら、律法を守ることによって命が与えられることは確かです。
しかし、「律法によって神の前で義と認められる者が、だれもいないということは明らか」です。
律法は「すべての人を罪の下に閉じ込め」(22節)ました。
違反を示すために与えられた律法は、人々に正しい行いを求めます。しかし、だれも律法の行いによっては正しいものとなることができないことを明らかにします。
神様は私たちが正しく生きることのために律法を与えてくださいました。私たちは律法の教えに従う努力をしなければなりません。正しく律法を行うことに生きる道があるからです。
しかし、正しく生きるように教えてくれる律法が、逆説的にも私たちが正しく生きることができないことを明らかにしてくれるのです。律法を守ろうとすればするほど、人の罪が浮き彫りになり、行いによっては正しくなることができないことを実感するだけなのです。
このことによって神様の約束に頼ること以外には希望がないことが教えられるのです。律法は人間というものの現状を明らかにしてくれるものです。罪に対抗できる私たちの力の限界を教え、認めさせるのです。神様の約束を信じること以外には生きる道がないものであること。
「約束がイエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。」(22節)
アブラハムが神様の約束を信じてその恵みを受けているように、私たちもキリストを信じることで神様の祝福を受けることができます。

「私たちのいまにおいて」

神様は、私たちが生きられる道は律法の行いによるではなく、キリストを信じる信仰であり、それがアブラハムの時になされた神様の約束による恵みであることを今日の御言葉を通して教えています。
律法が私たちの現状を明らかにし、限界を教えていることから、約束を信じる信仰以外には生きる道がないという、この教えは私たちの教会のあり方、歩みの原則を教えてくださることでもあると信じています。
神様の約束は、神様ご自身がなさるということです。キリストはこの神様の約束の成就です。
私たちはキリストを通して、頭なるキリストの教会へ加えさせていただいたのです。
ですので、教会はキリストを通してなさる神様の約束が豊かに現れる恵みのところです。
求められているのは、信仰です。律法の行いではありません。
私たちの教会のこれからの歩みに関して、私たちは祈り、話し合って来ました。
真っ先に分かっていることは、現実の厳しさであります。そして、この現実を私たちの力だけでは解決できないということも分かっています。ここにおられる皆さん一人ひとりは本当に多くの犠牲を払いながら忠実に神様に仕えてこられました。私はこのことを良く理解し、心より感謝しています。
それと同時に私たちの現実も分かっているのです。
「神は約束を通してアブラハムに相続の恵みを下さったのです。」(18節)
私たちには神様の約束によって相続の恵み、つまり救いが与えられています。そして、この恵みを頂ける唯一の方法は神様の約束を信じる信仰のみです。
私たちはキリストを信じることによってこの救いを持っている者です。
そして、救われた者には、信仰による生き方が求められています。
神様は、「わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」(へブル10:38)と語られています。
現状を考えた時、恐れがあるのは仕方ないことでしょう。
しかし、重要なことは恐れてそこにとどまるか、それを克服するかでしょう。
神様は、恐れることではなく、恐れ退くことに対して、ご自身は喜ばないとおっしゃっています。
神様が喜ばれるのは、信仰を持ってご自分の約束を信じることです。
現状を弁えた上で前に進むためには、神様の約束による恵みを信じることが必要です。
キリストを信じ、キリストが共におられることを信じること以外にはありません。
最後にこの御言葉に期待して、神様の約束を信じ、豊かな恵みを頂く歩みを共にするように願い求めます。
「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6-7)