【信仰によって義と認められる】 

 神様の前で義と認められるというのは、神様が「あなたは私の心にかなっている」とされることです。
そして、神様の祝福を頂ける者となるということです。
それならば、人はどのようにして神様の前で義と認められるでしょうか。
今日私たちに与えられている御言葉はそのことをこのように記しています。
「アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、あなたによってすべての国民が祝福されると前もって福音を告げたのです。」(6-8節)
 アブラハムという人は、神様に義と認められた者です。彼がどのようにして義と認められたかというと
「信仰によって」だと記しているのです。
アブラハムが立派な行いによって神様から義と認められたとは記されていません。
もしアブラハムが律法の行いによって神様に義と認められたならば、御言葉が「彼の行いを神は義とみなされた」と記したはずです。アブラハムは信仰によって義とみなされたのです。

そして、私たちも信仰によってアブラハムの子孫となります。
聖書の示す通り、アブラハムと血筋のつながりのない私たちが、信仰によって彼の子孫となるのです。
信仰によってアブラハムの子孫となることは私たちがアブラハムの祝福を受けることとなります。
このように聖書は記しています。
「そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。」(9節)
信仰による人々はアブラハムの祝福をともに受けるということですが、それではその祝福はどのようなものでしょうか。
 

【律法か信仰か】 

 祝福が何かを考える前に、神様の前で義と認められることは本当に信仰だけか。
もしも、行いによってでも可能ではないかという疑問が生じます。良い行いによって人は良い人とされるのではないかという思いもありますし、神様を喜ばせる立派な行いによってでも可能ではないかという思いもします。
それなら、聖書はそれに何と答えているでしょうか。
まず、このように記しています。
「律法を行う者はこの律法によって生きる」のです。律法を行うことは「律法の書に書いてあるすべてのことを堅く守って実行しなければ」ということです。
注目したいのは、「すべてのこと」です。
例えば、100の中で99を守ったとしても残りの一つがありますので、すべてとは言えません。
100を全部守って実行することによって、義と認められるのです。生きることができます。
それなら、一つでも守れなかったことがあった場合どうなるでしょうか。聖書はこう記しています。
「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。」(ヤコブ2:10)一つでも守れなかったのがあるならすべてを犯したことになるのです。
ですので、聖書は「律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです」と教えています。そして、このことから「律法の行いによる人々はすべて、のろいのもとにある」のです。
神様の前で義と認められる方法として律法が与えられています。しかし、これによって分かることはだれもこれをすべて守って実行できる人がいないという絶望だけです。
律法はすべての人が自分の力では神様の前に義と認められないことを明らかにしています。
すべての人です。ユダヤ人も異邦人も、男も女も、子供も大人も誰もが律法によってでは神様の前に義と認められません。

 聖書はその代わりに信仰によって生きる道を教えているのです。
「義人は信仰によって生きる」と記し、私たちも信仰によって生きるようにと教えています。
 

【のろいからの解放と約束の御霊を受ける】 

 アブラハムが神様を信じたように私たちもキリスト・イエスを信じるように教えられています。
何故なら、キリストが私たちのために、律法ののろいを代わりに受けてくださったからです。
「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、木にかけられる者はすべてののろわれたものであると書いてあるからです」(13節)
キリストを信じる者は律法ののろいから解放されるのです。キリストが私たちの代わりになって律法の要求をすべて満たしてくださったからです。私たちはこのキリストを信じることが求められています。
 キリストを信じる者には、アブラハムの祝福を受けるようになります。
「このことは、アブラハムの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです」(14節)
キリストを信じる者には、御霊が与えられるということです。
御霊が与えられるということは神様が私たちの中に住まわれることです。
そして、永遠にご自分の住まいとしてくださることです。私たちから離れることなく共におられるのです。
神様はアブラハムにこう語られました。
「アブラハムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」(創世記15:1
神様はアブラハムに盾を与えるのではなく、ご自身が盾であるとおっしゃっています。
アブラハムがどこに行っても神様が共におられ、守られるということです。
アブラハムは信仰によってこのような神様の祝福を受けたのです。

アブラハムは神を信じたと記されていますが、この「信じた」という言葉は現在形で記されています。
これはアブラハムがすべての時において神様を信じていたということです。それには共におられる神様への信頼があったということです。
私たちは御霊によってアブラハムと同様に共におられる神様を体験しています。

 【信仰による祝福の体験】 

キリストを信じる信仰によって私たちは御霊を受けているのです。
御霊こそが信仰によって与えられる最高の祝福です。神様が共におられることですから。
それなら私たちは神様が共におられることをどのようにして体験し、分かるでしょうか。

アブラハムには神様ご自身が姿を現したり、御声を聞かせてくださいました。
それなら今の私たちにも神様の姿を見せてくださり、御声を聞かせてくださることがあれば一番良いと思います。そして、神様はアブラハムの時に今も変わらないお方ですから、十分そのようにもできるお方です。
しかし、私は今まで一度も神様も姿を見たこともなく、御声を直接聞いたこともありません。
それなら、私はどのようにして神様が共におられることを体験しているでしょうか。そして、皆さんはどのようにして体験されているでしょうか。

 
 私たちは新しい礼拝場所を探すことにおいて様々な壁にぶつかっています。
祈り合い、話し合い、実際足を運んでいますが、厳しい現状を目の当たりにしているのです。
先日も不動産を歩き回りましたが、物件は簡単には見つからなかったです。
少し気が重くなり、疲れをも感じ、家に戻りました。
そして、聖書を開きました。その時この御言葉が与えられました。
詩篇6610-12節です。
「神よ。まことに、あなたは私たちを調べ、銀を精錬するように、私たちを練られました。あなたは私たちを網に引き入れ、私たちの腰に重荷をつけられました。あなたは人々に、私たちの頭の上を乗り越えさせられました。私たちは、火の中を通り、水の中を通りました。しかし、あなたは豊かな所へ私たちを連れ出されました。」
まさに今の私たちの現状をそのまま語っている御言葉でした。
‘私を清くするために、神の人としてよりふさわしい者とするためにこのような状況が許されているのだ。これは通り道であり、必ず神様の導きによって豊かな所へたどりつくのだ’ と強い確信が与えられました。
神様に感謝と賛美を捧げます。

 
 私にはキリストを信じる信仰によって御霊が与えられ、御霊の助けによって御言葉を信頼することができています。私の行いによって勝ち取った祝福ではありません。神様がアブラハムに約束された信仰による祝福を、同じ信仰をもって受けているのです。
そして、御言葉を通して実際体験しているのです。
私の行いが完璧になることは決してないでしょう。しかし、信仰によってより努力していきます。
信仰には祝福が約束されているからです。
私達皆が、この信仰による祝福を豊かに体験する歩みをすることができるよう祈り求めます。