「パウロの嘆き」

「ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを惑わせたのですか。」
パウロは、ガラテヤ教会の人々に対して「愚かだ」と語っています。
しかも大きいため息をつくように「ああ」と嘆き、驚いているのです。
パウロには、ガラテヤ教会の様子が衝撃そのものだったでしょう。だからこのように驚き、嘆いていることでしょう。
一体どうして、ガラテヤ教会はこのようなことを言われているでしょうか。続きの言葉を聞きましょう。
「ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか」
まず、パウロが認めていることが一つあります。それは、ガラテヤ教会が御霊を受けたということです。
それは救われたともいえることです。
そして、この救いに関して、彼らがどのようにして救われたかを問いかけているのです。
一つは、律法を行ったことによって救われたか。もう一つは、福音を聞き信じて救われたか。
パウロもガラテヤ教会の人々も福音を信じて救われたことをよく知っていたのです。
それなのに、福音から離れていくガラテヤ教会の人々の歩みが、パウロには理解し難いものだったでしょう。ですので、当たり前のような質問をしているわけです。

1節の言葉を聞くと、ガラテヤ教会は十字架につけられたイエス・キリストを贖い主として信じたのです。信仰をもって聞いて、受け入れたのです。
しかし、時間がたった今、彼らはイエス・キリストの十字架の贖いを信じる信仰より律法を行うことをより大事にしているのです。
救われるためには、律法を行わなければならないという教えを受け入れてしまったのです。
これは、イエス・キリストの十字架の贖いが救いの条件としては足りないものだということにもなります。
十字架の上でのイエス・キリストの贖いが完全ではないので、不足な部分は律法を行うことで補わなければならないという考え方です。
しかし、この教えが間違いであることをパウロは彼らの救いの体験から考えるように語っているのです。
彼らは十字架のイエス・キリストを信じました。信じて聖霊を受けました。これが彼らの行いによるものではなかったのを喚起させているのです。

私たちはどのようにして救われたでしょうか。
救われるために一所懸命善い行いをしたでしょうか。もし、そうであるならばどれほどの善いことをしたでしょうか。他の人と比べてどのくらいで救われるほどの善いことになるでしょうか。
ここにおられるひとり一人は己の人生を精一杯歩んで来られた方々だと思います。多くの人生経験を持っておられるのに違いないでしょう。
しかし、そのような経験が私たちに救いを与えたのではないことをも良く分かっておられると思います。

イエス・キリストを信じて、私達は救われました。信じてから振り返ってみると多くの人生の経験を信仰の中で解釈することができ、すべてが救いに導くための神様のご計画だったと理解されていることでしょう。
私たちの救いは信仰のみによるのです。ガラテヤ教会も信仰のみによって救われたのです。しかし、彼らは信仰から離れて行いによる救いを受け入れているのです。パウロはこれに驚き嘆いています。

 

「信仰をもって聞くことによって聖霊が与えられた」

信じるすべての人には聖霊が与えられています。
聖霊が与えられていなければ救われることができません。私たちはどのようにして聖霊を受けることができるでしょうか。
「とすれば、あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行われた方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか。」(5節)
この御言葉が教えているのは、聖霊を与える主体が神様だということです。
私たちが己の力で、聖霊を受けることではないです。
信仰をもって聞く者に、神様が聖霊を与えられるということです。
このことを混同してしまうと信仰生活は非常につらいものとなってしまいます。
パウロがガラテヤ教会にこの問いをしているのは彼らがこれをよく知っているからです。
この問いを通してもう一度自分たちの現状をよく考えるように促しているのです。
‘あなたがたは行いによって聖霊を勝ち取ったのではない。信仰をもって聞くことによって神様があたえてくださったのだ。なのに、何故今はこのことを忘れて、行いによって救われると信じているのか’と問いかけているのです。

私たちはどうでしょうか。
もしかして、今の私たちの歩みに行いによって救いを完成させようとしているところがあるでしょうか。
そのようなことに関して聖書は何というでしょうか。
ガラテヤ教会に対しるパウロの言葉がそれを教えています。

「最後まで信仰によって」

こう語っています。
「あなたがたはどこまで道理が分からないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」(3節)
信仰によって救われた者は、それにふさわしい生活をすることが求められます。
救われたからすべてが終わりではありません。救いは新しいいのちが与えられることです。
以前のような歩みから離れて新しい歩みを始めることです。この新しい歩みのために求められる生き方があります。
救われる前には、祈ることをしませんでした。しかし、救われた者は絶えずに祈るように求められます。
救われる前には聖書を読むこと、御言葉を聞くことをしませんでした。しかし、新しい命の成長のために聖書を読み、神様の御言葉に従うことが求められます。

私は救われてから救われた者にふさわしい生活が求められていることが分かりました。そして、そのために一所懸命に従いました。聖書を読み、祈りを捧げ、礼拝と献金を捧げる生活を徹底するようにしました。それらは私を救ってくださった神様の恵みに対する喜びと感謝の中で行うことができました。
しかし、時間が経つにつれこれらのことを行わないと少し不安を感じるようになりました。そして、今度はその不安をなくすために、より努力するようになりました。いつの間にか、行いができた時には達成感があり満足できましたが、そうでない時には不安と失望に覆われてしまったのです。
悪循環にはまってしまいました。信仰生活が感謝と喜びより不安と義務による疲労感に覆われるようになったのです。
そのような時に、この御言葉が私に警鐘を鳴らしてくれました。
私は、御霊によって信仰が与えられ新しい歩みを始めたのに自分の努力でそれを完成しようとしていることに気づかされました。そうです。私は自分の努力で救いを完成しようとしていたのです。愚かでした。
十字架につけられたイエス・キリストが明白に見えているのに、十字架の上ですべてを成就したとおっしゃるイエス様の御言葉を信用していなかったのです。
私は救われるために努力する必要がなかったのです。救われた者として、それにふさわしい歩みのために努力すれば良いことを、いつの間にか救われるためにそうしなければならないのだと思うようになっていたのです。

それなら、このような私の経験は無駄だったでしょうか
パウロはこう記しています。
「あなたがたがあれほどのことを経験したのは、無駄だったでしょうか。万が一にもそんなことはないでしょうが。」(4節)
信仰によって聖霊を受けている者の歩みは何一つ無駄なものはありません。
私のような経験をすることもそうです。私はこのような経験を通して、より神様の恵みを深く体験させられました。そして、信仰による感謝と喜びに満ち溢れています。
私たちにこの信仰を与えて下さった神様を賛美しましょう。そして、信仰にふさわしい者とあられますように互いに励まし合い、祈り合い、努力していきましょう。