【福音はひとつ】

2節のパウロの言葉です。
「それは啓示によって上ったのです。そして、異邦人の間での私の宣べている福音を、人々の前に示し、おもだった人たちには個人的にそうしました。それは、私が力を尽くしていま走っていること、また走ったことが、むだにならないためでした。」(2節)
パウロは再びエルサレムに上り、自分が異邦人の間で宣べ伝えた福音をエルサレムの人々に示したのです。特に、主要人物には個人的に会って、自分の働きを説明したということです。
この結果、パウロは次のような結果を得られました。
「それところか、ペテロが割礼を受けた者への福音をゆだねられているように、私が割礼を受けない者への福音をゆだねられていることを理解してくれました。」(7節)
パウロの異邦人伝道の働きにおいて、彼を一番妨げていたのはユダヤ人のユダヤ教の教えでした。ユダヤ人はモーセの慣習に従い割礼を受けなければ救われないと教えていました。パウロはこの問題を解決するためにエルサレムに上り、エルサレム教会の指導者達に会ったのです。そして、彼らの理解を得たのです。
このように理解し合うことができたのは彼らを遣わされた方が、同じ方であることが明らかになったからです。
「ペテロにみわざをなして、割礼を受けた者への使徒となさった方が、私にもみわざをなして、異邦人への使徒としてくださったのです。」(8節)
ペテロとパウロを使徒としてくださったお方は神様ご自身です。ただ、ひとりは割礼を受けた者へ、もう一人は異邦人へ遣わされたのです。ペテロとパウロは同じ神様の恵みを受けていたのです。しかし、彼らの働きの対象がユダヤ人と異邦人という違いがあったのです。遣わして下さった方が同じであることが確認できると彼らは互いを認め合い、それぞれの働きにより力を入れることができたのです。
「そして、私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し伸べました。それは、私たちが異邦人のところへ行き、彼らが割礼を受けた人々のところに行くためです。」(9節)
「右手を差し伸べた」とうのは、‘認めてくれた’、‘仲間として受け入れてくれた’という意味です。
これによって、パウロは自分の働きが無駄にならないための一次的な目標を達成しました。
パウロが自分の働きが無駄でないことに意義を置くのは、彼の伝える福音の真理が問われることだからです。
もし、パウロの働きが無駄だったと評価されるなら、パウロが異邦人の間で宣べていた福音も無駄なものだということになります。逆に言うと、信仰だけでは救われない、割礼をも救われるためには必要だということになってしまいます。
これは、今の私たちにも重要な問題です。私たちもパウロが異邦人の間で宣べていた福音、信仰のみで救われる、というのを信じているからです。私たちは救われるために割礼を受けることをしませんでした。しかし、パウロの働きが無駄であるならば、私たちは今でも救われるために割礼を受けなければならないのです。
パウロはこのようなことにならないために、神様の導きによってエルサレムに上り、おもだった人たちに会い、自分の働きを弁明しました。そして、ペテロが宣べる福音と自分が宣べる福音が同じであることを互いに確認できるように働いたのです。
パウロは、福音は一つであること、福音を受け入れるのはユダヤ人だけではなく異邦人も多くあり、しかも彼らは割礼を受けなくても福音を信じることによって救われることを語ったのです。
福音は一つです。異邦人が受け入れる福音、ユダヤ人が受け入れる福音、それには違いがないことを確認させてくれました。これは私たちにおいても一緒です。日本の方が受け入れる福音、中国やアメリカ、韓国の人々が受け入れる福音は一つです。それは、イエス・キリストを信じる信仰によって救われることです。
それ以外に、特別に付け加えなければならないものはありません。

【福音の真理を保つ】

 パウロはエルサレムに上った時にギリシャ人であるテトスを連れて行きました。救われた異邦人であるテトスが割礼を受けるように求められるかが主要な関心事でした。このテトスに対して、エルサレム教会の指導者たちが何をしたかがこのように語られています。
「しかし、私といっしょにいたテトスでさえ、ギリシャ人であったのに、割礼を強いられませんでした。」(3節)別の個所では語られています。
「そのおもだった人たちは、私に対して、何もつけ加えることをしませんでした」(6節)
エルサレム教会は異邦人テトスに割礼を受けるように求めなかったのです。
もし、誰かがパウロにテトスに割礼を受けさせるように求めたならばパウロはどうしたでしょうか。
パウロはこう語っています。
「私たちは彼らに一時も譲歩しませんでした。それは福音の真理があなたがたの間で常に保たれるためです。」(5節)
パウロはテトスに割礼を受けさせるように求められても応じないことをはっきりと語っています。その理由は、福音の真理を守るためだとパウロは言っています。
もし、パウロがテトスへの割礼を受け入れるなら、パウロ自ら二つの福音があることを認めることとなります。自分が宣べていた信仰による救いとユダヤ人が宣べている割礼による救い。
しかし、先も申しましたようにパウロは自分が宣べている福音は、ペテロ達の宣べている福音と違いがなく、ただ信仰のみであることを確認していたのです。
従いまして、パウロは福音は一つであることを、救いのために割礼は必要ないということを少しも譲る思いがなかったのです。
パウロは福音の真理を守るために、時には人間的な営みのように見える人との交わりや話し合いを行いますが、人の機嫌をうかがうために福音の真理を譲るようなことは一切していないことが良く分かります。
パウロは常に、福音の真理を守るため、人の機嫌を取るのではなく、神様に受け入れられるように働いていることを明らかにしていました。それを身をもって実践しているのです。
このようにパウロが守ろうとしていた福音の真理はどういうものでしょう。それは、イエス・キリストにあって、私たちの持つ自由であります。キリストが私たちをあらゆる束縛から解き放ってくださったのです。
キリストを受け入れた者は、これ以外に何かを付け加える必要がありません。付け加えようとするなら、それは私たちを束縛するものとなってしまい、私たちはそれの奴隷となってしまいます。
これから私たちの教会の働きにおいて、財政の必要は欠かせないものでしょう。
私たちは救われた者として、与えられている恵みに感謝し、喜びをもって献金を捧げています。
先週これからの教会の働きのために、皆さんと話し合いの時を持ちました。
私は話し合いの中で献金に関する私たちの話し合いの結論に、心より感謝しました。
教会から指定して、強いられて献金を捧げるのではなく、それぞれが神様との関係の中で、与えられた信仰に基づいて自由に捧げるようにと私たちは結論を見出しました。
献金をしなければ救われていないような見方は、私たちを献金の奴隷にしてしまうことです。
献金額が少なければ信仰の薄い者とされるのもふさわしくないことです。各自の信仰のはかりに従って、感謝と喜びをもって捧げるべきです。他の人と比較する必要もないのです。
献金以外にも何かの規則が、イエス・キリストにあって与えられている自由を、私たちから奪うようなことがないようにしたいと願い求めています。
キリストによって救われ、自由になったのに、教会の伝統や習慣がその自由を奪うようなことはふさわしくないことでしょう。
パウロは私たちを自由にしてくれる福音の真理はただ一つ、キリストを信じる信仰のみであることとそれを守るためにはあらゆる努力をも惜しまないことを教えています。
私たちも教会の働きにおいて様々な意見があり、考えがあると思います。その時、一つひとつの意見を福音の真理に照らし合わせて、信仰の中で心の一致と自由が与えられるように共に祈り、歩みましょう。これからの教会の歩み、教会のひとり一人の上に主の豊かな恵みがありますように。