【使徒の権威】

 ガラテヤ教会において、パウロの使徒としての権威を疑う者たちがいました。
彼らは、パウロが使徒となったのは、イエス・キリストからの直接任命ではなく、他の使徒の下で学び、任命されたと言い、パウロを批判していたのです。
このような人々の批判に対して、パウロは自分の使徒としての働きは人の教えからではなくイエス・キリストの啓示によるものだと、その正当性を訴えていました。
それを証明するために、パウロはイエス・キリストに出会ってからの自分の歩みを説明しています。
16節の後半に「私はすぐに、人には相談せず」記しています。そして彼は17節にあるように「先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行き、またダマスコに戻り」と言いました。
そして、その後どうしたかを今日の聖書箇所で記しています。
「それから三年後に、私はケパをたずねてエルサレムに上り、彼のもとに十五日間滞在しました。」(18節)
この言葉だけを聞くと、“パウロも結局ペテロに会いに行ったのではないか。それならパウロはペテロをはじめ、イエス様の弟子たちから教えられ、彼らによって派遣されたのではないか”と思うかも知れません。
パウロは「ケパをたずねた」(ケパとはペテロのことです)と言っています。たずねるということは、何かの教えや指導を受けるためではなく交わりを目的とする訪問ということです。
そして、エルサレムに上る前の三年とその後の15日の時間の比較から分かるように、パウロのエルサレム滞在は非常に短かったのです。何かの訓練や教えを受けるにはあまりにも短い時間です。今の時代の神学校の教育も3年を必要としています。
しかも、パウロはペテロとヤコブ以外に他のイエス様の弟子たちに会うことができなかったのです。
「しかし、主の兄弟ヤコブは別として、他の使徒にはだれにも会いませんでした。」(19節)
続いてパウロはこのことの真実性をこう言います。
「私があなたがたに書いていることには、神の御前で申しますが、偽りはありません。」(20節)
パウロは、自分に直接現われてくださったイエス・キリストの父なる神様の御前で誓っているのです。
“私はペテロや他の人から福音を学んだのではありません。彼らが私を使徒として任命したのではありません。そのことを神様の御前で誓います。偽りのない本当のことです”と言っているのです。
これは、パウロは最初からガラテヤ教会の人たちに語ったことです。
「私が使徒となったのは、人間からでたことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです」(ガラテヤ1:1)

パウロがペテロやヤコブに会ったことが何の意味もないことだという意味ではありません。パウロにとってペテロとヤコブに会うことは多くのことを学ぶ良い時間であったでしょう。生前のイエス様のことを、一緒に過ごしていた人から直接聞くことは大きい喜びであり、多くのことが教えられる有益なことに違いないでしょう。しかし、それでもパウロの使徒としての権威はペテロとヤコブに会ったからではないことをパウロは強調しているのです。
パウロが人から任命された者か、神様から任命された者かは今の私たちにとっても非常に重要なことです。なぜなら、私たちは彼の言葉を神の言葉として信じているからです。パウロが使徒となったのが人によるのであると、結局私たちは人の話を真理として信じていることになるからです。
パウロは人からではなく、神様から遣わされた者であります。従って、パウロが伝える福音―イエス・キリストを信じる信仰によって救われるーも神様からの恵みなのです。

【主にある教会】

「しかし、キリストにあるユダヤの諸教会には顔を知られていませんでした。
けれども、「以前私たちを迫害したものが、そのとき滅ぼそうとした信仰を今は宣べ伝えている」と聞いてだけはいたので、彼らは私のことで神をあがめていました。」(22-24)
顔を知られていなかったというのは、個人的に直截の関わりを持っていないということです。キリストにある諸教会はパウロの顔を知りませんでしたし、彼との交わりもなかったのです。
それなのに、キリストにある諸教会はパウロのことを聞いて、神様に栄光を捧げたのです。
しかも、パウロに対して彼らが知っていたことは、以前自分たちを迫害した者であることでした。
自分たちが信じている信仰を滅ぼそうとしていたということでした。
キリストにあるというのは、キリストの中にあるまたはキリストにつながっているという意味です。
キリストにある教会は、過去の姿より今キリストとつながっている姿をより大事にする共同体です。
一般的に人は、人の過去の姿、しかも自分たちを迫害し殺そうともしていた人を避けるようになり、疑うようになるのではないでしょうか。人の過去で判断してはならないとはいっても、なかなかそうにはならないのが人の心ではないでしょうか。
パウロがペテロとヤコブに会ったということは過去のパウロに対する不信感を払拭してくれたと思います。諸教会はパウロとペテロ、ヤコブが交わりを持っていたという噂を聞き、パウロに対する偏見が薄くなったでしょう。その上、パウロの語るメッセージが自分たちの信仰と同じであることを確認できると、そこからはパウロのことを自分達の仲間として受け入れていたに違いありません。
そのように彼らがパウロを認めることとなったのは、ペテロとヤコブとの交わりがあったことと共に、同じ信仰の上に立っていることが分かったからです。これが主にある教会の素晴らしい姿です。
パウロは別の個所でこのように主にある教会の姿を語っています。
「ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。……。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、身よ、すべてが新しくなりました。これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。」(第2コリント5:16-18)
人間的な標準で見ると私が外国の者であることは人々に不安を抱かせる要素にもなりえます。
しかし、藤原先生ご夫妻が共に働いておられることはその不安を払拭するのに十分な力があります。
皆さんが初めてこの教会へ来られることにおいて安心感を与えたのは藤原先生ご夫妻の存在があったからだと思います。その上に、私が主にあって皆さんと同じ信仰を持っていることが確認でき、より安心されたと思います。皆さんの安心感というのは、過去の私の姿や人間的な標準で見た私の姿ではなく、私が主につながっている者だという確信があるからではないでしょうか。この姿勢を私たちはこれからも保っていきたいと願います。そして、この姿勢は必然的に次のことへのつながると確信しています。

【神様をあがめる】

「彼らは私のことで神をあがめていました。」(24節)
キリストにある諸教会はパウロのことで神様をあがめていました。あがめるというのは神様に栄光を捧げているということです。
彼らはパウロに栄光を捧げていません。パウロの熱心や働きの素晴らしさに栄光を捧げているのではなく、神様をあがめているのです。注目されているのはパウロではなく神様です。
それは、パウロの変化が人の業ではなく神様の業だからです。
ありえないように見えたことが神様の力によってできたのです。
人々は、不可能を可能と変えてくださる神様の力をパウロを通して確認できたのです。

私たちの教会の歩みがこのようなものとなることを祈り求めます。
小さいこの群れの歩みが、同じくキリストにある諸教会の人々が神様をあがめることとなりますように。
そして、パウロを変えてくださった神様は今も変わらないお方です。
その力は衰えることなく、その知恵が底をつくこともありません。
その神様がパウロを変えて、ご自分の栄光をあらわされたように、私たちの教会を通しても同じくしてくださるに違いありません。
何故なら、私たちの教会も人の教えや教訓によって始められたのではないからです。
神様の召しによって私たちはここで礼拝を捧げるようになりました。
ここに集うひとり一人が、神様によってここへ導かれています。
これからの歩みがどのように展開されていくかを楽しみにしていきましょう。パウロが神様によって遣わされ、神様の栄光をあらわす者へと変えられたように、私たちも変えられていきましょう。
そして、常に神様にのみ栄光を帰する教会へと成長していきましょう。。
今も生きておられる全能の神様のみを頼る私たちでありますように。