「私達の出発点」

 ここで出発点というのは、原点という意味合いでの言葉です。
使徒パウロは、自分の使徒としての出発点を次のように語っています。
「使徒となったパウロー私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです」(1節)

パウロは自分のことを使徒として紹介しています。そして、自分が使徒となったのは、人によることではなく、キリストと神様によることだと語っています。パウロ自身の働きの出発点が誰によるものかを示しています。パウロのこの言葉を理解するためには、彼がイエス・キリストを証しする働きを始める前にはどのようなことをしていたかを知る必要があります。

使徒の働きを読むと、特に22章と26章でパウロは、イエス・キリストに出会う以前の自分のことに触れています。その内容は二つでまとめることができると思います。一つ目は、パウロは厳格な律法主義者であったことです。もう一つは、イエス・キリストを信じる者を迫害していたことです。
しかし、イエス・キリストに出会ってからは、復活のイエス・キリストを証しする者となっていると語っています。

それでは、何故パウロは、このことをガラテヤの諸教会へ向かって語っていたのでしょうか。
ガラテヤ地方の諸教会はパウロの伝道の働きによって建てられた教会です。当然、パウロの語る福音を信じた者達です。パウロの伝える福音の核心は信じることによって救われるということです。つまり、人が自分の罪から救われるためには、イエス・キリストを信じることしか方法がないということです。ガラテヤ教会はこの通り信仰によって救われ、建てられた教会でした。

しかし、パウロが離れた後に深刻な問題に直面したのです。救われるためには信仰だけではなく、律法を守ることも、特に割礼が必要だという人たちの教えが教会の中に入り込んだのです。そして、このように教える人たちは、パウロは使徒ではないから彼の教えはイエス・キリストの教えではないと非難していたようです。残念ながらガラテヤ教会はこのような人々の教えによって混同されてしまったのです。

それで、パウロは自分の使徒としての権威が、人ではなく、イエス・キリストと神様にあることを語っているのです。一見、権威と言いますと、この世の権力者や有力者に認められることによって得られるものだと思いがちです。しかし、復活のイエス・キリストの証し人としての権威は、この世が与えるものではありません。遣わせてくださるイエス・キリストと神様に権威の起源があるのです。

パウロは、復活のイエス・キリストに出会った体験に使徒としての出発点をおいているのです。イエス・キリストに出会ったことが救いであり、使徒としての歩みの出発点なのです。
このパウロの体験は、クリスチャンである私たちも持っているものです。つまり、私たちも復活のイエス・キリストに出会った体験を持っているのです。別の言葉で言えば、救いへの確信を持っているということです。

そして、私たちは救いへの確信を自分の力で勝ち取ったのではなく、信仰によって与えられていることをも知っています。そういう意味で、私たちもパウロのように告白できるのです。
「私がクリスチャンとなったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したのでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によるものなのです。」

そして、この告白は個人的な告白であると同時に、私達の教会の告白でもあります。私たちはキリストと父なる神様のみこころによってこの教会へ導かれています。
それで、この時間、この場所へ共に集っているのです。私たちひとり一人の出発点がキリストと神様であるように、教会の出発点もまったく同じです。

「恵みと平安」

パウロは、自分の使徒としての権威がキリストと神様からのものであること、またそれと共に次のように挨拶をしています。
「どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自分をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです」(3節、4節)
これは、恵みと平安は神様とキリストから与えられるということです。
それは、神様の御心に従ってイエス・キリストが私たちの罪のために贖いの捧げものとなってくださり、私たちを今の悪の世代から救い出して下さったからです。

ところで、パウロは当時の世界に対して、悪の世界と言っています。これは、パウロ当時の世界が特に悪に満ちていたという意味ではありません。「今の」という言葉は、「いまも存続している」という意味です。ですので、パウロだけではなく彼の後を生きている私たちの世界をもさしている言葉です。

「悪の世界」は、「罪」が支配している世界です。「罪」は私たちを神様から引き離すもので、これの支配の下にある「悪の世界」では本当の恵みと平安を得ることができません。「悪の世界」は「罪」によって神様から断絶されてしまった人の世界です。ここの人たちは神様からの恵みと平安を頂こうとしないのです。

クリスチャンになる前の私たちはこの世界で生きていた者でした。しかし、神様の御心とキリストの贖いによって、私たちはこの世界から救い出されたのです。この事実を知ることがとても大事です。

子供が子供としての恵みと平安を得るためには、自分の親を知り、親に頼るほかありません。
小さい赤ちゃんが、自分を生んでくれた親に対して、子供になるために何かを一所懸命に努力しなければならないと思うならば、そのように思わせるのが罪の力です。
すでに、親の子供であります。それなのに、子供になろうとしている。

クリスチャンになろうと私たちは努力してなったのではありません(クリスチャンとして生きようとする努力は必要です)。パウロが1節で言ったこともこのことであります。
私たちの努力によって得たものでないとするならば、それは与えられたということです。
与えて下さったのは誰でしょうか。そうです。私たちの神様です。イエス・キリストを通してです。
イエス・キリストを信じる信仰こそが本当の恵みと平安を得る唯一のものです。

私たちは、クリスチャンでありながら不安や心配の中で生活しているでしょうか。
それなら、もう一度私たちの救いが誰から与えられたかを思い出しましょう。私たちの出発点がどこであったかを覚えましょう。そして、私たちが私たちを救ってくださった方への信頼を持つ時、恵みと平安が満ち溢れる生活になると信じます。

パウロはガラテヤ教会の人々に、恵みと平安は、善い行いや特定の決まりによって得られるのではなく、キリストを信じる信仰によるものだと教えているのです。これは、今の私たちにも全く同じです。このパウロの言葉を良く吟味して、私たちも恵みと平安で満ちあふれる生活を過ごしましょう。

「神様に栄光を」

パウロは挨拶の中で、キリストの贖いを信じる者が受ける恵みと平安が豊かにあるように、また同時に神様をほめたたえることばも語っています。
「どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン」(5節)
パウロは何故、神様に栄光を帰せることばを述べているでしょうか
それは、彼が人の力や助けによって、救われ使徒になったのではないからです。
神様によって、キリストによって救われ使徒となったからです。

もし、彼が自分の力で救われたのなら、神様に栄光を帰せることはしなくて良いでしょう。
もし、人の助けや力によって救われたのであれば、助けと力を貸してくれた人をたたえるべきでしょう。
パウロは自分の歩みの原点が神様にあることを知っていましたので、神様に栄光を帰せることをも忘れていないのです。

これは、私たちにとっても同じではありませんか。
神様の御心とキリストの贖いによってクリスチャンになった私たちも、神様に栄光を帰せることを忘れてはならないのです。
もし、私たちの歩みが神様に栄光を帰せることへつながっていないのならば、もう一度私たちの出発点を思い出しましょう。

同様に、私たちの教会の出発点をももう一度思い出して下さい。
私たちの教会は、神様の御心によって与えられています。キリストの贖いを信じる人々が神様の導きによって集っています。このことは人から出たのではなく、人の手を通したことでもないのです。

もちろん、多くの方の祈りとご協力、お助けが与えられています。私はこのことを心より感謝しています。
しかし、そのようなものは出発してから与えられた貴いものであって、それらが教会の歩みを出発させたのではありません。
従いまして、私たちの教会は神様に栄光を帰せることを何より大事にしているのです。

私たちの出発点を知ることは、私たちがキリストの恵みと平安の中で生きることへ導いてくれます。そして、神様に栄光を帰せる歩みへと導いてくれるのです。様々な出来事が私たちの前に立ちはだかると思いますが、私たちの出発点を忘れずに、信仰の中で歩めば、必ず神様の栄光をあらわす恵まれた人生となることを強く信じています。この信仰をもって共に歩みましょう。