「主よもし、あなたでしたら」

 嵐の夜に、漂流していた弟子たちにイエス・キリストが近づいて来られました。
そして、彼らにご自分であることを告げられ、彼らを安心させられました。
しかし、まだ強風が吹いているという状況は何も変わっていません。舟はすぐにでも転覆しそうに揺れているのです。暗闇の中ですから、自分たちに声をかけている人がイエス様であるかどうかも目で確認することができません。
この最中、ペテロが叫びます。
「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになって下さい」(28節)
このようなペテロの叫び。少し意外であると思いませんか?
まだ嵐の中にいるのです。強風と高波が舟に襲い掛かっています。そこにイエス様が現れました。
私達だったならば、何と叫ぶと思いますか?
「嵐が静まるようにしてください。私達の舟が転覆しないように助けて下さい。早く助けて下さい」
恐らくこのように叫ぶでしょう。
そう思うと、ペテロの言葉はやはりとても意外であります。
「もし、あなたがイエス様でしたら、私に命じて、水の上を歩きあなたのところへ行けるようにしてください」。もし、私が舟に乗っていた者のひとりであるならこう言ったと思います。
「ペテロ、何を言っているか。早く嵐がやむように求めるべきでしょう。あなたの願いは間違っている。」と。
しかし、イエス様はこのようにペテロに言われていないのです。
「イエスは来なさいと言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。」(29節)
「来なさい」と言われています。
意外と思われるこのペテロの願いをイエス様は受け入れてくださっているのです。それで、ペテロは勇気をもって舟から出て水の上を歩き、イエス様の方に行きます。
危機的な状況の中だと、とにかく危機から逃れようとするのが普通ではないでしょう。しかし、ペテロの行動はそれとは違うものです。一見、無謀にも思われることをイエス様が受け入れてくださるというのは、これを通して何かを教えようとするイエス様の意図があるように考えられます。
もう一度ペテロの言葉に耳を傾けましょう。嵐の中で、イエス様の声を聞いて彼が真っ先に発した言葉は、「もし、あなたでしたら」です。ペテロは自分たちに近づいて声をかけてくださるのがイエス様であることを確認しようとしています。ペテロの一番の関心事はイエス様であります。
そして、それを確認できる方法が、水の上を歩くようにとイエス様から命じられることでした。
イエス様は、ペテロにご自分であることを確かめさせてあげるために彼の願い通りに命じられたのです。
危機というのは、私たちの心を奪い、私たちの視線を神様から離させるのです。しかし、ペテロの願いとイエス様の応答から教えられることは、私たちの視線をイエス様に固定することの大事さです。
ペテロが舟から出ることができたのは、イエス様から目を離すことをせず、もっぱらイエス様を求めていたからです。そして、無謀にも見えるこの願いと行動が、かえってイエス様の力を体験することとなったのです。危機である状況が、イエス様の力を確かめる個人的な体験となる素晴らしい機会となったのです。
私たちの歩みの中で危機に遭う時、それはイエス・キリストを信じる者に与えられる神様の力を個人的に体験するよい機会であることを信じましょう。そして、私たちはその経験を通して、より強い信仰をもって力強く歩むことができるようになります。

「失敗もあり」

 イエス様の「来なさい」という命令を受けてペテロは水の上を歩いてイエス様の方へ行きました。そして、イエス様がおられるところまで水に沈むことなく行けたらよかったですが…。
次のことがこのように記されています。
「ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、主よ助けてくださいと言った。」(30節)
水は、イエス様の力をあらわすもの(水の上を歩く)ですが、同時にいのちを脅かすもの(沈みかける)にもなります。このように分かれる理由は何でしょうか。
それは、恐れです。ペテロは風を見てこわくなったのです。それで、沈みかけたのです。
このようなペテロに対してイエス様のこのようにおっしゃいました。
「信仰の薄い人だ。なぜ疑うのか」(31節)
イエス様は、ペテロの信仰が問題だとおっしゃっています。ペテロが疑ったのだとおっしゃっています。
「疑う」という言葉には、‛二つの立場をとる’という意味があります。
一つの立場にしっかり立つのではなく、時にはこの立場、別の時には違う立場に立つということです。
ペテロはイエス様の力を信じる信仰と風の力を恐れる不信仰、両方の立場に立っていたのです。
しかし、イエス様が求められるのは、イエス様の力を信じる信仰だけです。疑うことに対して、イエス様はペテロを叱責されています。
ペテロは最後までイエス様に信頼を置けばよかったのに、それができなくなって沈みかけたのです。私たちも危機の中にいると、時には怖くなってしまい、イエス様を見失うことがあるでしょう。もちろんそのようなことがないのが一番ですが、私たちはペテロのように沈みかけることがしばしばあるのではないでしょうか。
そのような時に私たちがすべき唯一のことは神様に助けを求めることです。水に沈みかけたペテロは、「主よ助けてください」とイエス様に助けを求めました。
ペテロは自分の力で、水から抜け出そうとしていません。助けを求めたのです。
このペテロの助けを求める声に、イエス様はこのようになさいました。
「そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた」(31節a)
「すぐに」ということばに注目したいと思います。沈んでいくペテロを見ながら、見て見ぬふりをされていません。「なぜ疑ったのか」と叱責してから手の伸ばしたわけでもありません。イエス様はすぐに手を伸ばして下さり、手をつかんでくださっているのです。
危機は信仰の素晴らしさを豊かに体験できる機会であります。それだけではなく、危機の中で失敗した時にすぐに助けの手を伸ばしてくださる神様の愛と恵みを豊かに体験する機会でもあります。私は、すぐ手を伸ばしてペテロの手を掴んでくださるイエス様の姿に、とても感動しました。まず叱り、しばらく反省させてから助けるのではなく先に助けてくださるその心に、大きい励ましと慰めを受けました。
危機は私たちを滅ぼすことができません。時には私たちが死んでしまいそうな危機、苦しみがあるでしょう。しかし、ペテロにすぐ助けの手を伸ばしてくださったイエス様のように、神様は私たちを必ず助けてくださるのです。危機の中にいる時、真っ先に神様の助けを呼び求めましょう。神様はすぐに私たちを助けてくださいます。繰り返し言いますが、危機はこの神様の助けを豊かに体験できる素晴らしい機会です。

「確かに」

ペテロを助けてくださったイエス様はペテロと共に舟に乗り移ります。
「そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、確かにあなたは神の子ですと言った」(32-33節)
ペテロを連れてイエス様が舟に乗ると風がやんで、波も穏やかになりました。これを見ていた、舟の中にいた者たちはこのように告白します。
「確かにあなたは神の子です」と。
ペテロを水の上を歩かせ、沈みかけた時に助け、風を静まらせるイエス様の力を目撃した者たちは、イエス様が神様の子であることを疑う余地のない事実として告白しています。
人の力ではどうしようもできない嵐を静まらせるイエス様の力を経験した者たちは、自分たちとイエス様の違いをはっきりと悟ることができます。そして、その悟りはイエス様が神の子であることの確かな信仰告白となります。危機は、神様が人とは違うお方であることがはっきりと示され、より確かな神様への理解を持つことができる機会です。
もう一つ注目したいことがあります。舟の中にいた者たちとペテロの信仰告白との差異です。
ペテロの告白は「あなたは生ける神の御子キリストです」(マタイ16:16)
「あなたは、キリストです」(マルコ8:29)、「神のキリストです」(ルカ9:20)
ペテロの告白には、「キリストです」という言葉が必ず入っています。
キリスト、つまり救い主です。ペテロはイエス様が神の御子であることだけではなく、水に沈みかけていた自分を救い出してくださった救い主であることを告白しています。
舟の中にいた者たちより、ペテロはより個人的に救い主への体験を持っていたのです。この体験が彼の告白と舟の中にいた者たちの告白との差の理由だと私は思っています。
危機は確かな神様への信仰告白ができる機会です。しかも、ある者にとってはより個人的な信仰体験を与える機会であります。
イエス・キリストを信じる私たちはこのような体験を持っている者たちです。そして危機の中から救い出してくださる神様の愛と恵みをより豊かに体験できることを切に願い求めます。私たちの歩みの中で遭う危機は、より確かな信仰を持って力強く生きることができるように与えられた神様からの機会です。この信仰をもってこの一年間も共に歩み続けようではありませんか。