「イエス様のなさった行動」

 「予期せぬ」という言葉の意味を辞書で調べてみたら‘考えもしなかったこと’と記されていました。
「予期せぬ」ことには、二つの側面があると思います。
私達にとって素晴らしいと思える出来事とそうでない出来事があると思います。
今日の聖書箇所のすぐ前の部分には、私たちが考えることもなかった素晴らしい出来事が記されています。
五つのパンと二匹の魚で男性の大人だけでも五千人の人がお腹いっぱい食べることができました。誰がこのようなことを予想できたでしょうか。この素晴らしい出来事は恵みであります。
しかし、今朝私達に与えられている御言葉にはこのような素晴らしい出来事とは違ったことが記されているのです。
苦しみと恐れの出来事が記されています。
しかし、神様を信じる私達にとって、予期せぬ素晴らしい出来事も、またそうではない出来事もすべてが恵みであります。このことを考えながら神様の御言葉に耳を傾けたいと思います。

さて、御言葉にこのように記されています。
「それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ、ご自分は、その間に群衆を解散させておられた」(45節)
「それから」と言うのは、五つのパンと二匹の魚で五千人の人が満腹に食べた後のことです。
この素晴らしい奇跡の後にイエス様がなさった行動が記されています。
すぐに、そして強いて弟子たちを舟に乗り込ませて、群衆を解散させられたのです。

私がもしこの場所にいたならば、少し首を傾げていたと思います。五つのパンと二匹の魚で五千人が食べるという奇跡の場所です。このことを目撃したならば、この素晴らしく、予想もできなかった出来事に喜び、興奮していたと思います。そして、出来ればこのような素晴らしい奇跡をより長く味わいたいと願ったことでしょう。多くの人のお腹が満たされ、その一役を自分達も担っていることに誇りを持っていたと思います。夢のような気分と言えるでしょう。
しかし、イエス様はこのような良い気分に冷たい水を差すようにそこから離れるようにと言われたのです。
私がもし弟子の一人であったら、しぶしぶ、まだここに居たいのにとつぶやきながら舟に乗ったかと思います。もし、皆さんならどうでしょうか。
しかも、その場所から離れることも納得できないのに、イエス様は彼らと違う方向に行かれるのです。聖書はこう記しています。
「それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山の方に向かわれた」(46節)
イエス様ご自身は弟子たちと舟に乗るのではなく、山の方に行かれたのです。
弟子たちは誰も言っていませんでしたが、きっと自分ならこのようにイエス様に言っていたのではと思います。‘おや!イエス様は一緒に舟に乗らないのですか。私達と一緒に行かれないのですか’と聞きたくなります。
素晴らしい奇跡が起きたこの場所からせっせと離れるのも嫌なのにイエス様は同行されないのですから。
恐らく、「すぐに」と「強いて」という言葉から弟子たちも私のような思いであったかもしれないと思わされます。
しかし、弟子たちはイエス様に従ってその場を離れ、舟を出して向こう岸へと向かいました。

「従った結果」

問題はここからなのです。
心の中には納得できないものがあったとしても彼らはイエス様に従い舟を出したのです。
「夕方になったころ、舟は湖の真ん中に出ており、イエスだけが陸地におられた。イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった」(47-48節)
舟を出して、湖の真ん中まで進んだのです。ここまでは良かったです。しかし、強風が吹き湖が荒れ始めたのです。船を漕いでもなかなか前に進まないのです。
‘イエス様のお言葉に従って舟を出したので、この強風はないでしょう。この荒波は嘘でしょう。’ と言いたくなるではありませんか。
私達だけを舟に乗り込ませておいて、イエス様は私達のことを顧みてくださっていないのではないかと。
だから先の場所から離れたくなかったのだ。せっかく、イエス様のお言葉だから従ったのにこの様かと言いたくもなるような場面ではありませんか。
弟子たちの苦しみは、荒波に悩まされていることと共に、イエス様のお言葉に従ったのにもかかわらず苦しみにあってしまったこと、そして、その場にイエス様がおられないことにあったのではないでしょうか。
いったい、イエス様は何をされていたでしょうか。46節の御言葉から分かることはお祈りのために山の方に行かれたことです。そして、48節にはイエス様が弟子たちの様子を「ご覧になり」と記されています。嵐と格闘している弟子たちをイエス様はご覧になったのです。
祈られるために山に登り、そこで弟子たちをご覧になったのです。イエス様は弟子たちのために祈っていたことでしょう。彼らをご覧になり祈られていたということは、この一連の出来事がイエス様の意図の中で起きていたということが分かります。わざわざ素晴らしい奇跡の場所から彼らを離れさせ、嵐に遭わせるのは、私達の視点からは予想できぬことでありますが、イエス様はすでに何かの意図をもってこれらのことをお許しになったということが分かります。

「イエス様の意図とは」

それでは、イエス様はどのような意図を持っておられたでしょうか。
まず、このことをよく考えてみましょう。
弟子たちが舟を出したのは夕方であります。そして、イエス様が彼らの方に来られたのは夜中3時です。
そうすると弟子たちはかなり長い時間嵐と格闘していたことになります。

何故、イエス様はすぐ彼らのところに来られて助けて下さらなかったでしょうか。
弟子たちは漁師です。舟を操ることにおいては専門家です。彼らが暗くなった時間帯に舟を出したということからも舟を操ることへの彼らの自信をうかがえるのです。ある程度の強風なら自分たちの力で対応できるとも思ったかもしれません。しかし、この予期せぬ嵐の前で、彼らは自分たちの無力さを痛切に実感することになりました。

実はイエス様は、彼らが悟っていないとても重要なことを教えようとしていたのです。
52節にはこのように記されています。
「というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである。」
「心が堅く閉じていた」というのを別の訳では、「彼らの思いは鈍くなっていた」と書かれています。
これは、彼らがイエス様のことを自分たちの欲求を満たして下さる偉大なる人物としか思っていないことを意味しています。まるで、自分たちの必要を満たすためにイエス様の存在を必要としている人々のようです。
残念ながら弟子たちは、イエス様が救い主であり神様であることは悟っていなかったのです。
しかし、イエス様はこのような弟子たちの思いを知り、彼らにご自身が神様であることを悟らせようとされたのです。そのために、イエス様は弟子たちをすぐに、強いて、そこを発つように命令され、そして、嵐の中に彼らをおかれたのです。

人の視点からはこのようなイエス様の意図を知るのは難しいでしょう。しかし、この弟子たちのことから私達が教えられるのは、私達の遭う予期せぬ出来事には必ず神様の意図があるということです。
もちろん、私達がそれをすぐ悟るのは難しいかもしれません。しかし、神様側にははっきりとしたご意図があります。
イザヤ55章にこのように記されています。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道はあなたがたの道と異なるからだ。主の御告げ。天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いはあなたがたの思いよりも高い。」(8-9)
私達に起こっていることはすべて神様のお許しがあるから起こっているのです。
そして、神様のお許しがあって起こっているのであればそれには必ず神様の意図が、目的があります。
それは予期せぬ苦しみかも知れません。また苦しみの中にいる時には、神様が共におられないように思われるかもしれません。しかし、イエス様が嵐の中で悩んでいる弟子たちをご覧になったように、私達の苦しみをも神様はご覧になっておられるのです。
そして、神様ご自身の力をもって助けて下さり、ご自身が神であることを教えて下さいます。
2016年、この新しい年は、私達が願っても願わなくても与えられるものです。私達は舟に乗り込ませられて湖の真ん中に出された弟子たちのように、新しい年という湖に漕ぎ出なければなりません。その時予期せぬ嵐が私達を襲ってくることがあるかも知れません。その時、今日の御言葉を覚え、神様に助けを求めましょう。神様は必ず私達を助けて下さり、ご自身が神であることを私達に悟らせてくださいます。私達が神様の力を豊かに体験するこの一年となりますように祈り求めます。